《4》分かりやすい嘘

 パーティーは、ごく一般的な立食形式のものだった。

 空調の行き届いた会場内は適度に涼しく、これなら着慣れないスーツ姿でもなんとか快適に過ごせそうだと、私は必死に思い込む。

 規模は大きくないと聞いていたけれど、私の目には十分すぎるほど混雑して見える。ホテルのパーティールームは人で溢れ返って、中にはきらびやかに着飾ったドレス姿の婦人もあった。きっと夫婦で出席しているからだと、強引に自分を納得させる。


 大丈夫、大丈夫。私はこれでいい。

 スーツのポケットに忍ばせた名刺入れに触れる指先が、無理やりポジティブに持っていこうとする内心を無視してカタカタと震え出す。

 事務というポジションゆえになかなか減らない私の名刺だけれど、たまたま切らして先日追加注文したばかりだった。無駄に数が充実している分、今日はどなた様に声をかけられても安心だ。不幸中の幸いかもしれない。


 式典はつつがなく進行し、ほどなくして宴席が始まった。

 すぐに何人かの重役らしき人物、さらに主催である長谷川商事の社長夫妻に囲まれた沓澤代理は、私に少し待っているよう指示を残して輪の中へ進んでいってしまった。

 トレードマークの薄い微笑みでも、私といるときに覗かせる悪戯めいた笑みでもなく、今の彼の顔に浮かんでいるのは非常に爽やかな笑みだ。瑞々しさすら感じる。遠巻きに眺めているせいで視線がずれ、別人を見ているのでは、と錯覚を抱きそうになるくらいだ。


 ところどころで談笑や名刺交換が始まり、会場内の喧騒が高まっていく。沓澤代理が隣にいない状態で誰かに声をかけられるのは少々心許ない。このような場だけに、ただ頭を下げて挨拶すれば良いというものでもないだろう。

 特に、社長は今回の招待について『沓澤家との縁が大きい』と言っていた。なら、なおさら出すぎた真似や礼を欠いた対応は避けたい。

 口をつける気のないグラスを手に、そそくさと壁側へ移動する。沓澤代理はまだ長谷川社長と談笑を続けている。さっき見た笑顔のままだ。


 喧騒の中、私の思考はやがてあの残業の夜に辿り着き、無意識のうちに額に指を伸ばす。

 あの日のキスなんてなかったかのように毎日が過ぎていて、彼も私もそれまで通りだ。もしかして夢だったのではと思うほど、あの夜だけがなかったことに――空白になっている。

 そんな状態で今日のこれだ。本当なら社長夫妻が出席するはずだった大事な席に、ふたりで出席している。


 ……これ以上この件について考えるのはやめようと思い、しかし同時に気づいてしまう。

 社長は『もう先方に連絡している』と言った。けれど別にそれは、社長夫妻が欠席することを連絡しただけではないのか。誰が代わりに出席するかという詳細まで、社長は本当に伝えたのか。

 こうなると、一から十まで嵌められた気しかしなくなってくる。気が滅入りそうになった。今後、社長とのやり取りはもう少し慎重に進めなければ。


 人の溢れるこの会場においても、沓澤代理はかなり目立つ。周囲を取り囲む人たちが小柄だったり彼ほどは上背がなかったりする分、頭ひとつ抜き出て見え、とにかく探しやすい。

 常に居場所を把握していたいわけではなかったけれど、下手に逸れては困る。そう考えると、彼のルックスが目立つのは利点だ。


 純粋に、格好いい。

 他社の重役、しかも親子ほど齢の離れた人物ばかり。そんな人たちを何人も前にしているのに、物怖じひとつせず応対する姿は、ひどく様になって私の目に映る。


 私は、彼のなにに見えているだろう。部下? 同僚? 秘書?

