第3章 フェイクガール、××される
《1》抵抗しない理由
フロアの一角――まれに個人あての来客があったときなどに使用するフリースペースで続くミーティングは、かれこれ始まってから二時間が経過していた。
テーブルをふたつ繋げた奥側に沓澤代理、その隣に
最初は課長も交えての部署内ミーティングだったものの、元々外出予定のあった課長は早々に席を外した。
当初こそ穏やかに進められていたそれは、今、かなり怪しい雲行きになってきているようだ。同じフロア内とはいえ、離れた場所で事務業務を進めている私にも分かる程度には、全員が揃いも揃って顔をしかめたり眉を寄せたりと不穏な雰囲気だ。
時刻はとうに午後五時を回っている。
このまま時間外まで続くのだろうか。遠巻きにミーティングの様子を眺め、私はノートパソコンへ向かう。あの横を堂々と突っ切って帰るのは気まずいな、と考えていると、不意に沓澤代理から声がかかった。
「那須野さん。ちょっとこちらにいいですか」
「え? は、はい」
この流れで自分が呼ばれるとは思っていなかったから、声が上擦ってしまう。
進めていた作業を慌てて中断し、私はテーブルの側へ向かう。手前側に腰かけていた
こうしたミーティングで声をかけられることは皆無ではないけれど、ごくまれだ。しかもこれだけピリピリした雰囲気の中、失言でもしてしまわないだろうかと急に不安が襲ってくる。
そんな私の内心なんて知るはずもない沓澤代理は、手元の資料から視線を上げて口を開いた。
「那須野さん、前は
「は、はい。二年ほど」
「意見を聞かせてください。現場経験者の意見が複数あるほうが助かりますので」
……嘘。
四人分の視線によるプレッシャーに、ぞわりと背筋が慄く。
「あの、ですが私は……」
「そうですね、那須野さんもうちの課の一員です。那須野さんの意見って、こういう場ではあまり聞いたことがないから興味深いな。お願いできませんか」
返してきたのは沓澤代理ではなく、彼の隣に座る三浦さんだ。
ミーティングが終わらない原因が彼だということは、傍目からも一目瞭然だった。『しかし』とか『でも』とか、三浦さんは幾度も否定的な意見を述べていた。私に一歩も引かせようとしない今の言葉にも、挑戦的な気配が宿っている。
逃げ場を奪う言い方をされた上に「さっとでいいから目を通してみて」と資料を手渡され、ますます後に引けなくなる。動揺を隠しきれずじまいで、私は渡された書類に視線を落とした。
なにをそこまで長々と揉めていたのか。
資料に記されていたある単語を見た瞬間、私は妙に納得してしまった。
議題は、新店舗のスタンスと方向性について。
独立型、テナント型、アンテナショップ型と、当社が展開する店舗はスタンス別にさまざまな形態を取っている。そんな中、来々年度に新規オープンを予定している店舗の具体的な方向性が、いまだに決定していない。
資料はクリップでふたつ分の束にまとめられていて、うちひとつは常務をはじめとした重役が中心となってまとめた案、もうひとつは若手が中心となってまとめた案のようだ。後者には三浦さんの名前も入っている。
……またか、と思わなくもなかった。
どこの会社でもこういうことはあるのかもしれないけれど、うちの会社は古株と若手の意見が特に噛み合わなくて、平行線を辿りやすいのだ。
前者の保守的な意見と、後者のチャレンジ精神溢れる自由な意見――とにかく割れる。今回もその例に漏れないらしい。
入社十年以内の社員が多い当社は、そこから中間の世代が大きく抜け、次の世代は一気に年齢層が上がるという構造になっている。双方の溝については社長も頭を悩ませていると聞く。その辺りは、果歩から聞いた噂に過ぎないけれど。
老舗としての矜持を重んじる上の世代は、新しい取り組みに対して基本的に腰が重い。インターネット販売も、当初はかなり反対されていたらしい。
