《3》狸の罠にかかる
「懇親会、ですか?」
緊張を滲ませた問いかけへ、話を持ちかけてきた張本人である沓澤社長はにこやかに微笑んでみせた。
このところ、社長室への呼び出しが異様に多い。心臓の縮む思いがするからやめてほしいけれど、それを社長本人に直訴できるほどの度胸は持ち合わせていない。
しかも今日は単独で呼び出されたために、これまでとはまた異なる緊張感に襲われていた。上擦った呼吸を引きずったままの私に、社長は再びにっこりと口角を上げて話し始める。
「一応ね、〝創立記念祝賀会〟っていう名目ではあるようなんだが。先代から代替わりしてからはあまり堅苦しいものではなくなっていてね」
「は、はい」
「毎年、妻と一緒に招待されててね。今年もお声がかかったんだけど、遠い親戚に不幸があってねぇ、急遽そちらに向かうことになっちゃったんだよ」
親戚に不幸があったというわりに、社長の笑顔は崩れない。
嫌な予感しかしなかった。渇ききった喉を無理やりこくりと鳴らしたけれど、そこが潤った感覚はなく、それどころかぴりりと薄い痛みが走る。
「会社としての縁もそれなりにはあるが、どちらかといえば沓澤家としての縁のほうが大きくてね。常務や専務に顔を出してもらうのも気が引ける。で、ここは沓澤君に頼もうかなーと思って」
……それで、その件で沓澤代理ではなく私が呼ばれた理由は一体。
私の疑念を読み取ったのか、いささか眉尻を下げて困り顔を作った社長は、おもむろに一通の封筒をデスクから取り出した。
「はい。招待状」
「……はい?」
「ふたりで行ってきてちょうだい。パーティーは今夜だから、午後からフリーに動いて準備してくれていいよ、あーちなみに服装は……」
「ち、ちょっと待ってください!」
なに言ってんの、このおじさん。
自分が勤める会社のトップに対し、ここまで不躾な感想を抱いたのは今回が初めてだった。でも。
行ってきてちょうだい、じゃないよ。
どう考えても無理だよ。
「社長、さすがにその役は私には」
「おや? 沓澤君からは朝のうちにオッケーもらってるよー、後で君にも言っとくって聞いてたけどなぁ」
……なに考えてんの、あの上司。親が親なら子も子だよ。
そんな話はまったく聞いていない。自席で平然とパソコンに向かう沓澤代理の澄まし顔を思い出し、ふつふつと苛立ちが湧き起こる。
「社長。お言葉ですが、そのような重要なお仕事には、事務の私よりもふさわしい人材があるはずです」
冷静に、冷静に。今回ばかりは丸め込まれていられない。
通常業務も中途半端だ。午後からフリーに動いていいと言われたところで、私の仕事が減るわけではない。
すっと目を細めて「ほう?」と言われ、怯んでしまう。けれどここで引いてはいられない。今にも折れそうな心を奮い立たせ、私はひと息にまくし立てる。
「私は沓澤代理からこの件についてなにも伺っておりませんし、営業課から誰かをということであれば、勤続年数から考えても三浦さんに頼まれてはどうでしょうか。若手なら、私より遠田さんや岡さんのほうが適役かと」
「うーん、そうかぁ。でも困ったなぁ、もう先方にも連絡してあるんだよー」
眩暈がした。
せめて了承を取ってからにしてください、という叫びはとうとう声にはできなかった。思わずこめかみを押さえたそのとき、沓澤社長の穏やかな声が耳に届く。
「普段通りにしてくれていい。君は、君自身が思っているよりずっと優秀だからね」
お褒めにあずかり大変光栄ではあるものの、手放しで喜ぶ気にはとてもなれない。このところはこの人にも沓澤代理にも言い包められてばかりで、嬉しいはずの言葉も言葉通りに受け取れそうになかった。
失礼は承知の上で、社長とは目を合わせないまま席を立つ。
失礼します、と零した自分の声は、下手をしたら敵意でも感じ取られてしまうのではと不安になるほど低かった。
「……うんと困らせてやるといい」
ドアノブへ手をかけた瞬間に聞こえてきた声に、はっとする。
反射的に振り返った先では、普段通りに微笑む社長の姿があった。
聞き間違いだろうか。随分と悪どい言い方に聞こえたけれど。
かといって、わざわざ確認を入れる気にはなれない。軽く頭を下げ、私は社長室を後にした。
*
「聞いてませんね」
冷静な声がフロアに響き渡ると同時、上司の瞳に剣呑な色が落ちる。
