《5》不自然な声と唇
創立記念日がその日だからと言われてしまえばそれまでだけれど、週半ばの木曜に宴席へ出席するのは思った以上に堪えた。
翌日、金曜。
首筋の痕を隠すべく、私はスカーフを使った。前日に合わせてもらった深い赤色のものではなく、元々持っていたものを。
これ見よがしに昨日のスカーフを着けていく度胸はないし、そこまで太い神経をしているわけでもない。それに、自前のものはたまに着けていたから、不自然ではないと思う。
明日以降どうするかはまだ考えていない。そもそも、こういう痕はどのくらいで消えるのか。この季節にタートルネックの服を着るのはつらいし、なにか対応策を練っておかなければならない。
「おはようございます」
「おはようございまーす、那須野さん」
先に遠田さんと三浦さんが出社していて、ふたりと挨拶を交わす。
沓澤代理もすでに着席していた。意識すればするほど不自然になると分かっていたから、努めて平静に挨拶をする。
彼は普段通りだった。まるで昨日はなにごともなかったとばかり、ごく平然とパソコンに向かっている。
不意打ちのキスをしてきた残業の日、あの後も同じだった。
逆に不自然なくらいに普段通り。周囲にとってはそれこそが自然なはずなのに、私だけが知る彼の不自然さを前に、苛立ちを爆発させてしまいそうになる。
その日の朝礼は、部ごとでなく全体での朝礼となった。
いつもなら「よろしくお願いします」という定型の挨拶で締め括られるところ、営業部長は「一点、重要な連絡があります」とおもむろに咳払いをした。
営業部長はそわそわと浮足立ったような顔をしていて、珍しいなと思う。その後彼が切り出した話に、ああ、と私は納得した。
「先日の会議の結果、新店舗の運営と建設に関する詳細が決定しました。週明けより、そちらの準備室を新設します」
準備室の室長に別部署の課長が任命されるため、営業課の課長はそちらの課へ異動に。それから、三浦さんが準備室のチームリーダーに任命され、しばらくの期間は現場に。
営業部長の話を大まかにまとめると、そんな感じだった。今日、全部署合同で朝礼が行われた理由にもようやく合点がいく。
そしてひとつ疑問が浮かんだ。おそらく朝礼に参加しているほぼすべての社員の関心は、きっと私と同じところに向いている。
すなわち、空いた営業課の課長の席に、誰が座るのか。
「営業課は、週明けから沓澤代理が課長としてまとめていきます。ただし、準備室の業務環境を整えるまでの間、沓澤代理には一ヶ月強、そちらに出張してもらうことになりました。その都合上、当面は私が営業課の課長代理として……」
話の途中で微かなざわめきが起こったけれど、それはすぐ収まった。
沓澤代理の昇進の話は、以前から噂になっていた分、驚くほどではないという人が多かったようだ。しかし、まだ先の話だと沓澤代理本人から言われていた私は少々面食らってしまう。
なにも聞いていない。
昇進が正式に決まった話も、長期出張の話も、なにも。
……違う。事前に教えてもらえるわけがない。
一ヶ月強。随分長いけれど、恋人役の話はどうなるんだろう。沓澤代理はどう考えているんだろう。
悶々と考えを巡らせているうちに朝礼が終わった。フロアへ戻ると、沓澤課長の周りには人だかりができていた。営業課以外の人もいて、なんだか近寄りがたくて、でも無言で自席に座るのは不自然な気がする。
立ったまま目が合う。向こうの反応を見るよりも前に、私は笑った。普通に、普通にと念じながら、無理やり彼のほうへ足を動かしていって、そして。
「昇進、おめでとうございます」
「……ありがとう」
ぎこちない言い方にはならなかったはずだと、自分で自分に言い聞かせる。
頭を下げた後、早々に席へ戻った。普段通りにノートパソコンを立ち上げ、それがのそのそと起動を終えた頃には人だかりはすっかり捌けていて、なぜかほっとする。
その矢先、社内メールの着信に気づいた。
送信者は――沓澤代理。
『話がしたい』
忙しなく動かしていた指がひたりと止まる。
突然の辞令発表となった彼の席は、いまだに私の向かいだ。席へ戻ったばかりの彼が、正面に座る私に平然とこんなメールを送ってきている……眩暈がしそうになった。
*
帰宅時、早々に彼に捕獲されてしまった。
そこで挨拶を交わして別れるという場所に着いても、沓澤代理は私から離れなかった。それどころか強引に私の腕を掴んできた。
そんな彼が向かった先は、従業員用の駐車スペースだ。
「今日は車で来た。あんたと話したかったから」
「は、はぁ。話なら車の中でなくてもできるのでは……」
「いや。ちゃんと閉じ込めとかないと、あんたすぐ逃げるだろ」
物騒な言い方に、頬が派手に引きつる。
結局、助手席に押し込められてしまった。昨晩、自宅へ送ってもらったときの重苦しい空気が瞬時に脳裏へ蘇り、またも顔が強張る。
間を置かず運転席へ乗り込んだ沓澤代理は、ご丁寧にロックまでかけた。そこまでしなくても逃げませんから、と言ってやろうと思って、けれど今日ばかりはそんな気力なんて湧きそうにない。
「……それで、お話というのは」
「いろいろ。昇進とか出張とかの話と、……あと昨日のことも」
沓澤代理の声は平坦で、嫌でも昨日の別れ際を思い出してしまう。
今日の私は取り繕えるだろうか。なにを言われても、昨日のように平坦に返せるだろうか。
「あんたらがなにを話してたかは知らない。けど、杏奈とはなにもない。変な誤解だけはしないでくれ」
開口一番にその話題か、と思う。
変な誤解……そんな言い方、しなくても。笑ってしまいそうになる。
名前で呼び合う仲の癖に。昔、付き合ってた癖に。
「お付き合いしてたんだって、聞きましたけど」
「っ、やっぱり碌なこと話してねえなあいつ。そんなのは十年以上も前の話だ」
「……そうですか」
彼の声には苛立ちが滲んでいた。
すぐ隣、こんなに近くから聞こえてくるそれが、どうしてか私の耳には少し遠い。
……私、恋人でもなんでもない癖に、重くないか?