一方で、若手からは新しい意見がどんどん出る。新店舗の考案、ネット販売の商品の傾向、昔ながらのラインナップに加えて新たな商品を。その手の意見は、大抵若い社員から提案される。
小さな争いは頻繁にあったものの、今回の問題はそれらとは比較にならない。なにせ、新店舗の方向性を決める重要な議題だ。
今月末の定例会議である程度まとめられるとの話だったけれど、過去二回の会議は平行線のまま終了していた。今回は、古株も若手も相当ピリピリしている。
私が資料を眺めている間も、三浦さんは、常務の意見に対して否定的な発言を繰り返していた。
常務の案は、老舗としての風格を色濃く残す案だ。三浦さんの名前が入っているほうの案とは対照的で、けれどコンセプトとしては常務の案のほうが手堅い印象を受ける。
ふと視線を上げた先で、沓澤代理と目が合った。
普段と同じ薄い微笑みに見えるのに、目元はいつもより楽しげだ。逸らすようにまた資料へ視線を落とした矢先、沓澤代理が声をあげた。
「時間もそんなにないな。どう、那須野さん? ひと通り眺めてみて」
「……はい。だいたいは理解しました」
「では意見を聞いてみましょうか」
四人の視線が再び私に集まる。
現在の営業課は、自分以外の全員が男性スタッフだ。この手の緊張には慣れているものの、どうしても息が詰まりそうになる。
「率直な意見を聞かせてください。もちろん、ここにいる誰にも遠慮する必要はありません」
穏やかな声だった。緊張を察しているような。
はい、と返事をし、私はゆっくりと息を吸ってから口を開いた。
「常務の案には、納得できる点が多くあります」
漂う空気が、ピリリと緊張を増した。
隣の遠田さんが息を呑んだと分かって、けれど一度開いた口を閉じるわけにもいかない。自分の意見を最後まではっきり伝えることについては、店舗勤務時代のミーティング経験で鍛えられている。
常務の案は、老舗としてのプライドが前面に出た店舗設計だ。
上品すぎると受け止められそうな、高級感溢れるスタンス。若い客層が入店をためらいそうだという批判が出てくるだろうなと簡単に想像のつく、若手のスタッフがいかにも毛嫌いしそうな……でも。
「すべての内容に賛成というわけではありませんが、こういったスタンスを一部に設けたり残したりするのは良いと思います。新店舗の建設予定地から考えても、想定の客層には十分合っているかと」
「なるほど。もうひとつ、こっちの案についてはなにかありませんか?」
沓澤代理は私の手元に置かれたふたつの資料のうち、三浦さんの名前が入ったほうを指差してみせた。
ガラス張りの明るい店内、特に女性客に注目を集めそうな併設のカフェ。確かにワクワクするし、魅力的でもある。
「素敵です。むしろ、こちらのほうがお店に入ってみたくなります……ただ、このスタイルで店内のすべてが統一されていたら、『この店、変わったんだな』と感じると思います」
「……うん。ちなみに、那須野さんならどう『変わった』と感じる?」
ときおり相槌を挟んでいた沓澤代理が、最後の言葉だけは明らかに三浦さんに向けて放った。
「木乃田店は、昔ながらの雰囲気を好んで足を運ばれる方も多くいらっしゃいました。若いお客様の中にも、その雰囲気を楽しまれる方はたくさんいらして」
三浦さんは、最初こそ険しい顔をして私の話を聞いていた。
けれど、次第にそれが和らいでいくさまが確かに見えた。わずかな安堵とともに、私はなんとか話を続ける。
「もちろん、新しい要素を取り入れることは大切だと思います。ですが、当社がこれまで培ってきたものも、一緒に大切にしていけたらいいなとも思います。……現場を離れて一年になりますので、あまり参考にならないかもしれませんが、私からは以上です」
「ありがとう、いい意見でした。どう、今の那須野さんの話? もう少し考えてみましょうか」
向かいに腰かける遠田さんと岡さんを交互に見やり、沓澤代理はいつもの薄い微笑みを浮かべている。