 不意にそんなことが気に懸かり始める。見慣れない満面の笑みを目にしたからか、余計な考えばかり働く。雲の上の世界に、誤って足を踏み入れてしまったような気分だ。


 ぼんやりと思考を巡らせながら、壁に背をもたれさせた、そのとき。


「あの。ちょっとよろしいですか」


 一瞬、それが自分にかけられている声なのかどうか判断がつかなかった。キーの高い可愛らしい声が、よもやこの場所で自分にかかるとは思っていなかったからだ。

 気が抜けかけていた背中へ瞬時に電流が走り、私は大慌てで姿勢を正す。


 振り返った先には、ひとりの女性が立っていた。


 ストレートの長い黒髪に、上下オフホワイトで統一されたフェミニンなスーツ。私と同じスーツ姿だとは思えないくらい、彼女はきらびやかに見えた。

 身長は低めで、上背のある私を見上げる体勢になっている。ふと落とした視線が彼女の足元を拾い、私なら歩くことさえままならないだろう角度のついたヒールの靴が目に飛び込んできた。


「あなたですよね。奏さんと噂になってる方」


 かなでさん。誰のことか一瞬分からず、私はぽかんとしてしまう。

 一拍置いてから、それが沓澤代理の名前だと思い至った。いわれてみれば社長がそう呼んでいた気がする……いや、そんなことより。


 どうして外部の人が噂の詳細を知っているんだろう。

 社員の誰かと知り合いなのか。混乱を帯びた頭で考えを巡らせていると、彼女はまっすぐに私を見据えて再び口を開いた。


「私ね、昔、奏さんとお付き合いしていたの。菅野あんと申します」


 ――菅野。

 聞き覚えがあった。あのとき、社長と沓澤代理が話していた名前。


『菅野さんのお嬢さんが』

『そういうのが面倒くせえんだっつの』


 以前社長室で耳にした言葉が、断片的に頭の中を走り抜けていく。

 私を見つめる彼女の目がすっと細まり、私は慌てて姿勢を正して腰を折った。


「は、はい。那須野ゆずと申します。はじめまして」

「ああ、どうぞ楽になさって。突然声をかけてしまってごめんなさいね」


 言葉こそ遠慮がちだけれど、声はかなり挑戦的な気配を宿している。

 背筋をひやりと冷たいものが流れ落ちた気がして、私は喉を鳴らす。なにを言われるのか、ある程度想像はつく。でも。


「彼、最近雰囲気が変わって見えたから、あなたの影響なのかなって思って。少しお話ししてみたくなったの」

「……そうですか。あの、申し訳ありませんが、私は」


 迷う。

 違うと、はっきり言いきってしまっていいのか。


『その辺の対応もいずれしてもらう』


 沓澤代理の声が蘇る。判断が鈍る。

 この女性は社外の人で、それなのに噂の詳細を知っている様子で、しかも沓澤代理の元恋人だという。


 迂闊に喋るべきではないのでは。いや、むしろ今こそ、自分に課せられた役を演じなければならないのでは。

 迷えば迷うほど空白の時間が生まれる。焦燥と混乱が綯い交ぜになった頭を無視し、強引に口を動かそうとした瞬間、呆れ顔で腕を組んだ菅野さんが先に口を開いた。


「あのね、ゆずさん。奏はやめておいたほうがいいわよ」

「……は?」

「奏、おたくの会社、継がないかもしれないの。本人からは聞いてない? 奏の立場が目当てなら、やめといたほうがいいってこと」


 言葉を紡ぎきれなかった私の唇が、想定外の話題を前に派手に強張る。


「あなたみたいな人、奏は元々苦手なはずなのに……どうしちゃったのかしら」


 はぁ、と仰々しく溜息をついてみせた彼女を呆然と見つめる。

 私を挑発したがっているとしか思えない発言には悪意が見え隠れしていて、はっきり言って感じが悪い。けれど、今はそんなことよりも。


