《3》火に油の擁護策

「いや~、私も噂は聞いてるよ。那須野さん、本当に災難だねぇ」


 社長室のソファは、外観の年季の入り方からは考えられないくらいにやわらかい。けれど今の私には、そのやわらかさを心地好いと感じていられる余裕なんて、これっぽっちも残っていなかった。

 顔全体に貼りつけた笑みがぴしりとひび割れた気がして、思わず指で頬をなぞる。当然ひびが入っているわけはなく、けれどそこに触れた指を引き剥がすことはできそうになかった。


 社内メールで呼び出しを受け、私とともに社長室へ呼び出された諸悪の根源・沓澤代理は、隣に悠然と腰かけたきりで怯みもしていない。

 挙句の果てに、恐縮しきりの私へ「顔のパーツがひん曲がっていますよ」と失礼な発言まで繰り出してきた。遠慮も容赦もなくて嫌になる。


 金曜、午後。私たちは揃って社長室に呼び出されていた。

 一週間前にもここを訪れた。古くもない記憶のはずが、何年も前のことのように感じられ、私は溜息をついてしまいそうになる。よりによってこの面子の前でそれはまずいと思い直し、零れる寸前で、なんとか喉の奥に押し込めて凌いだ。


「はぁ。僕も那須野さんも忙しいのでさっさと用件を話してもらえませんか」

「えっ忙しいの? じゃあお前は戻っていいよ、那須野さんだけ残ってもらえれば……」

「駄目に決まってんだろ。なに吹き込むつもりだよ」

「あらあら、『吹き込む』なんて人聞きが悪いねぇ、さすが私の息子だねぇ」

「そりゃどうも」


 途中から丁寧語を脱ぎ捨てた沓澤代理の声は、普段よりも低い。

 かなり不穏な親子の会話を前に妙な声が出そうになったところを、私は無理やり我慢した。


 用件を考える。それに、社長はなにをどこまで知っているのか。本当に。

 一週間前にも同じことを思った。そのときと、疑問の内容がこれっぽっちも変わっていない。私こそこの一週間なにをしていたのか、と憂鬱に拍車がかかる。


「うーん、じゃあ沓澤君の機嫌がこれ以上悪くなる前に……単刀直入に訊くけど、君たちって付き合ってるの?」

「付き合ってないです」


 沓澤代理は即答した。私なんてまだ口も開いていない。出遅れての対応に迷いつつも、私は社長に視線を合わせ、こくりと頷いてみせる。

 へぇ、と穏やかに笑う社長は、本当にそれを知りたかったのかと疑わしくなるほど平然としている。本当に聞きたいことや確認したいことは、どうやらその点ではなさそうだ。

 底の知れない不安を覚え、私は再び身を固くする。しばらく続いた沈黙の後、沓澤代理が溜息交じりに口を開いた。


「そう見えるように協力してもらってる。こないだ家に帰ったときも、妙な話ばっかりしてた人、いたでしょ。その辺の対応もいずれしてもらうつもり」

「ああ、母さんか。そういえばなんやかんや言ってたかもねぇ、かんさんのお嬢さんがどうとかこうとか」

「……そういうのが面倒くせえんだっつの」

「でも那須野さんのこと、母さんは知らないぞ?」

「社内が先っていうだけ。けど一応言っといて。当然、本当のことは喋らないでください」


 会話の中に知らない名前が登場したものの、私には誰なのか分からなかった。

 得意先や取引先の中に同じ名のところがあるかどうか、思い浮かべてみるけれど、私が把握している中に菅野という名前は存在しない。思い当たる従業員もいない。〝菅野さん〟は、会社関係の人物ではないのかもしれなかった。


 沓澤代理は、私を使って、社内のみならず社外の人間まで牽制したいのかもしれない。

 そういう事情は先に教えておいてくださいよ、私、一応当事者ですし……と、疲れた頭で思った。そろそろ心労で痩せそうだ。


「那須野さんはその辺、ちゃんと了承してるのかい?」


 突如矛先を向けられ、私は弾かれたように顔を上げた。温厚そうな社長の視線と私のそれがかち合い、私は曖昧に笑い返すしかできない。

 はい、と声を絞り出すと、社長はその日初めて物憂げな吐息を零した。なにか余計なことでも言ってしまったかと一瞬背筋が冷えたけれど、社長は私にではなく、息子である沓澤代理に対してそれを零したのだとすぐに思い至る。