「今日はここまでですね。続きはまた明日以降ということで。では」
それきり、沓澤代理は一方的にミーティングを締め括ってしまった。
はっとした顔の三人が、揃いも揃って時計を眺める。三浦さんは若干焦ったように、後のふたりはどこか安堵したように、そんな様子が傍目にもはっきりと伝わってくる。
そして、早々に立ち上がって資料を片づけ始めた沓澤代理を、それぞれが手を伸ばして手伝い始めた。
*
遅れてしまった事務業務は、沓澤代理が残って手伝ってくれた。
上役の意見を毛嫌いしていた三浦さんが、席を立ってから私に向けてきた視線には、ミーティング中に見せていた挑戦的な気配はもう宿っていなかった。それどころか申し訳なさそうな感じさえ覗いた気がして、なんだか意外だった。
日報の残りの入力箇所を埋め、確認してもらう。プリントアウトの前にチェックを入れる沓澤代理は、ノートパソコンから視線を外さないまま、器用に口を動かし始めた。
「さっきは助かった。三浦がかなり頑固だったけど、自分より若手のあんたの意見がアレだったからだろうな、目が覚めたみたいな顔してた。これで多少は折れてくれるかな」
「す、すみません。出しゃばったような物言いになってしまった気が……」
「いや、あのくらい言ってくれ。事務だからって遠慮する必要はないし、逆にそれだと困る。本当はミーティング、あんたにも最初から参加してもらうつもりだったけど、三浦がえらい強気だったからあのタイミングにしただけだし」
「は?」
座る沓澤代理の隣に立ち、私は素っ頓狂な声をあげてしまう。
返す言葉が見つからず黙っていると、沓澤代理はキーボードを操作しながら淡々と続ける。
「遠田も岡も、途中からは言いたいことも言えない感じになってた。あんたも最初からあの中にいたらああなってたんじゃないか?」
「……そう、かもしれません」
「だから。まさか自分より若い奴が常務の案に賛成するとは思ってなかったんだろ。あいつ最近、他が見えなくなってたっぽいからちょうど良かった」
最後の言葉と同時に彼は顔を上げ、目が合う。
彼の顔に浮かんでいるのは、普段の薄い笑みとは違った。不覚にもどきりとして、すぐにそれを掻き消しながら、私は「ありがとうございます」とお礼を告げる。
それにしても、本当によく見ている。感心してしまう。
以前にも同じことを思った……いや、いつも思っている。部下にせよ同僚にせよ上司にせよ、相手を見る目があるという特技は、仕事の能率に直結しているのかもしれない。
プリンターの動く音がする。
印刷された日報の作成者欄に押印し、続いて確認欄に沓澤代理が判を押す。
「昔のままやってたら、今頃この会社の社員は半分も残ってないだろうな。そもそもここまで増やせてなかった」
「……そうかもしれないですね。ネット販売の件を考えれば」
「うん。けど店舗の経営は絶対切れない。古いからって昔のやり方を闇雲に追い出してたんじゃ、いずれガタがくる。だからあんたからああいう意見が出たっていうだけで貴重だった」
「あ、ありがとうございます」
売上が半分でも利益が半分でもなく、社員が半分。そう言い表すところが彼らしいし、彼らしいと思えるようになってきた。
沓澤代理は、どんな企画を考えるときにも、必ずそれを動かす人材を見ている。数字ではなく、それを生み出す〝人〟を。
だから、上役と若手の間に挟まってまで調整してしまう。どちらの意見も大事に考えて、考えすぎて、悩んで――そのために使った時間を惜しまないというのは、なかなかできることではない。
人を人として捉えることを厭わない考え方は、きっと間違っていない。
単に仕事ができるという面だけではなく、そういうところを尊敬したくなる。
日報をファイルに綴じながら、思わず口元が緩んだ。
*
三日後、金曜。
日中にイレギュラーな業務が入って、準備が先延ばしになったらしい。週明けに迫った会議の準備のため、沓澤代理が残業をすると聞いた私は、控えめに手伝いを申し出た。先日のミーティング後、事務業務を手伝ってもらったお礼を兼ねてと考えたのだ。
