《2》成り行きデート
ダークグレーのジャケットにジーンズというラフな服装に加え、髪は職場で見かけるときより崩れている。無造作に揺れる毛先はやわらかそうで、つい見入ってしまう。
それに、眼鏡だ。
いつか書類を届けに行ったときに見た眼鏡と同じだろうか。黒縁の眼鏡をかけた沓澤課長は、スーツを着ていないせいか、やはり実年齢より若く見える。
一度見惚れてしまえば、平静を取り戻すことは難しくなる。
目を逸らし、私は早口でまくし立てた。
「こ、こんなところまでなにしに来たんですか?」
「なにって、あの柚子はちみつ味の飴、ここでしか売ってねえだろ」
「えっ奇遇ですね、私もあれを買いに……ってそんなに気に入ってたんですか、柚子はちみつ味」
沓澤課長は沓澤課長で、かなりばつが悪そうだ。
拳を口元に当てた彼が気まずげに目を逸らし、その仕種にすら今の私はときめきかけてしまう。重症だなと軽く自嘲した。
私の本心を知ったら、沓澤課長はすぐにも私から離れていくに違いない。彼が嫌う〝勘違い女〟になるわけには絶対にいかなかった。
振り返ると、内藤さんが当を得ないような顔で私と沓澤課長を見比べていた。パート勤務の彼女は、話くらいは聞いたことがあるかもしれないけれど、おそらくは沓澤課長の顔を知らないのだ。
一方の店長は、もちろん彼を知っている。最初こそ途中で声を止めるほどに驚いていたものの、以降の対応は至って普段通りだった。
「いらっしゃいませ、沓澤課長。那須野さん、課長と待ち合わせされてたの?」
「ち、違います。本当に偶然で……」
「ふふ、そうなら言ってくれれば良かったのに。どうぞごゆっくり」
なぜか店長は〝察してますから〟と言わんばかりだ。
そして、不思議そうに私たちを眺める内藤さんの腕を引き、そそくさと店の奥へ引っ込んでしまった。
……気まずい。
というか、私はもうこの店の店員ではないのだから、誰か普通に接客したほうがいいと思う。内心でツッコミを入れ、ぎくしゃくとふたり一緒に定番商品の並びへ向かう。
沓澤課長の足の動きはスムーズだ。隣県の片田舎にあるこの店の商品配置について、いくら彼でもすべてを把握しているとは思えない。まっすぐ飴の売り場に足を向け、無言のまま買い物カゴに柚子はちみつの飴を三缶入れた沓澤課長を、私は半ば呆然と見つめる。
「なに」
「い、いえ。その飴の場所、よくすぐ分かったなって思って。定番商品もこまめに配置を変えてるのに」
「こないだも来たから」
「は?」
指がぶつからないよう、彼が手を引っ込めたところを見届けてから自分も飴缶に手を伸ばす。その途中で聞こえた言葉に、私は思わず間抜けな声を零した。
こないだも来た? なにをしに? まさか飴を買いに?
ぽかんと隣を見上げると、不機嫌そうに眉を寄せる沓澤課長の横顔が覗いた。慌てて目を逸らしたけれど、一度浮かんだ疑問はなかなか頭から離れない。
出張の間に、という話だろうか。
新店舗準備室での業務中に、なにか用があって立ち寄ったのかもしれない。確かに、準備室は木乃田店にほど近い支社――と呼ぶよりも営業所と呼んだほうがしっくりくる規模だけれど――の中に配置されているから不自然ではない。
ぐるぐると思考を巡らせていると、沓澤課長がぽつりと呟いた。
「あんた今日、どうやってここまで来たの」
「え? ええと、電車です」
「わざわざ? 県境を跨いで?」
「そ、そうですよ。買い物がてら、のんびり過ごそうかなって」
「ふーん。そう」
自分から訊いておいて、沓澤課長は最後には碌に関心がなさそうな声をあげた。
なんなんだ、と思いながら、私は飴缶をもうひとつカゴに入れる。限定品だし、何度も足を運ぶには木乃田は少々遠い。余分に仕入れておいてもいい。
追加でカゴに入れた缶が、ことんとカゴの中の缶とぶつかり合う。ふた缶もあれば十分だ。カゴの中で揺れる缶をぼんやりと眺め、そのときにふと疑問が浮かぶ。
同じフレーバーの飴缶を三つも買って、沓澤課長はどうするつもりだろう。プレゼント用なら納得だけれど、自宅用だとしたら消費率が高すぎる。
通販で取り扱っていない店舗限定商品だからとはいえ、いくらなんでも買いすぎではないか。糖分の摂りすぎと口内炎が心配になってくる……とまで考えたとき、不意に声がかかった。
「……帰り、送ろうか」
「は?」
予想していなかったひと言に、隣の彼の顔をまじまじと見つめてしまう。
沓澤課長はものすごく居心地悪そうに顔をしかめ、それでいて私とは視線を合わせようとしない。