据わりきった目を直視できなくなった私は、背筋を凍らせ、視線をそろりと彼の喉元へ定めた。
「しかも今夜? 時間がなさすぎる」
「……申し訳ありません。てっきり、事情については社長からご連絡を受けてらっしゃるものとばかり」
「いえ、僕はなにも。親戚の不幸という件も初耳です」
……もしかして、すべて社長がしかけた罠なのか。
なぜ、と疑問が浮かんだところで、社長室を出る間際にかけられた言葉を思い出した。とはいえ、そんなことのためにだなんて、冗談にしては手が込みすぎている。
そこまで考えが巡ったそのとき、グシャッと不穏な音がした。
はっと顔を上げると、目を据わらせたきりの沓澤代理が、口角だけ上げた状態で招待状を握り潰している。本人は笑っているつもりなのかもしれないけれど、怖すぎて変な声が出そうになった。
「か、重ね重ね、申し訳ありませ……」
「いや、那須野さんはむしろ巻き込まれた側でしょう。謝らないでください」
言いながら、沓澤代理はようやく正気を取り戻したらしい。
まだ不機嫌そうではあるものの、周囲の空気もわずかに和らぐ。なんだかほっとしてしまう。
「こうなったものは仕方がないな」
諦め顔でそう呟いてからの沓澤代理の行動は早かった。
課長に許可を取り、午後から自由行動を取らせてもらうことに決まり、あれよあれよという間に私たちは……そう、私も一緒にフロアを出る羽目になった。
「では行きましょうか。荷物はロッカールームですか?」
「は、はい。ってあの、私は……」
「なら早く取ってきてください、今日はもう会社には戻りません。先に外で待ってます」
……どういうことだ。さも当然のように、一緒に行動する流れになっている。
急かすように腕時計をタップしてみせる沓澤代理は、まだ苛々して見えた。そそくさと頭を下げてロッカールームへ急ぎ、バッグを手にエントランスを出ると、眼前に沓澤代理の車が停まっていた。
黒のセダンだ。車には詳しくなく名前までは分からなかったけれど、大変に格好良い上に沓澤代理に似合っていることは分かった。
「早く乗れ」
「は、はい」
慌てて助手席に乗り込む。
いつも通り――いや、ふたりきりになったときだけ砕ける口調を聞き入れ、どうしてか私はほっとする。手早くカーナビを操作しながら、沓澤代理は眉を寄せてぶつぶつ呟き始めた。
「
「あ、はい。リクルートスーツなら自宅に」
「ふーん。どうせ真っ黒いやつだろ、イモみてえなよ……新調してもらうか」
「イモ!? し、失礼な、いやその通りですけど!」
「ほら見ろ」
目を合わせた状態で露骨に溜息をつかれ、私は思わず唸ってしまう。
なぜいかにも新人っぽい真っ黒いものだと分かるのか。新調したいと常々思っていたのは事実だけれど、このタイミングでは金銭的につらい。
そんな不安が顔に出ていたらしい。沓澤代理は、今度は正面を向いたままで「後で社長に請求してやる」と口元を歪めている。
私を使って仕返しを企むのはやめてほしい。
心の声を実際に零すことは堪え、はぁ、と吐息交じりの返事をするに留める。
「規模は大してデカくないし、あんたには社員として参加してもらうわけだからな。まぁでも、いかにも新人です~みたいな格好よりは華やかな感じにしてもらおうか。はは、女は大変だな」
「わ、笑いごとじゃないです。だいたい、どこでどんなのを選べば……」
「手伝ってやる。時間ねえから行きつけのとこになるけど」
ええええ。て、手伝うとは一体。
途方に暮れかけたところに新たな困惑と緊張が降り注いできて、私の頭は一気に飽和状態だ。
「け、結構です! 沓澤代理に手伝ってもらうことなんてありませんし!」
「そんな力いっぱい断らなくても……っつうかもう向かってるから諦めろ、恨むなら社長を恨めよ」
最後のひと言がもっともすぎて、うっかり笑いそうになる。
いや、そもそも沓澤代理が恋人役がどうこうなんて言い出さなければこんなことには……と言いかけて、私は喉まで出かかっていたそれを無理やり呑み込んだ。
『うんと困らせてやるといい』
やはり、なにもかも社長の思惑通りなのかもしれない。
いくら遠縁といっても、社長夫妻が足を運ぶほどの親戚の不幸について、息子の沓澤代理が事情すら聞かされていないとは考えにくい。
ただ、理由がよく分からない。
