《4》敷かれたレール

 翌日、月曜。

 スマートフォンに、木乃田店の店長からメッセージが入った。


『ここ最近、何度かいらしてるの』

『那須野さんの直属の上司なんだよね、彼』

『閉店間際とか、スタッフが少ない時間帯にいらっしゃることが多かったの』


 合点がいく。

 だから昨日、沓澤課長が店内に入ってきたとき、店長は少し驚いたような顔をしていたのか……いや、それよりも。


 複数回、行ってるんですか?

 柚子はちみつ味の飴を買うために?

 車で下道を走り慣れていたのは、もしかしてそれが理由?


 ……沓澤課長、口内炎、大丈夫かな。

 前回よりも真剣にそう思った。



     *



 沓澤課長は、私たちの関係を終わりにしようとは言わなかった。私もなにも切り出せなかった。

 解放されたいわけでも、終わりにしたいわけでもない。今のままがいいだなんて、自分のご都合主義にはもう溜息も出ない。


 どんな顔で出社すればいいのか、近頃はほぼ毎日悩んでいる。

 彼の出張期間中とは真逆の悩みに、私は日々グラグラと揺れ続けてばかりだ。そんな私とは対照的に、沓澤課長の態度は一切変わらない。

 沓澤課長が長期出張から戻ったタイミングに合わせて再燃していた例の噂も、だいぶ下火になった。既出の噂だからか、初めて広まり出した頃に比べて鎮静は早かった。


 元々が、他人の恋愛事情にスポットの当たった、真相の判然としない噂だ。ああでもないこうでもないと、格好のゴシップネタに沸き立っていたうちの大多数が関心を失ったと思われた。それでなくても、ひとときの噂なんて、新しい話題が出てくればすぐさま過去のものとなる。

 ただ、一部の女性陣――沓澤課長に特別な感情を寄せる人たちは違った。

 直接は問われない。そこまで至ったことはまだない。けれどそれは単に運が良いだけにも思えるし、悪意のこもった視線を受け止めるだけでも精神的なダメージは大きい。


 その日の帰宅も沓澤課長と一緒になった。

 嫌がらせを受けたら隠すなと、以前強く言われたことを思い出す。報告しておいたほうがいいかと口を開きかけたとき、わずかに早く、沓澤課長が話を切り出し始めた。


「あの。前にあんたに食ってかかった、菅野のことだけど」


 急に飛び出した彼のかつての恋人の名前に、びくりと背筋が震えた。

 彼女を〝杏奈〟と名前で呼んでいた彼が、今はそうしなかった。救われた思いがして、しかし次の瞬間には勘違いを促されてでもいるような気分に陥り、返事に詰まってしまう。


「手は打っておいた。話、つけてあるから安心してくれ」

「……え?」

「嫌な思い、させただろ。悪かった」


 間もなく午後六時だ。辺りはもうかなり暗い。遠い街灯に照らされた沓澤課長の表情は、ひたすら甘くて優しかった。

 ふるりと背筋が震える。試されているかもしれない不安は、私を食いちぎらんばかりに肥大し、息苦しさが増していく。


「どうやって、ですか」

「彼女はお前が思ってるような人じゃないって言った。正式に付き合ってるとも」


 ずきりと胸が痛んだ。

 正式に付き合ってる――そんな嘘までついて、あなたはなにがしたいんだろう。


「……あの」


 なんなの。私たちって、なに。

 二度のキスと、とっくに消えたキスマークと、回数だけ重ねられる曖昧な抱擁と……それしかない。中途半端な関係に余計な言葉ばかりつけ足されて、順調に嘘が嘘で塗り固められていって、私の気持ちだけが置いてきぼりになる。


 心底、嫌気が差す。

 沓澤課長が好きだ。好きだから、優しくしてほしくなくなる。


 沓澤課長は分かっていない。私が、勘違いを強引に突き通してしまいそうになっていることも、本当の恋人にしてほしいと願っていることも、なにも。

 だから私にそんな顔を晒していられる。私が、もっといろいろなあなたを知りたいと思っていることを知らずに。

 少しだらしないジャージ姿と眼鏡と寝癖、そういう沓澤課長ももっと見たい。私だけに見せてほしい。仕事で行き詰まって堂々巡りになっているときのしかめ顔も好きだ。柚子はちみつの飴をせびってくるところだって、最初は鬱陶しさしか感じなかったのに、今ではこんなにも待ち侘びている。