「少し話したい。嫌なら断ってくれていいけど、できれば」
「……はい。ありがとうございます」
いいんですか、とは尋ねなかった。
予想していなかっただけで、嬉しくないわけでは決してなかったからだ。しなくていい質問をして、彼の気が変わる要因を自分から作るのは避けたい。
「飯はもう済ませた?」
「あ、いいえ。これからです」
「なら一緒に行こう。ええと、ご馳走しますので」
なぜそこで丁寧語になるのか、とうっかり笑いそうになる。
それを察知したのか、しかめ顔の沓澤課長は私には目を向けず、スタスタとレジへ向かってしまった。
会計を済ませ、店長と内藤さんとアルバイトの女の子に手を振られて店を出る。
店長はやはり、〝大丈夫、分かってるから〟みたいな顔でにこやかに手を振っていた。内藤さんも、店の奥で事情を聞いたのかなんなのか、完全に店長と同じ表情で手を振っていた。
最高に居た堪れない気分になりつつも、沓澤課長の車へ乗り込む。
この助手席に乗るのは三度目だ。余計なことなんかひとつたりとも考えるものかともはやムキになりながら、私は鼻息も荒くシートベルトを締める。
「なに食べたい?」
「あ……ええと、そうですね。なにがいいかな」
「那須野の地元ってこっちなんだろ? 行きたい店、もしあれば教えてくれ」
時刻はすでに午後一時半を回っている。
遅めに朝食を取ったこともあり、昼食についてはまだ考えていなかった。店を出てから実家にでも連絡して、あわよくば……程度に思っていた分、予想外の展開に動揺が嵩を増していく。
記憶を総動員し、どこかいいお店がなかったか考える。
忙しなく巡る頭の中へ、ふと実家近くのとんかつ定食屋が思い浮かんだ。肉厚で甘い香りがするサクサクのとんかつが頭いっぱいに浮かんで、不覚にも喉がこくりと鳴ってしまう。
……仮にも男性をお誘いする食事処にしては、色気がなさすぎるだろうか。
いや、でもよく考えたらそのくらいのほうがいい。私は勘違いなんてしていないというアピールができる機会は、多いに越したことはない。
ご馳走するとは言われているけれど、財布だって出す気満々だ。私は沓澤課長に媚びてなどいませんと、本人に強くアピールしておかなければ。
「あの、脂っこいものでも大丈夫ですか?」
「いいよ」
「昔の部活仲間の実家なんですが、そこで良ければぜひ。とんかつ屋さんなんです」
「へえ。じゃあナビよろしく」
「はい」
道案内を開始して十分、ほどなくして一軒の定食屋へ到着した。
昔懐かしい趣の残るその定食屋は、中学時代の同級生であり、バレー部の部活仲間でもあった友人、
のれんをくぐり、店内に足を踏み入れる。混み合う時間帯を幾分か過ぎたらしい店内は、だいぶ落ち着いて見える。
その直後、空いたテーブルを片づけていた店員の女性――鈴香と目が合った。
「あっゆずー! 久しぶり! お母さん、ゆずだよゆずー!」
「あらぁゆずちゃん!? 久しぶりだねぇ、いらっしゃーい」
他にもお客さんがいらっしゃるというのに、大きな声で厨房へ呼びかける鈴香は、相変わらず元気いっぱいだ。
少し恥ずかしくなりつつ厨房にも視線を向けると、鈴香のお母さんが満面の笑みを浮かべて手を振っていた。その隣には、昨年結婚したばかりの鈴香の旦那さんも立っている。
「どうぞどうぞ! ってあれっ、えっとそちら様はどちら様……大変に素敵な御仁ですがまさかゆずちゃんの彼氏様とかそういう……?」
「違います職場の上司です」
元気な上に、中学時代から逞しかった妄想癖も健在だ。
鈴香の中でめくるめく妄想が膨らみきってしまう前に、その芽を容赦なく摘み取っておく。やり取りが面白かったのか、斜め後ろ辺りから沓澤課長の忍び笑いが聞こえたものの、そちらにもあえて今は触れない。
「ちょっとちょっとなによぅ、詳しく聞きたいんだけど!? アッこちらにどうぞ~、ご注文がお決まりになりましたらお呼びくださーい!」
テーブル席へ案内すると同時にお冷やを用意しに向かった鈴香の後ろ姿は、妙に浮足立って見えた。
……別の店にすれば良かったかもしれない。でも、この辺で食事といわれたらここのジューシーなとんかつ以外に思い浮かばなかったし、仕方がない。
食い気味の鈴香の反応に、もしかしたら面食らっているだろうか。テーブル席に腰かけてすぐ、正面の沓澤課長の顔色を窺ってみたけれど、彼は予想に反して楽しそうに店内をぐるりと眺めていて、私のほうこそ面食らいそうになる。
「いいなぁこういう店、懐かしい感じする。店員さんもめっちゃ元気だし」
