第4章 困惑ガール、もてあそばれる

《1》自己分析デイズ

 近頃、柚子はちみつの飴だけ減りが早い。

 ずっとこればかり舐めている気がする。


 ――あれから二ヶ月。


 彼に合わせてもらったスカーフは、あれから一度も身に着けていない。

 衣装ケースで眠りこけている、私が持っている衣服の中で一番艶やかな色をしたそれ。深い深い、赤。


『あんたは赤のほうが似合う』


 これまで誰にも、一度だって言われなかった。そんなことは。

 しばらく前に私物となったそれに、今日も私は指を伸ばせない。こんなもやもやした気持ちで触ったら、綺麗な色が途端に褪せてしまいそうで、どうにも触れられずにいる。


 この二ヶ月の間にいろいろなことが起きた。どれもこれも重大なできごとで、気を抜くとすぐさま現実からふるい落とされそうになる。

 会議のたびに平行線を辿っていた新店舗のスタンスは、長谷川商事の創立記念パーティーの後、間を置かずに決定した。

 常務案と若手の案、それぞれのメリットをうまく拾い上げてまとめられた意見書は、沓澤課長が仕上げたものだと聞いた。残業して資料作成を手伝ったあの日、私もちらりと目にしていたもの――直前に行われた課内ミーティングの際に求められた私の意見も、そこに含められていた。


 沓澤課長と三浦さんが出張から戻って、二週間が経った。


『お帰りなさい』


 営業部全体――いや、本社全体がふたりの戻りを労い、喜んだ。

 私は複雑な気分で、けれどそれをどうしても隠したくて、皆と一緒に笑ってふたりを出迎えるしかなかった。


 会わない間、一緒に退社することは当然なかった。連絡を取ることも。

 私の記憶にある沓澤課長は、パーティーの翌日、車の中で触れ合ったあの夜のままだ。私の腕を引く手の熱さ、首筋をなぞる指、唇とその先を暴きたがる熱。そのすべてを思い出しては、その後一度も連絡がないことにモヤモヤして、その繰り返し。


 今後も、なにごともなかったように毎日顔を合わせるのだろうか。それで、毎日一緒に途中まで帰路を歩んで……そんなことをまた繰り返すのかもしれない。

 あるいは、私の役割はもう終わりという可能性もある。あの夜に否定されたとはいっても、出張の間に一度も連絡がなかったことを思えば十分にあり得た。


 明確な輪郭を持つに至らず、いつしか忘れられかけた噂は、彼が本社に戻ってからの二週間で一気に再燃した。

 その癖、私にも沓澤課長にも直接確認する人は現れない。曖昧な形のまま、社内の至るところを漂って揺れて、それだけだ。


 それでも、沓澤課長は変わらない。

 八月末。季節は夏を過ぎ、秋に差しかかろうとしている。私の気持ちだけが、あの夜に置き去りにされたきり。


『久しぶりね、奏』


 親しげな、それでいてわざとらしい声を思い出す。

 沓澤課長は否定した。彼女とはなにもないと言った。でも、それは嘘だった。ふたりが以前付き合っていたと聞いた、そう指摘したとき沓澤課長は苦々しい顔をしていた。十年以上前の話だ、と言い訳がましい言葉まで口に乗せた。

 嘘ばかりつくわりに案外ボロを出しやすいんだな、と思う。引っかけに弱いというか、詰めが甘いというか……失礼かもしれないけれど、社長と話しているときにもそういう印象を抱くことはあった。


 けれど、沓澤課長が嘘をついたからといって、だからなんだっていうんだ。

 私と沓澤課長は付き合っていない。私は、彼の元恋人である菅野さんのような人からの干渉に対しても、きっと効果的な存在なのだ。私が傷つくか傷つかないかは別として。


 ……傷つく? 私が? なんで?

 沓澤課長の女性関係がどうであれ、それが私を傷つける要因にはなり得ない。私は頼まれて彼の恋人を演じているだけだ。それも、普通の恋人を演じるわけではなく、曖昧な態度を取り続けることで噂を白熱させるための係。


 この先、沓澤課長が信頼に足りる女性と出会う機会に恵まれるなら、そのときには私との関係は確実に解消される。

 彼にとって私が期待外れだと判断されればこの関係は終わる、それがベストだと思っていたけれど、違う。彼が心から信頼を寄せられる人と出会えるなら、それこそが最良だ。そしてそこに私の気持ちは関係ない。


 ……私の気持ち。

 私の気持ちってなんだろう。傷つくって、なんなんだろう。


『奏、おたくの会社、継がないかもしれないの』


 聞いていない。そんな話は、彼からは、一度も。

 菅野さんになにを言われたかと沓澤課長に訊かれたとき、私はその話を伝えなかった。結局、彼らが過去に付き合っていたという話題に焦点が当たったきり、私の中に最も大きなしこりを残したその件が彼に伝わることはなかった。


『奏の立場が目当てなら、やめといたほうがいいってこと』


 沓澤課長の立場がどうだとか、私の立場がどうだとか、それ以前の問題だ。

 私たちは付き合っていない。それがすべてで、だから菅野さんのあの言葉に私が怒りを覚えたこと自体、間違いだ。


『お言葉ですが、私は』


 あの後、私はどう続けるつもりだった?