『ゆず、ちょうだい』


 その声を、もっと聞きたいと思ってしまっている。

 たとえ私を呼んでいるのではなくても、彼の口がその音を紡いでくれるだけで心地好い。好きで好きで胸が痛むくらいで、なりふり構わず泣き出したくなる。


 目の奥がちくりと痛み、思わず瞼を押さえた。

 空気も読まずにこのタイミングで泣き出しそうな自分を、心の底から嫌いになりそうだ。


「……那須野? どうした?」


 心配そうに腰を屈める沓澤課長は、まるで恋人の心配をしているみたいだ。

 ただの恋人役のことを、どうしてそこまで気に懸ける。今にも、ひどい言葉や卑屈な言葉をぶつけて罵ってしまいそうになる。


 恋人になんてしてくれない癖に。私を利用しているだけの癖に。

 そういう言葉を投げつけたら、沓澤課長はきっと傷つく。傷つけばいい、苦しめばいい、そう思ってしまう自分自身に私はまた自己嫌悪だ。


 最悪の、ループ。


「すみません、なんでもないです。今日はこれで失礼します」


 口角を上げるだけの作り物の笑顔を、近頃いつも浮かべている。

 分かりやすい嘘――それしか、私はこの人に抗う術を持っていない。



     *



 三日後、木曜。

 沓澤課長は、明日からの出張に合わせて午後から休暇を取っていた。


 ひとりで帰宅する機会は一時期よりは増えていたし、果歩に声をかけてそのまま夕食へ出かけることもある。けれど今日、果歩は捕まらなかった。

 残業する必要もなく、定時で退社する。沓澤課長の昇進以来、以前よりもさらに残業時間は減っていた。私だけでなく、営業課に属しているスタッフはほぼ全員がそうだ。課内に加え、営業部全体の残業率が大きく見直された結果らしい。


 ぼんやりと階段を下り、最後の一段を過ぎたそのとき、不意に背後から声がかかった。


「ねぇ。那須野さん、だったわよね?」


 こんばんは、と続いたキーの高い声には聞き覚えがあった。俯けていた顔を上げた先には、薄手のコートを羽織った小柄な女性の姿が見えた。

 息を呑む。

 菅野杏奈――あのパーティーの夜、挑戦的な視線で私を射抜いてきた美女の突然の登場に、私は反射的に固まってしまう。


「あ……ええと、沓澤さんにご用でしょうか?」

「違うわ。あなたに会いにきたの。時間、少しもらえる?」


 高圧的な声だったけれど、悪意は見出せなかった。

 断ればすんなり引き下がってくれる気さえした。でも。


「……はい。大丈夫です」


 軽く頭を下げて応じると、菅野さんはほっとしたような顔を覗かせた。

 向かった先は職場近くのカフェだ。昼の休憩や帰社後に果歩とよく向かうそこで、好きな相手の元恋人と対面している自分が不思議で堪らない。

 オーダーしたカップを手に、さっと見渡して空席を探す。平日の夕方、普段なら学生や仕事帰りの会社員で混み合う店内は、今日に限って珍しく席に余裕があった。


 テーブル席を選び、向かい合って座る。

 菅野さんは、飲み物というよりはデザートに近い、生クリームとシューがふんだんに載ったコーヒーを頼んでいた。私は普通のホットコーヒーだ。

 カップの蓋にストローを差し込みながら、菅野さんはにっこりと微笑んで口を開いた。


「びっくりしたわ。奏ったら本気みたいね」

「……あの。以前もお伝えしようと思ったんですが、私は沓澤さんとお付き合いをしているわけでは」

「あら、そうなの? 奏の話と違うじゃない」


 ストローでクリームを崩しつつ、菅野さんは驚いたような声をあげた。

 そういえば先日、沓澤課長はこの人に対して『話をつけた』と言っていた。今頃になってそのことを思い出し、菅野さんはその件について話しているのだと気づく。

 納得できないと言わんばかりの顔を隠しもせず、菅野さんは手元のプラスチックのフォークを、生クリームの上に載ったシューへ突き刺す。サク、と小気味好い音を立てたシューを口に運んだ後、今日聞いたどの声よりも細い声で、彼女はぽつりと呟いた。