「ですよね。ちなみに中学の頃はあの子のほうがモテてましたからね」
「女子に?」
「そう、女子に」
ついに忍び笑いでは堪えきれなくなったのか、沓澤課長は声をあげて笑い出した。
交代でメニューを眺め、とんかつ定食をふたつ頼む。注文を取っている間も、鈴香の両目はにやにやと三日月型に細められていて、その顔に面白みすら感じた。
厨房に立つ鈴香のお母さんは、鈴香を指差す様子から察するに、どうやら鈴香の旦那さんに私と鈴香の関係を説明しているらしかった。
その途中、お母さんの指先が沓澤課長を指した気がして、飲んでいた水を噴き出しそうになる。ただの上司だから、と声を張り上げるわけにもいかず、私は厨房からそっと視線を外す。
やがて運ばれてきたとんかつ定食を前に、ふたり一緒にいただきます、と手を揃えた。
揚げたてのとんかつは綺麗に斜め切りされていて、その切り口から漂うお肉の香しい匂いが鼻孔を擽る。微かに残る湯気まで美味しそうだ。
箸を入れるとサクサクの衣がほろほろと崩れ落ちて、それさえももったいなく思えてしまう。口が痛くなりそうなくらい歯ごたえのある衣の後に、やわらかくジューシーな豚肉が歯に当たる。
堪らない。久しぶりに食べたものの、相変わらず絶品だ。持ち帰りしたい、と食べるたびに思うけれど、この揚げたてが一番美味しいのだ。
実家の母は料理好きなわりに揚げ物を作るのは苦手で、とんかつといえば必ずこの店の名前が挙がっていた。鈴香の両親が揃って厨房に立っていた頃は出前もやっていて、よく頼んだりもしてたっけ……と懐かしく思い返していると、対面に腰かける沓澤課長が、箸を持つ手とは逆の手を口元に当てて感嘆の声をあげた。
「うっわ、なにこれウメェ!」
「でしょう? 衣、めっちゃサクサクしててすごくないですか!」
「うん、持ち帰りしたいレベル……あーでも揚げたてが一番美味い気がする、なにこれ本当ヤバい……」
沓澤課長はすっかり
箸を動かす沓澤課長を眺めながら、一緒に食事をするのはこれが初めてだな、と思う。休日を一緒に過ごすことも。
箸の持ち方が綺麗で、長い指に見入ってしまう。育ちの良さが滲み出ている気がして、そういえばこの人って御曹司だったな、といまさら思い至り、ひとりで勝手におかしくなる。
お会計は沓澤課長がしてくれた。財布に指を伸ばす暇もなかった。
レジに立つ鈴香が大変にこやかな笑みを浮かべていて、ものすごく居心地が悪い。そわそわと会計が終わるところを待っていると、鈴香はお釣りを沓澤課長に手渡しつつ、とんでもないことを切り出した。
「あの、ゆずってすごくいい子なんで、その、絶対幸せにしてあげてくださ」
「バッ……い、いきなりなに言い出すのアンタ!?」
「あっごめん、気持ちが前に出すぎちゃった、マジごめん!」
まったくもって悪いと思っていなそうな謝罪を入れられ、顔から火が出るほど恥ずかしくなる。
だからそうじゃないんだっつの、と声を張り上げようとした瞬間、肩にぽんと手を置かれ、私は喉まで出かかっていた声を詰まらせてしまう。
「口説いてる最中なので、うまくいったらそのときには」
一瞬、なんの話か理解が及ばなかった。
真っ白になった頭で、ギギ、と首を動かして沓澤課長を見上げる。
……澄まし顔だ。それも極上の。
普通の女性なら確実に目を、あるいは心までを奪われるだろうそれに、私が感じ取ったのは底の知れない胡散くささのみ。
薄い微笑みを鈴香へ向けるさまを眼前にして、面白がっているのだと悟る。しかもそうと理解が及んでいるのは私だけで、多分、鈴香は沓澤課長渾身のイケメンスマイルにあてられている。あまりの性質の悪さにくらりと眩暈がした。
なぜか鼻を押さえて「ありがとうございましたァ!」と叫ぶや否や、鈴香は中学時代に培ったしなやかな脚力をもって厨房へ走り去っていく。
私は私で、逃げるように店を出た。
お母さんと旦那さんへ興奮気味に事情を説明する鈴香が容易に想像でき、恥ずかしすぎてまた眩暈がした。
のれんに手をかけた途端、あはは、と声をあげて笑い出した沓澤課長をギッと睨みつける。
「あー美味かった、それに面白かったな。また来ような?」
「っ、沓澤さんとはもう絶対来ません……!!」
この人が一緒でもそうでなくても、しばらくここには来られそうにない。
溜息さえも震わせながら、私は足早に彼の車へ戻った。
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