《2》堂々巡りの休日
なんだったんだ、あれは。
翌日、土曜――前日の沓澤代理の無茶苦茶な言動について、私はひたすら悶々と考えを巡らせる羽目に陥っていた。
無論、本人に確認する勇気なんて持ち合わせていない。近づいてくる唇を思い出し、自室でひとり頭を抱えそうになる。不自然な挙動を、もう何度繰り返したか分からない。
腕を引かれてから顔を寄せられるまで、避ける時間は十分あった。すぐに身を引き、飴を渡して缶をしまい、さっさと帰路に就けば良かっただけだ。それなのに。
あのとき、金縛りに遭ったように動けなくなった理由はなんなんだろう。
今日が土曜で本当に良かった。この心境を抱えてどんな顔で職場に行けばいいのか、さっぱり分からない。
週明け、沓澤代理はきっと、なにごともなかったような顔で職場に現れる。そしてやはりなにごともなかったように、私と同じ空間で――あの日と同じ場所で仕事をして、会議に出席して、自席に戻って……そうやって、なにもかもを普段通りに収めてしまう気がする。
どこかがおかしくなったきりの私を、ひとり取り残して。
帰宅時の、火に油を注ぐことにしかならない過度な接触も変わらない。もっとも、うちの課には私以外に女性スタッフがいない分、直に粘着的な視線を向けられる機会はない。とはいっても、居心地の悪さに変わりはなかった。
変化といえば、別れ際だ。以前は見向きもせずに『じゃ』と離れていたのに、今では『気をつけて』とか『また明日』とか、私を気遣うひと言が加わるようになった。
社長室に呼び出された日――私が嫌がらせを受けていると、彼が知った日から。
「なに考えてんだろ、あの人……」
声に出せば今よりもましになるかと思った困惑は、自分の声があまりにも弱々しかったために、完全に逆効果に終わった。
別れ際にかけられる声は、日に日に優しさを増して聞こえる。逆に、単に私がそう思いたいだけという気もしてしまう。私は、本当にそう思いたいのかな……堂々巡りになった思考はぐちゃぐちゃに撹拌され、もうなにがなんだかさっぱりだ。
そんな心境のところに昨日のあれだ。処理能力が追いつかない。
『抵抗しない理由って訊いてもいいか』
分からない。分からないことが、怖い。
私は、彼が私に抱く〝勘違いしない女〟という期待に応え続けられるだろうか。いや、そもそもなぜ、こんなモヤモヤした心境を抱えてまで期待に応えようとしているのだったか。
いっそ、見限られたほうが遥かに気楽だ。
私にはこういうことは無理だと切り出し、強制的にこの関係を終わらせる。それこそが私にとって最も早く安寧が訪れる方法に思えて、でも。
「……はぁ」
それは嫌だと思ってしまう自分を、今日も私は切り捨てられないままだ。
*
こういうときは、外出すれば気分が晴れるかもしれない。
そう考え、土曜の夜のうちに果歩を誘った。彼氏さんと予定があるかな、と誘ってから心配になったけれど、果歩からはすぐに了承のメッセージが入った。
そして今日、日曜。
生憎の雨だ。オープンテラスのカフェで待ち合わせという当初の予定を変更し、果歩からの提案で、とあるホテル内のレストランへ向かうことになった。
数ヶ月前に改装し、オーガニック食材を用いたバイキング形式の店に生まれ変わったレストランだ。改装前にしか足を運んだことがなかったから、行ってみたいと常々思っていた。なおさら期待が膨らむ。
ホテルのロビーへ辿り着くと、すでに果歩が到着していた。
最上階のレストランからは、街の景色が一望できた。夜に訪れればムード満点なのかもしれないものの、昼は昼で、眼下に広がる街を眺められて楽しい。今日は悪天候だから、あまり遠くまでは見渡せないけれど。
