《3》嘘をすり抜ける

 その後は、支社に用があるという沓澤課長に付き合って支社の駐車場で数分待って、そして車は帰路を進み始めた。

 行きの道は電車に揺られて一時間、それからあちこち寄りながら歩いて二、三十分かかった。急がずに過ごそうと思っていたから、その間、特に時間を気にすることはなかったけれど。

 この後の予定を訊かれ、「なにもないです」と答える。そういえば実家に寄ろうと思ってたんだっけ、とぼんやり思い出したものの、口には出さなかった。


 この車の助手席に乗るのは、今日で三度目だ。さっきも同じことを思った。

 ぼうっとしている時間が長くなればなるほど、過去二度のこの車内での彼との接触を、意識しなくても思い出してしまう。

 高速道路へは向かわず、下道を選んだようだ。沓澤課長はナビに頼ることなく、かつスムーズに車を走らせている。何度かこの道を走った経験があるのかもしれなかった。


「俺がいなかった間、嫌がらせはされてないか?」

「……それは、大丈夫です」

「ならいい」


 心配だったなら、出張の間、一度くらい連絡をくれても良かったんじゃないですか。

 喉まで出かかったその言葉を、私は無理やり呑み込んだ。笑いを含んだ囁きが脳内をぐるぐると回り続け、ひとりで勝手に気恥ずかしくなる。冷静さを取り戻したくて俯いた矢先、隣から独り言じみた声が届いた。


「よく考えたら……つーかよく考えなくても、あんたに得、なんにもねえな」

「はい?」

「恋人役」


 赤信号に合わせて停まった車と一緒に、沓澤課長も話を止めてしまった。

 正面を向いたままの横顔を、不躾なほどに見つめる。私の視線に沓澤課長が気づかなかったわけはきっとなくて、それでも目を逸らせなかった。


 職場の上司という仮面を外したオフの顔。いつもより幼く見える横顔。

 彼がそれを私に晒していること自体が不思議で堪らない。勘違いに拍車がかかってしまいそうで、私は引き剥がすように視線を彼から外し、口を動かした。


「そうですけど……でも私、沓澤さんが四苦八苦しながら真面目に働いてるところを眺められて楽しいですよ」

「はァ!? 楽しいって……人が懸命に働いてんのをあんたはなんだと思って」

「あっすみません、語弊がありますね。楽しいというか、なんというか……楽しいです」

「言い直せてねえよ!」


 あはは、と声をあげて笑う。

 沓澤課長も楽しそうに笑っていて、それなのに結局今日も結論は出ない。私たちの関係は相変わらず宙ぶらりんで、それでいいと思う私とそれでは嫌だと思う私がせめぎ合い、そんな忙しない内心ごとごまかすためにまた笑う。


 息苦しい。でも今はこれでいい。これ以上は考えたくもなかった。

 山間に近い県境を通過し、いくつもトンネルをくぐり、電車の車窓から覗く景色とは違ったそれをぼうっと眺める。

 時刻は午後四時を回っていて、辺りは薄暗かった。このところぐっと短くなった日の長さに、改めて季節の移り変わりを肌で感じ取る。


「……それから、あんたにはまだ話してなかったんだけど」

「はい」

「あいつ、もうひとつ余計なこと言っただろ。長谷川商事のパーティーのとき」


 あいつ、という呼称が菅野さんを指していると気づくまで少し時間がかかった。〝もうひとつの余計なこと〟の正体にも首を傾げてしまう。

 溜息交じりに口を開いた沓澤課長は、なぜか傷ついた顔をして見えた。


「継がないかもしれないって話は、血縁を理由に会社を継ぐことを了承してないっていうだけだ」


 沓澤課長の父親である沓澤社長は、息子を含めた家族からの助言により、ネット販売へ新規参入する意思を固めた経緯があるという。それ以来、社長は当時高校生だった沓澤課長の発案やセンスに一目置くようになったらしい。

 対する沓澤課長は、大学を卒業した後に社長に声をかけられながらも大学院へ進学を決め、その後一般枠で入社したそうだ。

 なんの実績も上げないまま次の社長として社に在籍することはできない、それなら他の会社に就職する――それは彼の基本的な理念であり、社長も今ではきちんと理解してくれているという。


「周りが勝手に言ってるだけなんだ。まぁ祖父じいさんから親父が引き継いだときはそれが当然みたいに継いだらしいから、俺が入社した時点でそういうことかって思われても仕方ねえんだろうけど」

「そうだったんですね。でもそれって、重役の方々がすでに皆そうお考えってことですよね?」

「そうだな。まぁなんていうか、世襲っていうだけで継ぎたくない俺の我儘だ」


 苦笑いをする沓澤課長は、正面を向いたきりだ。

 外の景色はますます夜色に霞み、信号の赤が目を突き刺すように光って見えて、私は思わず目を細める。


「今は、後から文句を言われないくらいの実績を積みたい。だから昇進の件ももうちょっと待ってくれって言ってたんだ、普通に無視されたけど」

「なるほど。本当に真面目ですね、沓澤課長は」

「真面目にもなるよ。あんたらだって嫌だろ、社長の息子っていうだけでトップに立った人間が無能だったら、ぶっちゃけ転職考えるだろ?」

「えっ? あ……と、それはどうでしょう」


 さすがに「はい」とは返しにくかったから慌てて取り繕うと、沓澤課長はあはは、と声をあげて笑った。

 トレードマークの薄い微笑みでも他人行儀な顔でもない、屈託のない顔で笑う沓澤課長が、今まで以上に近くにいる感じがした。もしかしたら今の彼こそが等身大の彼なのでは、とぼんやり思う。