『継がないかもしれないの』

『奏の立場が目当てなら、やめといたほうがいいってこと』


 なに、それ。

 駄目だ。考える前に、邪魔な思考が膨らんでしまう前に、口を動かさないと。


 ――早く。


「あの……お言葉ですが、私は」


 言いながら、唇が震える。

 怯えではない。怒りとも違う。ただ、弁解しなければならないと、菅野さんが一方的に抱いている誤解を解かねばならないと、そのためだけに口を動かして――でも。


 続く言葉は、声にはできなかった。


 強く引かれた腕に気を取られ、私は思わずあ、と声を漏らす。

 痛みを感じるほどきつく私の腕を握り締める手を、腕を、肩を、ゆっくりと視線で辿っていく。


「余計なことを吹き込むのはやめてくれ、杏奈」


 低い声の主は、すこぶる機嫌が悪そうだった。

 肩の先に視線を上げると、やはり不機嫌そうに眉を寄せる沓澤代理の顔があった。ついさっきまで遠巻きに眺めていた爽やかな笑顔はすっかりなりを潜め、別人のような振る舞いで菅野さんを睨みつけている。

 菅野さんは、敵意に満ちた沓澤代理の態度に少しも動じた素振りを見せず、艶やかに笑んでみせた。


「久しぶりね、奏。すごい顔よ、なに? 別になんでもないわ、ちょっと話してただけよね?」

「……はい」


 誘導じみた口調に逆らっていいのかまたも私は迷い、結局、掠れた声で同意を告げる。

 なおも睨みを利かせる沓澤代理に対し、菅野さんはやれやれとばかりに溜息を落とし、そして一度はほどいていた腕を再び組み直した。


「ねぇ奏、趣味変わったの? それとも遊んでるだけ? らしくないじゃない、奏がそんな子を選ぶなんて」

「いい加減にしろ」


 一層低く呟かれた声に、さすがの彼女も気圧されたらしい。

 ちらりと私を一瞥した菅野さんは、以降はなにも言わず、つかつかとその場を去っていく。私よりも背丈が小さく、また愛らしい印象に満ちた彼女の背を、私はやはり呆然と見送るしかできなかった。


 ……杏奈。名前で呼んでいた。

 以前、沓澤代理が付き合っていた人。今もそうやって名前で呼ぶのか。私みたいな人は、苦手、なのか。


 だからなんだ。そんな話を伝えられたところで、どうなるものでもない。

 肩書き目当てだと思われたことが悔しくて堪らなかった。自分の外見とは真逆に近い容姿をしている彼女に、あなたみたいな人、と明確な線引きをされたことも。


 分かっていたことだ。私はフェイクで、偽の恋人で、与えられた役を演じればいいだけの、ただの。

 なのにどうして、こんな煮えきらない気分にならなければならないんだろう。どうして、こんなにも傷ついた気分になってしまっているんだろう。

 果てを知らないどろどろの感情に溺れかけたそのとき、掴まれっぱなしの腕を握る手に力がこもった。鈍い痛みに引きずられて顔を上げると、相も変わらず不機嫌そうに眉を寄せた沓澤代理と目が合った。


「なにを言われた?」

「……いえ。本当に、ちょっと話していただけで」

「だからなにを話してたんだって聞いてる」

「女同士の話です。特に報告が必要な内容だとは思いません」


 ギスギスした物言いになった自覚はあったものの、後悔は覚えない。

 むしろ、なぜ沓澤代理が私に対してそこまで不機嫌な態度を取るのか、そのことに不快感を抱きすらした。


 空気が重い。吐き気がして、私は堪らず空いた手で口元を押さえた。

 その仕種を見て思うところがあったのか、私の腕を引く彼はそのままロビーを抜け、さらに階段を進んでいく。帰るつもりかと訝しくなった頃、ひとのない階段の下で足が止まった。話の続きを求められていると察し、息が詰まる。