面白がっているだけではないと信じたい……でも。
手のひらで転がされている感じとは、こういうことを指すのかもしれない。
隣の沓澤代理に聞こえてしまわないよう、窓の外へ視線を投げ、私はこっそりと溜息をついた。
*
向かった先は、一軒のブティックだった。
何度も歩いたことのある繁華街の一角にひっそりと佇む、上品な雰囲気の店だ。なのに見覚えがなく、妙に新鮮な気分になる。
店舗裏の駐車スペースに車を停めた沓澤代理の後ろを、そわそわと落ち着きなく歩いてエントランスに向かう。
店内に入ると、店主と思しき女性――いかにもマダムといった風貌だ――が、沓澤代理をひと目見て艶やかに微笑んだ。顔見知りらしく、彼女はにこやかに私たちの傍へ歩みを寄せてくる。
「いらっしゃいませ、沓澤様。今日はいかがなさいましたか?」
「どうも。ちょっと急用が入って……さっき電話しといた件です。これ、よろしくお願いします」
とんと肩に手を置かれ、今彼が口にした〝これ〟が私を指していると一拍置いてから気づいた。
いつ電話したのか。私がロッカールームに荷物を取りに行っていた間かもしれない。相変わらず抜け目がない。
「あの、『これ』って……」
「文句は後で聞く。とびきり綺麗にしてもらえ」
不満を滲ませた私の声は、うまくはぐらかされてしまった。にやりと笑った沓澤代理を睨みつけた途端、マダムの手が私の腕を引く。
彼女に連れられ、試着室へ入る。一般的なアパレルショップの試着室とは違い、そこは異様に広かった。緊張を覚えつつも、好みの色やサイズ、条件などをマダムに伝え、数着試着してみる。
にこやかにスーツを合わせてくれるマダムは、服の話はしても、他の話題――例えば私のことや私たちの関係について、話を持ちかけてはこなかった。
あれこれ聞かれない分、〝察していますから〟というオーラがひしひしと伝わってくる。なんともいえない居た堪れなさを覚えた私は、無理やり意識を眼前のスーツに向けた。
明るいグレーのジャケットに、オフホワイトのシフォンブラウス。首元には、紺をベースにした柄物のスカーフを当ててもらう。
スカートはジャケットと同色の、自分ではまず選ばないフレアタイプのものだ。裾が控えめなフリルになっていて、ふわふわと揺れて少し落ち着かない。とはいえ、自前のリクルートスーツを思えば、確かにこれは華やかに見えるだろうと納得してしまう。
試着室を出て、沓澤代理にも見てもらった。
一瞬、微かに目を見開いて見え、しかし次の瞬間には彼はあごに指を置いて思案顔になる。
「うーん。綺麗……だけど地味だな、特にそのスカーフ」
「えっ? だ、駄目ですか?」
「柄はそれでもいいよ。こっちの色は?」
マダムが手にしている数点のスカーフの中から彼が選んだのは、私がつけている紺色のスカーフと同じ柄で、色だけ違うもの。こっくりとした深い赤色の品だった。
……地味だから変えるんじゃないのか。あまり変化がなさそうだ。そう思いつつも、その場でささっとつけ替える。
首から抜き取ったスカーフの感触はつるつると滑らかで、いかにも高価なアイテムだという感じがして、いまさらながら肝が冷えた。スカーフをつけ替えて再び沓澤代理へ向き直ると、彼はにこやかに微笑んだ。
「うん。あんたは赤のほうが似合うから、そのほうがいい」
「っ、あ、ありがとう、ございます……」
これは……恥ずかしい。
それに、地味という言葉ばかりに気を取られていたけれど、さっき彼は『綺麗』と口にした。今頃になってそれを思い出し、私の羞恥は状況を無視して勝手に大きくなっていく。
なんだこれ。ただの、デート、みたいだ。
勘違いしてしまいそうな自分を、心の中で叱咤する。顔見知りの店主の前だから、この人はわざとこういう振る舞いを見せているだけだ。
ふと沓澤代理に視線を向けると、彼はマダムと談笑しながらポケットチーフを選んでいた。ちらりと私に視線を向けて悪戯っぽく微笑む彼の手元には、私に選んでくれたスカーフと同じ色と柄のチーフがあった。
なんでそういうこと、するんだろう。それではまるで普通のカップルみたいで、気まずいにもほどがある。
沓澤代理が腹の中でなにを考えているのか、私にはさっぱり分からなかった。
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