「事情は分かった。先週、書類をお願いしたときは相当に動揺してたもんねぇ那須野さん……そのときからおかしいとは思ってたんだけど、そういう事情だったとはねぇ」

「っ、申し訳ありません。騙すような真似を……」


 反射的に口をついた謝罪の言葉に、社長は目を丸くした。


「えー、那須野さんが謝るところじゃないよ。むしろお前が那須野さんに謝りなさいよ、ほら」

「なんで?」

「なんでって、迷惑かけてるだろう!」

「別にかけてない」

「いやいや、思いっきりかけてるよ。こんなに可愛らしいお嬢さん、わけの分からない理由のために独り占めして……お前のせいでいろいろ不便しててかわいそうじゃないか。彼氏も作れないだろうに」


 セクハラギリギリ……いや、ほぼアウトな会話を目の前で繰り広げられ、さすがに居た堪れなくなる。

 社長が、沓澤代理ではなく私のお父さんのような発言を繰り出していることに、場違いにもうっかり笑ってしまいそうになった。


「僕はそんな話は聞いてないですね。どうですか、那須野さんは迷惑ですか?」

「えっ、あの、迷惑……と申しますか」

「いやいや、今ここではっきり『迷惑です』って那須野さんが言えるわけないでしょ、馬鹿なのお前?」


 ……社長、頑張って。ものすごく頼りにしています。

 表面的には冷静ながらも、激しい火花が散って見えそうな舌戦だ。全力で社長を応援したくなったところで、社長は深い溜息を落とした。


「嫌がらせなんかは受けてないのかい? ……私の見間違いじゃなかったら、今朝もきなくさい場面があったみたいだけど」


 虚を突かれ、私は息を呑んだ。

 今朝の記憶が蘇る。特段気にすることでもないと無理に思い込んでいたことを思い出して、ずきりと胸が痛んだ。


 果歩と同じ、総務課の先輩社員だった。見覚えはあった。

 睨みつけるように私を見ていた社員ともうひとりの社員、ふたりの女性。思いきって目を向けたときには、視線を逸らされてしまった後だった。

 彼女たちとは直接の面識がないから、多分そういうことなのだと思う。他にそんな目を向けられる理由がない。


「いいえ。大丈夫です」


 絞り出した声は、無駄に掠れていた。

 これではトラブルがあったと明言しているに等しい。頭を抱えたくなる。隣から沓澤代理の視線を感じたけれど、目を向ける気にはなれなかった。


「そうか。まぁなにかあったら全部、沓澤君のせいにすればいいと思うよ。君がつらい目に遭う必要はこれっぽっちもないからね」

「いえ、本当に大丈夫です。申し訳ありません、プライベートな話でお時間を割かせてしまって……」

「いやいや、私が呼び出したんだからいいんだ。あと本当に、なにかあったらすべて沓澤君のせいに」

「那須野。行くぞ」


 社長の言葉の途中で、沓澤代理は唐突に立ち上がり、私の腕を引いた。

 ここまであからさまな接触は初めてだ。堪らず息を呑み、きっとそれは私たちを凝視している社長にも伝わった。結局、退室する間際になんとか「失礼します」とだけ口に乗せ、そのまま社長室を後にする形になってしまった。


 沓澤代理は、私の腕を掴んだきり放さない。歩く速度が速い。私も歩幅を広げ、急ぎ足で応じる。

 社長室は四階、営業課を含めた営業部は三階にある。社員のみでの使用が制限されているエレベーターへ乗り込んだ沓澤代理は、なぜか二階のボタンを押した。

 二階には備品倉庫と小会議室がふた部屋、それから総務部がある。怪訝に思っているうちにエレベーターは二階へ到着し、あれよあれよという間に、私は備品倉庫のドアの奥側へ押し込まれてしまった。