 腕をほどいてほしかったけれど、勢いに任せて振り払うのはためらわれる。

 長い指にそっと自分の指を重ね、外してほしいと無言で示す。普段なら自分から相手に触れるなんて考えもしなかったはずで、けれど今はただ、これ以上の接触を重ねてほしくなかった。


「……大丈夫か」


 腕は外してもらえなかった。

 ぽつりと尋ねる沓澤代理の声は小さく、場違いにも笑ってしまいそうになる。


「なにがですか」

「無理させてる」

「慣れてます」

「分かりやすい嘘ついてんじゃねえ」


 適当に返していた言葉の最後、唐突に語尾を荒らげた沓澤代理の声は、ガン、という物騒な音に掻き消されて霞んだ。

 壁に拳を叩きつけて私を押さえ込む彼の目は、冷えきって見える。かと思えば苛立ちに赤く燃え盛っているようにも見え、私は知らず息を止めていた。

 簡単に押しつけられた身体は、我ながらやわい。抵抗する気にもなれなかった。そのくらい、さっきの菅野さんとのやり取りは私の精神を追い詰めていた。


 追い詰められている理由にはまだ思い至りたくない。

 だから、今だけはこの人と話していたくない。それなのに。


「別れた男に言い寄られてあれだけ参ったツラ晒してた癖に、なにが『慣れてます』だ。笑わせんな」

「っ、ほっといてください!」


 押しつけられた身体、握られた手首、耳元で囁かれる嘲りの声。

 胸の奥がぎしぎしと軋む。悲しい、寂しい、苦しい、負の感情が綯い交ぜになって溢れ、心が引き裂かれそうなほど痛む。


 強引に手を振り払うと、身体ごと拘束するように彼の腕が動いた。長い指が首筋をなぞり、その緩い感触に私は思わず唇を噛む。おかしな声が零れそうだったからだ。

 噛み締めた唇を指でひと撫でされた後、なぞられていた首筋に顔を埋められる。動けなくなったきりの身体は、どうしてか縋るように彼にもたれかかってしまう。


 瞬間、首に鈍い痛みが走った。

 噛みつかれでもしたのかと息が詰まる。じくじくと後を引く痛みが続くそこと同じ場所を、顔を離した彼が指でなぞる。色っぽい仕種だ。


「……あ……」


 痕が残ったに違いなかった。

 どうして、なんてことを、混乱に沈んだ私の頭ではそれ以上なにも考えられない。艶っぽい視線が至近距離から私のそれを絡め取り、すぐにも目を逸らしたいのに逸らせない。

 金縛りに遭ったような――つい先日も、同じ感覚を体験したばかりだ。

 どくどくと激しく脈打つ心臓を、手のひらで強く押さえる。そうでもしていないと、勝手に身体を突き破って飛び出してきそうだった。そんなことはあり得ないと分かっていても、動く手を止められない。


「帰るぞ。送る」

「……結構です。ひとりで帰れます」

「送る」


 多分、返答は求められていない。

 一度は外された腕を再び掴み取られ、引きずられるようにしてホテルのエントランスを出る。外はほのかに蒸し暑く、湿気のこもった夜の空気に触れた私の手のひらは、すぐに汗を滲ませた。


 帰りの車内では、自宅アパートまでの道のりを訊かれてそれに答える以外なにも喋らなかった。自宅を知られることについては、考えを巡らせる余裕すらなかった。


 降り際、運転席から腕を伸ばされて掴まれた。

 今日だけで何度強引に引かれたか、もう思い出せない。けれど、今のそれは強引さの欠片も宿っていない、振り払えばあっさり外れてしまうだろう緩い触れ方だった。


「……さっきは悪かった」


 掠れた声はどこまでも平坦だ。

 私も平坦に答えるべきだと思いながら、口を開く。


「いいえ、大丈夫です。それでは」


 掴まれていた腕をそっと外し、車を降り、ドアを閉める。

 深々と頭を下げることで視線を遮り、まっすぐアパートの階段へ足を進める。


 後ろは、振り返らなかった。

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