 大学生だと詐称しても通りそうだと、いつかも思ったことがまた頭を掠める。同時に〝学生〟というキーワードに余計な記憶を刺激されてしまう。菅野さんと彼が十年以上前に付き合っていた――不意にその話が頭を過ぎって、ちくりと胸が痛んだ。


 自宅アパートの場所は、パーティーの夜に送ってもらっているから知られている。他愛もない話を重ねているうち、窓の外は徐々に見覚えのある景色に変わっていく。


 小さい頃にピアノを習っていたこと。奏、という名前は彼の母親が音楽の世界に憧れていたためについたらしいこと。それなのに、ピアノは習い始めて一年もしないうちに辞めたこと。

 大ハズレだったよな、と笑う沓澤課長の、上がった口角の端に微かにえくぼが覗き見えた。可愛いな、とやや失礼な感想が脳裏を掠めていく。

 それから、出張を機に三浦さんから懐かれたという話にもなった。社内で男性社員に懐かれたことがこれまでにほとんどなかった沓澤課長は、「ちょっと困惑だよな」と零しながらも、満更でもなさそうだ。思わず笑ってしまう。


 えくぼが見える笑い方を見かけたのは、今日が初めてだ。

 等身大の、ありのままの――ついさっきも思ったことが信憑性を増していく。普段は、ただ単に気を張っているだけなのかもしれない。

 なら、今はどうか。私の前では自然にしていられるのだろうか。だとしたら嬉しい……そう思うことも、勘違いになるのかもしれない。


 雄平と別れた理由の話にもなった。

 話しているうち、うっかりそんな話題になってしまった。


「すっぴんが可愛くないって、皆の前で言われて……そこから一気に気持ちが冷えてしまって、それで別れたんです」

「……なんだそれ。思った以上に最低だな、あいつ」

「うーん……どちらかというと、言われた内容そのものよりも、人前で面白おかしく茶化されたことが嫌でした。元々、なにを言われてもあんまり動じなかったので、私が傷つかないと思ったのかもしれません」

「そんなこと言われて傷つかない奴がいるって本気で思ってたんなら、相当の馬鹿だろ。しかも人前でなんて」

「……そう、ですかね」


 不機嫌そうに寄せられた眉がミラー越しに覗き、息が詰まる。

 フォローの言葉だと、私を擁護してくれているのだと、頭では分かっているのに思考は他のところへ辿り着く。


 菅野さんも、そういうことを言われたら傷つくタイプの人だったのかな。

 ……ああ、私、卑屈だ。重くて厄介な勘違い女に、今ならなれてしまいそう。


「まだ好きなの? そいつのこと」

「えっ? いえ、それはないです。本当に冷めてしまったので」


 すぐ返したけれど、その後は話が続かなかった。

 変わらず不機嫌そうな顔でハンドルを握る彼が、ここまで機嫌を拗らせている理由はなんだ。なにを考えても勘違いじみた答えにしか辿り着けず、そんな自分にこそうんざりする。


「……あんたは」

「はい?」

「いや。なんでもない」


 沈黙が落ちた車内は、涼しくなってすら感じられた。つい今さっきまでふたり揃って笑い声をあげていたそれと同じ場所とは、とても思えないほど。

 気づけば、車は自宅アパート近くの交差点に差しかかっていた。急に心が冷えて、鼻の奥がつんと痛んだ気がして、そうこうしているうちに車の動きは完全に止まってしまった。

 もっと一緒にいたいと思っては、それを悟られては、駄目だ。


 帰らないと。車を降りて、さよならって、笑って言うんだ……早く。

 感情を半ば無視して隣へ向き直り、口を開こうとした瞬間、腕を引かれた。


 決して強引ではないその動きに、それでも余裕が枯渇した私の身体は簡単に傾ぐ。

 そっと背中に触れた手のひらの感触を理解して、それでようやく自分が抱き締められているのだと思い至る。


「……那須野」


 甘い声。甘い、嘘。

 落ちるわけにはいかない。もし試されているなら、なおさら。

 遠慮がちな抱擁はすぐに終わりを告げた。顔を上げたときには、沓澤課長はすでに私を見てはいなかった。逸らされた視線の先にはきっとなにがあるわけでもなく、けれど私も結局、俯くようにそちらへ視線を落とす。


「悪い。また明日な」


 すり抜けるよりも早く腕を放された。

 呆然と顔を上げた先で目が合う。笑う沓澤課長はもう、上司の顔に戻っていた。

 それを寂しいと感じること自体、間違いだ。


「……はい。今日は本当にありがとうございました」


 強引に口角を上げた私の顔は、笑顔と呼ぶには無理がある代物だったはずだ。

 ドアノブに指をかけながら、返事の声が上擦ってしまったことを悟られていなければいいと、心底思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る