有機野菜や無添加食品をふんだんに使った料理は、どれも自然な風味を思わせる色合いで美味しそうだ。私も果歩も、取り分ける手がつい泳いでしまう。特に女性に喜ばれそうな料理の数々を、迷いながらも取り分けて席に戻る。
女同士、なおのこと趣味や関心がおおよそ合っている相手との食事は気楽だ。雄平とは数えるくらいしかこういう店に行かなかったな、となぜか唐突に元恋人との記憶が脳裏を過ぎる。
食後にはメニューのデザートを眺め、セルフサービスのコーヒーを注ぐ。
日曜、加えて混雑する時間をわざと避けたとはいっても、天候が天候だからか客足は控えめだ。宿泊客らしき夫婦やカップルがちらほら、後は私たちみたいに女性同士で食事をしている人たちが数名いる程度。リニューアル直後の混雑は凄まじかったと聞いていた分、随分と落ち着いて目に映る。
食事中からお喋りは続いていたけれど、一服してからはさらに踏み込んだ話題に移り変わっていく。
噂好きの果歩は、以前私が伝えた〝沓澤代理と付き合っていないことを広めないでほしい〟という希望を忠実に守ってくれている。口が軽いようで堅い、そんな果歩が相手だからこそ、相談の内容はどんどん具体的になる。
「そっかあ。手が込んでるんだね、沓澤代理。さすがというかやはりというか」
「うん。お眼鏡に適うのが嬉しいのか虚しいのか、そろそろ自分でもよく分かんなくなってきてる」
曖昧に笑ってそう告げると、果歩は露骨に顔をしかめた。
うわぁ、と苦々しく零した彼女の顔を見て、キスされてしまった話はしないでおこうと思う。
果歩のことだ、そのような話を聞いたら怒り出すに決まっている。なにより、その話題に触れないままなら、あれは夢だったのかもという現実逃避を続けていられる。甘えにも似たその希望を、私はいまだに捨てきれずにいた。
「うーん。けどさ、ゆずにもその係をやってるメリットってちゃんとあるんだよね? 雄平は? あれから大丈夫なの?」
「あ、うん。あれから顔合わせてない。多分向こうから避けてくれてる」
「次期社長様が相手じゃねぇ。勝ち目ないって思うよね、そりゃ」
「……そうなのかな」
そう返したそのとき、ふと、以前私を睨みつけてきた総務課の先輩社員たちの視線が思い浮かんだ。
うろ覚えながら、彼女たちの名前も思い出せている。けれど、果歩にはそのことを伝えないほうがいいと強く思う。
果歩にとって、彼女たちは同じ部署の先輩だ。私が余計な話をしたせいで、万が一にも果歩が仕事をしにくくなったり、総務課内の空気が悪くなったりするのは嫌だ。
「沓澤代理、いつまで続ける気なのかねぇ」
「うーん。どうだろうね」
呟くような果歩の言葉に、私も呟くように返事をする。
うっすらと不安を感じているのは事実だ。けれどそれが、終わりが見えないことに対する不安なのか、それともいつか終わりが来ることに対する不安なのか、私はすっかり見失っている。
『抵抗しない理由って訊いてもいいか』
コーヒーカップへ伸ばした指が、ひたりと止まる。
あの夜、私が沓澤代理を突き飛ばす勢いで逃げ帰ったために、私たちが交わした会話は彼のそのひと言で止まってしまった。
抵抗しないわけを訊いてきた理由。
それを不自然だと沓澤代理が判断した結果の、問いかけ。
もしかしたら試されているのでは――不意にそんなことを思う。
私が本当に勘違いしないタイプなのか、今後はときおりああいうふうに試していくつもりなのかもしれない。
そう考えれば辻褄が合う。抵抗しない理由について明確な答えを述べられなかった私は、すでに彼に危険視され始めている可能性もある。
どうしよう。焦る。
いや、なんで焦る必要がある? それで困ること、なにかある?