断られる覚悟もしていたけれど、意外にもあっさり承諾された。むしろ『助かります』と頭を下げられた。そんな反応ではこちらが恐縮してしまう。
時刻は、午後八時を回っている。
中途半端にして途中で帰るのは気が引けた。プレゼン用の資料の誤字脱字を探したり、印刷した分をクリップで綴じたり、やや地味な作業をふたり揃って黙々と続ける。
時間はいいのか、と五回は訊かれた。それ以降は訊かれていないし、訊かれなくなって一時間が過ぎた。
六月中旬、一年で最も日の長い季節に差しかかったとはいえ、窓から見える景色はとうに夜一色だ。三階の窓からは幹線道路を走る車のヘッドライトが覗き、チカチカと私の視界を過ぎっては流れていく。
午後九時直前、ようやくひと通りの支度が完了した。
「ありがとう、助かった。後はプレゼンの準備だけど、それはすぐできると思う」
「さすがですね。慣れてますもんね、会議」
「は? 嫌味かよ」
近頃では、残業時に丁寧な言葉を使われることはなくなった。
気安い口調で話す沓澤代理を知っている人が、部署内に――いや、社内にどれほどいるだろう。もしかしたら自分は希少な現場に立ち会っているのかもしれないと、うっかり口元が緩みそうになる。
沓澤代理も、短い期間とはいえ現場経験を積んでいる。入社して間もない頃、新設されたばかりの都心方面のアンテナショップに配属されていたらしい……と、いつだったか果歩から聞いた。
例えば、その頃一緒に仕事をしていた人たちは、彼のこういう一面を知っていただろうか。どことなく浮ついた気分が、私に無駄口を叩かせる。
「とんでもないです。昇進の話も聞きましたよ、おめでとうございます」
「……へぇ。まだ先の話なのによく知ってたな」
途端に、沓澤代理は表情を一変させた。
しまったと思ってももう遅い。苦々しくしかめられた顔を見て、浮かれかけていた私の気持ちは一気にしぼんでいく。
噂が回るのは早い。特に、沓澤代理に関する話題は。
課長クラスへの昇進の打診が来ているらしいと、先日人づてに聞いたのだ。果歩以外の人に聞かされたから、噂自体はかなり浸透していると思う。
異例の昇進スピードだけれど、きっと誰も反対しない。仕事ができるかできないかは、そこにはおそらく関係がない。皆、そういうものだと思っている。そのまま受け入れてしまう。
沓澤代理自身がそのことを不快に感じていそうな感じは、確かにする。
その程度、すぐに想像がつくはずだったのに……うっかり滑った自分の口を責めようにも、もう手遅れだ。
「……こうやって階段上るっぽく昇進してって、いずれ当然みてえに社長にされんのかね」
資料の束をトントンと揃えながら、沓澤代理はぽつりと呟いた。
独り言のようで、それでいて喋っている内容は他人事じみていた。
今回の昇進の件を、私は沓澤代理本人から一切聞いていない。その手の話を、彼は多分、軽率に公言しない。
余計なことを言ってしまった、と後悔が過ぎる。それでも、いつまでも知らないふりを貫き通すのもそれはそれで不自然だ。とっくに多くの人が知っていて、まことしやかに囁かれている話題なのだから。
「そんなことないです。今回だって、実力がきちんと評価された結果だと思います」
余計な言葉に、余計な言葉をさらに重ねる。私はなにが言いたいんだろうと辟易しそうになって、でも伝えずにはいられなかった。
ムキになっている気がする。相手も同じことを思っている気もする。
沈黙が落ち、急に恥ずかしくなった。妙な空気になってしまったことを悔いて、けれど自分にはどうにもできない。居た堪れなくなって顔を伏せたそのとき、沓澤代理が普段よりもトーンの高い声をあげた。
「まあいいや、それよりまずは週明けの会議だな。無事に終わったらなんか褒美くれよ」
「な、なんでですか、むしろ私がほしいくらいなのに。あ、今日の分って残業つけてもいいですか」