「私ね、来年結婚するの。今どき笑っちゃうけど、政略結婚ってやつよ」


 俯けていた顔をわずかに上げると、物憂げな顔の彼女と目が合った。

 その顔を見て、この人は確かに私より年上なのだと改めて思う。残りひとつのシューをサクサクと崩す菅野さんは、独り言のようにぽつぽつと呟き続ける。


「時代錯誤も甚だしいわよね。でも駄目だった。親に逆らいきれなかった」

「……菅野さん」

「奏と付き合ってた頃は……ってもう十年以上前なんだけどね、あの頃はお見合いの話なんて全然なかったの。私と奏が付き合い始めて、パパもママも嬉しそうにしてた。あの人たちから見たら、今も昔も奏は大手の得意先の息子だもの。当然よね」


 そんな両親に、自分たちが抱える感情の詳細は関係ない。沓澤の息子と自分たちの娘、ふたりの仲が良ければ都合がいい。それだけ。

 奏くん、よく来たね、ゆっくりしていって、また来てね――そういう言葉の全部に、薄汚い思惑が潜んでいる。それが嫌だった。汚らわしくて反吐が出そうだった。

 そう語る菅野さんの口調は、私に話しているというよりは、まるで自分自身に語り聞かせているようだった。


 ……私を呼び出してまでしたかった話がそれなのか。訝しく思ったけれど、だからといって一方的に話を切り上げるわけにもいかない。

 沈黙をもって続きを促すと、彼女はやはり物憂げな目で薄く微笑んだ。その笑みがどことなく、沓澤課長がよく浮かべる笑みに似て見えた。


「奏のどこが好きなのか、分からなくなった。親が美味しい思いをするだけな気がして、苛々して、憂鬱で仕方なくなって、……別れたの。奏から見たらとんでもない我儘女だっただろうなって、いまだに思う」


 くしゃ、とシューが崩れ、彼女のフォークが動きを止める。

 テーブルに零れたシューの残骸を、菅野さんは焦点が合っているのかいないのか分かりにくい、ぼうっとした眼差しで見ていた。


「あなたは私が持ってないものをたくさん持ってて、自由に見えた。だからあの日、すごく苛々したの。気分を害するようなことを言ってしまって、ごめんなさい」

「……いいえ」

「奏は、私があなたたちの邪魔をしたがってるって思ってるみたいだけど、そんなことしないわ。一応これでも結婚を控えてる身だし」


 菅野さんの声が、打って変わって明るくなる。

 無理をしてその声を作っているのではと思ってしまった私は、その艶やかな口元から目を離せなくなる。


 菅野さんは、その結婚相手が、好きですか。

 純粋な興味だけでそれを尋ねるのは抵抗があった。先刻の視線を思い返せば、きっとそうではないと容易に想像がつく。そうと分かっていながら尋ねるのはあまりに残酷に思えて、私にはできそうになかった。


 菅野さんは私たちの邪魔をしないという。

 だけど、邪魔もなにも、そもそも私たちは。


「あの、菅野さん。本当に、私たちは付き合ってなんて……」


 思わず目を押さえた。

 最近、これ、多い気がする。目の奥がちくちく痛んで、息が詰まって、なにもかもが嫌になってくる。


 こんなところで泣きそうになるなんて、みっともない。

 それでも、滲む涙を自分の意思で止めることはできそうにない。

 途方に暮れかけた、そのときだった。


「ふふ、馬鹿な男。全然伝わってないじゃない」


 嘲りの滲む笑い声に、はっと正面へ向き直る。

 一瞬、それが自分に向けられた声かと思ってひやりとしたけれど、彼女ははっきり〝男〟と言った。露骨な呆れの浮かんだ顔を見て、ようやく私は、菅野さんが沓澤課長のことをそう評しているのだと気づく。