別にそれでいい。むしろそのほうがずっといい。
平和な日々を取り戻すためのなによりの近道は、向こうに見切りをつけてもらうことだ。でも。
「……ゆず?」
カップを手に固まったきり、つい巡る思考ばかりに集中してしまっていた。心配そうに声をかけられ、私ははっと我に返る。
なんでもない、と返した自分の声は掠れきっていて、物騒なことを考えている頭の中身をすべて晒している気にさせられる。落ち着きに欠ける私の態度に気づいたらしい果歩は、声のトーンを上げて話題を変えた。
「ええと、仕事のほうはどう? 無理はしてない?」
「あ、うん。残業も今は落ち着いてるし、あってもそのときは沓澤代理が手伝ってくれるから」
「ほほう、沓澤代理が……そうですか」
言ってしまってから、私は馬鹿なのかと内心で頭を抱えた。
これでは果歩の気遣いも台無しだ。せっかく変えてもらった話題に、わざわざ自分から彼の話を返すだなんて。
「あっ、別に変な理由とかではなく、ほら、事務の業務は沓澤代理がいろいろ詳しくて、だから……」
言葉を重ねれば重ねるほど、墓穴を掘っている気分になる。
屁理屈じみた私の言い分を耳にした果歩は、ほんのりと薄い微笑みを向けてきた。居た堪れない気分になり、私はカップに残っていたコーヒーを一気に煽る。
「ゆずって沓澤代理のこと、絶対悪く言わないんだね。見てて微笑ましいよ」
「っ、別にそんなことない! すごく失礼なことだって言われるし、それに……っ」
金曜の夜の件を口走りかけ、すんでのところで私は喉を鳴らして耐えた。
不思議そうに首を傾げる果歩に「なんでもない」とぶんぶん首を横に振りながら答え、多分、果歩はなんでもないはずがないと即座に気づいた。けれど、彼女は無理に詳細を尋ねてはこなかった。
「そ、そんなことより。果歩こそ、今日はデートじゃなかったの?」
「あー……うん。実は別れたんだよね、先週」
「えっ?」
突然の報告に、私は大きく目を見開いた。
そうした反応は予想済みだったのか、果歩は困ったように笑う。
「今日はね、そのこともゆずに報告しなきゃって思って。誘ってもらえて良かったよ」
「え……あの、なんで? 結婚の話も出てたんじゃ……」
「うん。向こうの転勤が決まって、ついてきてくれって言われて。あたし、すぐ答えられなかったの」
仕事、やっと慣れてきたところで、今からってときなのに。
思わず零した本音に、『それは俺も一緒だし』と声を荒らげられてしまったのだと語る果歩の目には、確かな失望が滲んでいた。
「対等じゃない感じ、しちゃってさ。でも最初からそうだったのかも。仕事の話が好きな人だったけど、あたしの仕事の話は聞き流すことも多かったし」
控えめに溜息をついた果歩は、カップを手に窓の外へ視線を投げる。
つられて私も窓に目を向けたけれど、雨でずぶ濡れの窓は不明瞭な景観しか生み出せていない。歯がゆい気分になる。
「お前は新しい場所で仕事探せばいいじゃん、とか言われてさ。どこまで上から目線なのって呆れちゃった。あたしよりずっと大人だと思ってたのに、全然違ったみたい」
「……うん」
「気持ちだけじゃどうにもならないこと、いっぱいあるね。そのせいで結局気持ちまで離れちゃったりして、うまくいかなくなる」
デザートのパイシューを崩す果歩のフォークが、ふと動きを止めた。
くしゃくしゃのパイ生地の破片、その成れの果てがおしゃれなグラスからテーブルに零れ落ち、どうしてか私の胸こそじくじくと痛む。
同じくその破片を目に留めた果歩は、諦めたように笑った。そしておそらくわざと、普段よりもワントーン高い楽しげな声をあげる。
「まぁなんていうか、しばらくはフリーだよって話なのね! 久しぶりだからちょっと怖いよね!」
「……うん。でも果歩ならまた見つかるよ、いい人」
「うーん……なんかもう、しばらくはいいやって思ってる。実は」
笑う果歩は、なんだか無理をしているみたいだ。
かといって、それを真っ向から指摘するのは間違っている気もして、私はただ曖昧に口元を緩めるしかできない。
「ゆずの気持ち、やっと分かった気がする。独り身ってもっと寂しいものだって思い込んでたけど、いろいろ軽いね」
「……うん。そうかも」
軽い。そう、軽いんだ。
重いものを地面に下ろして、それを置き去りにして進む。身が軽くて、普段よりももっときちんと周囲に目を配って歩けている気がして、けれど一度ついた傷はなかなか癒えない。自分が思い描いているペースでは治らない。
果歩も今、きっとそんな状態なのだ。割りきって新しい恋を探し始めるには、まだ傷痕が癒えきれていない。
黙りこくる私を目に留めた果歩は、パイシューの最後のひと口分をフォークで刺し、ぽそりと声を零した。
「……ねえ。ゆずは」
「ん?」
「ううん、やっぱりなんでもない。あ、そうだ! 来月の全社合同の納涼会なんだけどね、うちの課の課長がね……」
……この語り方のテンションから察するに、新しい噂話かもしれない。
そう思いつつ果歩の話に耳を傾けているうち、話題はいつしか別のものへ移り変わっていく。
ひたすらに続く堂々巡りを抱えているのは、私だけではないのかも。
ぐるぐるの頭の中を振りきるように、私は小さな安堵とともに、今ぐらいはと悩み自体を忘れることにした。
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