 私は彼の恋人ではありません、だろうか。それとも、私はそんなものを目当てになんてしていません、だろうか。

 どちらも正解だ。なのに、どちらも私の中で正しくまではない。


 真剣に仕事へ取り組んでいる姿を、純粋に尊敬する気持ちはある。売上、目標、そういう言葉よりも先に社員を思う言葉が口をつくところも。

 それが恋心なのかどうかと問われると、うまく判断をつけられない。つけられないまま、自分からはなにひとつ伝えられそうになくて、ただ息苦しくてならなかった。


 だいぶ前のことになる、残業の夜のキスの理由。菅野さんと顔を合わせたパーティーの夜とその翌日の夜、首に痕を残された理由。そして二度目のキスの理由。

 どれも分からない。分からないなら尋ねるべきで、けれどできない。

 尋ねなくても察してほしいと思ってしまうのは、私の悪い癖だ。自分でも分かっていて、そのせいで今までに何度も失敗してきた自覚もある。それなのに、私はまた同じことを繰り返そうとしている。


 私は、沓澤課長が好きなのに。

 とっくにその自覚があるのに。



     *



 とうとう柚子はちみつ味の飴の自宅在庫が切れた。

 あの飴缶の柚子はちみつ味は、私が勤めていた木乃田店の限定フレーバーだ。しかも通販サイトでも扱っていない、完全な店舗限定商品のひとつだった。


 県境を越えた先にある元勤務先へ、その日、私は買い物に出かけることにした。


 元同僚の皆に会いたいという気持ちもあった。

 店長、パートの皆、ひとりひとりの顔を思い浮かべる。私が社会人としての一歩を踏み出すとき、傍で支えてくれた人たち。

 楽しいことばかりではなかったはずの二年間、それでも楽しかったことを先に思い出す。つい最近になってから、そんな話を誰かに語って聞かせたことがあった気がして、胸の奥になにかがつっかえたような気分になる。


 途中まで鈍行列車に揺られ、そこからは歩いて懐かしのお店へ向かう。のんびりと向かいたい気分だったから、電車を降りてからバスには乗らず、徒歩を選んだ。

 木乃田店に勤めていた頃は、自家用車で通勤していた。実家に近い店舗に配属してもらえたおかげで、多少シフトがずれ込んだとしてもさほど苦ではなかった。

 まさかたった二年で、しかも隣県の本社に異動になるとは思っていなかった分、当時の衝撃は本当に大きかった。今でこそ懐かしく思い出せるけれど、いつだって手探り状態で必死に日々をかいくぐっていた。


 通勤に使っていた自家用車は、今では実家の母が使っている。

 実家にもしばらく帰っていない。今日唐突に顔を出してみようか、と他愛もないことを考えながら歩いて、ようやく目的の店に到着した。


「いらっしゃいま……あっ、那須野さん!」

「ありゃ、ゆずちゃん! 久しぶりだねぇ~どうしたの?」

「お久しぶりです、店長。それに内藤ないとうさんも!」


 店長と一緒に、パートの内藤さんが楽しそうな声をあげて出迎えてくれた。手をひらひらと振り、歩み寄ってくるふたりと談笑する。

 店の奥、レジ前に立っている若い女の子とは面識がなかった。私が異動した後に入ったアルバイトだろう。元来、木乃田は夏から秋にかけて観光客が増えるエリアで、この店も夏休み中の学生アルバイトを期間限定で採用することが多かった。

 その予想は当たったらしく、店長がざっくりとお互いを紹介してくれた。初々しさに満ちた彼女と挨拶を交わしながら、不意に入社当時の過去の自分が彼女へ重なり、微笑ましいような擽ったいようなよく分からない気分になる。


「いや~しかしゆずちゃん、すっかり本社の社員さんっぽくなったねぇ」

「えへへ、そうですか? ていうか本社の社員さんっぽいってなに?」

「ほらぁ、垢抜けた感じっていうの? もうどこの都会のお嬢さんが来たのかと思ったよぉ~」


 都会、という謎ワードに苦笑しつつ、相変わらずお喋りな内藤さんに相槌を入れては笑い合う。店長も「ゆっくり見ていってね」と笑い、元の場所へ戻っていく。

 店内のディスプレイはところどころ、十月のハロウィンをイメージした展示やポップで可愛らしくまとめられている。私が在籍していた頃にも、ディスプレイは頻繁に変更したり整え直したりしていた。

 趣を感じさせる店内の雰囲気に時には合わせ、時には意外性を狙い、季節ごとにポップを作ったりアイテムを飾ったり。どうしたらもっとお客さんの目を惹けるか、もっと楽しんでもらえるか、それを考える仕事はやはりいつだって楽しかった。


 懐かしく思い出し、ふと口元が緩む。

 とそのとき、店の自動ドアが開く音がした。


 いらっしゃいませ、という店長の声が途中で途切れる。

 いつも凛とした対応で客様をお迎えする店長らしくない。訝しんだ私は、つられてドアの方向へ向き直り、そして目を見開いた。


「……ええええ?」


 思わず零れたお互いの声が中途半端に重なる。

 口元に手を添える仕種まで被り、気まずさに拍車がかかる。


 ドアの前には、見慣れない私服姿の沓澤課長が立っていた。

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