 無人の備品倉庫は、初夏だというのにひんやりとしていた。

 背筋が震える。震えた理由はもちろん、体感的な涼しさによるものだけではなかった。


「あの、ここ、なにか用ですか?」

「あんた嫌がらせ受けてんの?」


 質問に質問を返され、ようやく合点がいった。

 不躾に社長室を飛び出し、ひとのないこの場所へ彼が立ち寄った、その理由は。


「いえ、今のところは大丈夫です」

「だったらさっきの『今朝の』って話はなんだ」

「……本当になんでもないんです。ただ、たまに面識がない他部署の人から変な視線を向けられることがあるくらいで。今朝のもそれです」


 わざと濁した。

 女性社員、それも複数の人物に睨みつけられたとはとても言えない。だいたいが、私の思い違いなのかもしれないのだから……けれど。


 社長の言葉は意外だった。あの一部始終を見られていたのか。もしかしたら、私があの場を訪れるよりも前から、社長は彼女たちを見かけていたのかもしれなかった。各部署にも頻繁に顔を出す彼のことだ、あり得ない話ではない。

 巡らせていた思考はしかし、苛立ったような沓澤代理の声に掻き消されてしまう。


「……あのさ。そういうの、もっと早く教えてくんねえかな」

「っ、す、すみません……」

「次、もし誰かになんかされたら絶対教えろ。だから」


 ――もう少し、今の関係を続けてほしい。


 続いた声は一転して弱々しかった。苛立ちが削げ落ちた、気分でも悪いのかと心配になってくるほどの、らしくない声だった。

 それ以上なにを考える間もなく、私はこくりと頷き返してしまう。


 ……断れない。

 押しの弱さも、ここまで来ると笑えない。眼前に覗くネクタイの結び目をぼうっと見つめながら、私が断れない理由は一体なんだろう、と思う。

 弱々しくも真剣な声で頼み込まれているから断りにくいだけなのか、上司からの命令に等しい頼みごとだから断れないのか、それ以外の理由がなにかあるのか。考えれば考えるほど、靄に揉まれるように分からなくなっていく。


「……戻るか」

「あ……はい」

「先に行ってくれ。少ししてから戻る」


 煩雑に積まれたコピー用紙の束から香る真新しい紙の匂いに、鼻の奥がつんと痛む。

 今はなにを考えても、新しい答えなんて出ない気がした。小さく頷き返した私は、先に備品倉庫を後にした。



     *



 デスクの前方に積まれたリングファイル越しに、露骨なほどじっと見つめられている。

 よりによって彼のデスクは向かいだ。視線を遮るのは難しい。分厚いファイル群にそれを期待しようにも、残念ながら少々高さが足りない。


 午後五時三十分。

 定時のきっかり十秒前、彼が席からすっと立ち上がる。


「那須野。帰るぞ」


 席へ歩み寄ってくる。定時ぴったりに声をかけられる。残業があるときは、終わるまで手を貸してくれる。今のところはだいたいそんな感じだ。

 肩に触れる大きな手のひらの感触が、無駄に私を惑わせる。確かに、これでは多少なりとも期待を持った女性なら一発で落ちるだろう。

 耳の傍で吐息とともに囁かれるバリトンボイスは、〝変な勘違いをしなそう〟という彼のお眼鏡に適った私でも、油断すればあっけなく転がり落ちてしまいそうになるほどの破壊力を秘めている。


 ……この関係を解消してもらうこと、それがベストだ。

 けれどそれは、先日、備品倉庫で沓澤代理本人に拒否されてしまった。しかもあれ以来、彼はことあるごとに私の周囲へ目を光らせている。


 沓澤代理は、私たちが親密に見えそうな態度を、今まで以上に分かりやすく取るようになった。

 残業で残った日、先に帰宅した先輩社員たちの浮ついた視線を思い出す。今はあれの比ではない視線を、さらに多くの人たちから向けられている始末だ。


 火に油を注いでいる自覚が、果たして彼自身にあるのかどうか。

 一方で、断れない私は私で大概だ。押しに弱い――そんな言葉で済ませている場合ではない。それなのに。


 隣の彼に悟られないよう、口の中で溜息を噛み殺す。

 この性格をどうにかしないことには、私には安寧なんて永遠に訪れないのかもしれない。

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