「当たり前だろ、俺もつける。上には俺から言っておく」
重苦しい空気を一蹴する沓澤代理の軽口に、私もなんとか軽口を返す。
案外、そういうものはうまくいってしまう。私が自ら引き起こした事故のような雰囲気は、瞬時に掻き消えてくれた。
んん、と腕を上げて伸びをする沓澤代理は、よく見ると
ジャージに寝癖に眼鏡ではないだけで、あの日と同じ姿を見ている気分だ。隙だらけというか……なぜか見ているこちらこそ焦りを覚えそうになる。
「あとあんた、嫌がらせってあれから大丈夫?」
「は、はい。特にはなにも」
「そうか。もう隠すなよ」
笑う沓澤代理はやはり隙だらけに見え、困ってしまう。
大丈夫です、と口角を上げるのが精一杯だった。実際、最近はこれといった嫌がらせは受けていない。
それよりも私が恐れているのは、この人自身の、不意打ちに近い仕種や言動だ。
「那須野。今日のラインナップは?」
「えっ? ああ、飴ですか?」
さも当然のように問われ、一瞬なんのことか頭がついていかなかったけれど、すぐに例の飴缶を指しているのだと気づく。
持ち歩く飴缶の種類を、私が毎日変えていると知った沓澤代理は、それ以降ずっとその調子だ。名前も、普段は〝さん〟をつけて呼ぶ癖に、今はふたりきりだからか呼び捨てになっている。
学生時代に戻った感覚。先輩と後輩、部活仲間みたいな感じ。
このところよく感じているこれが、楽しくもあり、同時に怖くもある。むやみに浮ついてはならないと、勘違いだけはするなと、もうひとりの私が心の中で声高に叫んでいる。それを自覚しながらも、私はにこりと微笑んだ。
「今日はええと、いちごとバターと……柚子はちみつ、です」
書類を届けた日以来、柚子はちみつ味はラインナップから外せなくなった。
自分の行動が馬鹿らしく思えて、けれど確かにワクワクした感じもあって、結局いつもワクワクのほうに身を委ねてしまう。
「んー、じゃあゆず」
……からかい交じりの呼び方に、今日こそは言い返してやりたくなる。
この人は、おそらく私の下の名前が〝ゆず〟だと気づいていない。知ったら一体どんな顔をするのかと思いつつ、固まりかけた口元をなんとか動かす。
「っ、その言い方やめてもらえませんか。ちゃんと柚子はちみつって言ってくださ……」
「違う」
言えたと思ったのに、最後までは言えなかった。
私の声を掻き消すように否定の言葉が続いた気がして、そうと思い至ったときには、すでに腕を緩く引かれた後。
「え?」
椅子の上でバランスを崩した私の身体は重心がずれ、大きく傾ぐ。
体勢を立て直そうと思うよりも早く、ゆっくりと沓澤代理の顔が近づいてくる。
動けない。動けない理由が分からない。分からないうちに、視界が陰る。
それくらい近いと、唇、当たっちゃう――そう思った瞬間、やわらかな感触がそこを走った。
目を閉じる暇はなかった。
やわらかなそれが、近づいてきたときと同じくゆっくり離れていく。開きっぱなしの私の目に、熱っぽいような冷めているような、どちらともつかない沓澤代理の視線が近距離から絡む。
「……抵抗しない理由って訊いてもいいか」
機能を忘れた耳に、低い声が刺さる。
絡んだ視線に逃げ場を失った私の、金縛りのごとく固まっていた身体が、魔法が解けたかのように動き始める。
「っ、し、失礼します……ッ!」
掴まれた腕を振り払うと、それもまた、思ったよりも簡単にほどけた。
残業を始める前にロッカールームから持ってきていたバッグを、ひったくるようにして手に取る。手が震えて、なかなかうまく取っ手を握れなくて、もどかしくて堪らなかった。
他愛もない雰囲気は、すでに一片も残っていない。
真っ赤に染まっているだろう自分の顔を隠すこともできずじまいで、私はその場から走り去った。
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