 テーブルに崩れ落ちたシューの破片へ、不意に自分が重なって見えた。

 菅野さんの目にはどう見えているだろう。残骸じみたそれに、なにかを、誰かを、彼女は重ねて見ているだろうか。


 残ったコーヒーを、菅野さんはストローを使わず豪快に飲み干した。意外な所作に呆気に取られた私を見てふふんと悪戯っぽく笑った菅野さんは、思いのほか楽しそうだ。

 新たな一面に見えたそれこそが、もしかしたらこの人の本質なのかもしれないと、なんとなく思う。


「時間、わざわざ取ってくれてありがとう。気が晴れたかもしれない」

「……はい」

「ふふ。優しいのね」


 私も残りのコーヒーを飲み干し、ふたり一緒に店を出た。

 じゃあね、と颯爽と去っていく菅野さんの後ろ姿が完全に見えなくなるまで、私はその場を離れられなかった。


 結婚するって、どういうことなんだろう。

 微かな儚さを孕んだ、諦めたような菅野さんの微笑みが、頭から離れない。


『今どき笑っちゃうけど、政略結婚ってやつよ』


 好きでもない人と。他の誰かのために。

 そんなものはドラマや映画の中だけの話だと、心のどこかで思っていた。でも、実際にそういう世界に生きている人もいることを、まざまざと見せつけられてしまった。

 どこか別の世界の話のようで、しかし実際に物憂げにフォークを動かしていた菅野さんはその世界の住人で、私の前で諦めた顔で笑って……悲しくなってくる。


 もしかしたら、沓澤課長も同じなのではないか。

彼は、社長の息子だから会社を引き継ぐ、ということに抵抗を覚えている。決められたレールという表現は使い古されているのかもしれないけれど、それを思えば、沓澤課長と菅野さんが置かれている状況はよく似ている。


『あなたは私が持ってないものをたくさん持ってて、自由に見えた』


 ……私が?

 分からない。急にそんなことを言われても、ピンとこない。


 自分を自由な人間だと意識したことなんて、今までになかった。それはきっと、菅野さんが私に見出した自由が、私にとっては至極当然のものでしかないからだ。

 菅野さんが置かれた状況について想像すら及ばせられない私は、彼女の言葉にイエスもノーも返せず、呆然と座り続けているしかできなかった。


 例えば、私が沓澤課長と正式にお付き合いをすることになったら、果たして私は彼を支えきれるだろうか。

 自分の気持ちと向き合うだけで精一杯の私に、すぐにその答えは見出せそうにない。彼が置かれている環境は、彼自身の希望さえ通らないことがあるほどに厳しい世界だ。私の好きな人はそういう世界に生きている人なのだと、改めて思う。


 支えていけるのか。寄り添っていけるのか。

 そもそも、誰かが誰かを支えて生きるってどういうことだろう。家族であること、恋人であること、友人であること――正解はいくらだってある気がする。


 生きる世界が違っても、本質はなにも変わらない。けれどそれ自体が難しいのだと、いまさらながらに思い知る。

 立場の違い。身分の違い。生きる世界の違い。社内でのやり取りを繰り返すだけなら、不安も抵抗もなにも感じなかった。でも。


 玉の輿なんて、私には到底狙えそうにない。

 卑屈な意味ではなく、彼らが背負っているものや、背負っているゆえの苦悩を、分かち合ったり分け合ったり――そんな想像をうまく働かせられないという、それがすべてだ。


『全然伝わってないじゃない』


 菅野さんの呆れ声を思い出す。私ではなく、沓澤課長に向けられた呆れ。

 沓澤課長は、なんのために菅野さんにあの嘘をついたのか。私を嫌がらせや中傷から守りたいなら、私を手放してくれればいい。沓澤課長が好きな私は、そうされたら絶対に傷つくけれど、生殺しに等しい優しさを与えられ続けるよりはずっとましだ。でも。


 ……いい加減、帰ろう。

 溜息をついたら、中途半端に揺れる自分の中のなにもかもが、そのままガラガラと崩れ落ちてしまいそうだった。

 開きかけた口を強引に閉じ、私は帰路に就いた。

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