責めてしまいそうだ。恋人でもなんでもない沓澤代理を。
十年以上前ということは、当時の沓澤代理は高校生か大学生。菅野さんはどうだろう。可愛らしく若々しい印象が強かったけれど、あの口調や態度から考えるなら私より年上の可能性が高い。
高校生同士のふたりを想像して胸が軋んだ。沓澤代理は菅野さんと、どんなお付き合いをしていたんだろう。どんな話をしていた? 部屋には入れた? キスはした?
それ以上のことも、したんだろうか。
そんなことばかり考えている自分に心底嫌気が差す。いっそ、沓澤代理に直接訊いてしまえばいい。下世話な話題に自分から首を突っ込めば、さすがの彼も私に失望するに違いなかった。
そうやって、お前には関係ない、と声を荒らげられたほうが遥かに気楽だ。でも、それだけはどうしてもできそうになかった。
「誤解もなにも、私たちって、別に付き合ってるわけじゃない……ですよね」
口から零れ落ちた声は、自分の声ではないみたいだった。
抑揚のない声で告げると、沓澤代理は黙り込んでしまった。居た堪れなくなった私は、わざと声のトーンを上げて口を開く。
「出張、気をつけて行ってきてくださいね。沓澤課長」
「……まだ『課長』じゃない。週明けからだ」
「ふふ。そうでしたね。失礼しました」
では、と笑いながらどさくさに紛れてドアを開けようとしたのに、容易に阻止されてしまった。こんな簡単に済むわけがないかと自嘲した途端、指を取られる。
長い指が、つき指の痕の残る私の指を絡め取る。自分の指は冷えているのに、彼のそれは熱っぽくて、急に恥ずかしくなる。
「……解消は、しないから」
掠れた声が、耳の傍から聞こえる。
助手席の側に身を寄せた沓澤代理は、そのまま私を抱き留めた。
解消。なんの、と聞くのは間抜けだ。でも。
わざわざ念を押してまで、この人はなにがしたいんだ。私をどうしたいんだ。どうしたらいいのか分からず、ドキドキするというよりは途方に暮れる。
「見せて」
唇がほとんど耳にくっついているのではと思うほど、鼓膜を直に震わせる声は近い。
掠れた声に気を取られた瞬間、首元のスカーフをずらされた。あ、と思わず漏れた声を無視され、首をなぞられる。熱い指先が何度か首筋を往復し、その直後、同じ場所に唇を寄せられた。
昨日と同じ場所。まるで、上塗りするような。
声を堪えなければ――そのためだけに神経を集中させる。鈍い痛みはすぐに終わりを告げ、痺れに似た感覚がじんじんと残った。
目が合う。まずい。次に彼の唇が目指している場所がどこか、見当はつく。
やわらかそうな唇。過去に一度きり、意図せず重ねてしまったことがあるそれを、私は顔を背けてぎりぎりでかわそうとして、けれどできなかった。
「……ん……」
触れては離れ、離れては触れ、幾度かそれを繰り返した後、キスは急に深くなる。
口内に侵入を果たした熱に翻弄され、堪らず薄く目を開いた先、満足そうに笑む彼と目が合った。
二度目のキスは、一度目よりも甘かった。それなのに虚しい。
心を通わせて交わしているわけではないから、かもしれない。そう思ったら自然と腕が伸びた。
相手の胸元を突き放すように動いた私の腕にはさっぱり力が入らなかったにもかかわらず、沓澤代理の身体はあっさりと離れていく。思っていたよりもずっと簡単に、私の身体は自由になる。
「……失礼、します」
目は合わせなかった。喉に鉛でも詰まっているのかと訝しくなるほどくぐもった声が零れた後、私は車のドアノブへ指をかけた。
抵抗できない理由もしない理由も、最初からありはしない。昇進の件も出張の件も、なんで教えてくれないのなんて、自分はそんなことを言える立場にはない。
言葉の代わりにキスを重ねられても、私にはなにも返せない。
あなたはなにがしたいんだろう。首の痕だって、私たちが次に会うときにはもう残っていやしないのに。
ドアを開けて足を下ろした私を、沓澤代理は止めなかった。これ以上なにも考えずに済むよう、私は振り返らずに走ってその場を後にする。
状況も心境も、昨晩のデジャヴかと思うくらいになにからなにまで一緒で、不覚にも泣きそうになった。
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