《2》ふたりでの残業
金曜に書類を届けた後、週末の休暇でおおよそ治ったらしい。
月曜、沓澤代理は至って普通に職場へ現れた。
まだ声が掠れている気はしたものの、咳やくしゃみといった症状もなく普段通りだ。なんとなく安心した。
月曜、火曜……順調に定時に声をかけられては退社し、帰路に就く。そっけない、挨拶と呼んでいいのかも分からない『じゃ』という別れ際の声はいつもと同じだ。むしろほっとしてしまう。
そして、水曜。
他部署の事務スタッフのミスが我が課にも及び、残業になった。よりによって退勤間際に発覚したそれの処理に追われる私を、沓澤代理と他ふたりのスタッフが手分けして手伝ってくれた。
時刻はすでに午後八時を回っている。手伝ってくれていたふたりが先に帰宅して、今、フロアには私と沓澤代理だけが残っていた。
「これで最後ですか?」
「あ、はい。リスト、メールに添付して今送ります」
「よろしくお願いします」
仕事中だから、彼の口調は崩れない。徹底されている。
カタカタ、カタカタ。デスクを挟んで向かい合いながら、聞こえる音はそれぞれがノートパソコンのキーボードを叩く乾いた音だけだ。画面から微かに目を逸らした先に、沓澤代理の整った顔が覗き、私は不意打ちを食らった気分になる。
どうしても、唇に目が行ってしまう。
男の人にしてはやわらかそうな唇。ほんの少し開いて見えて、見ているこちらのほうが恥ずかしくなってくる。
風邪をひいていたときの弱りきった姿が、不意に脳裏を過ぎった。
だらしなさを感じるほどの猫背だったけれど、それでも彼の頭は私のそれより高い位置にあった。私だって女性にしては高めの身長なのに……多分百八十センチ近くあるんだろうなと思う。
無理やり飴を握らせたときに触れた指の感触は、焦っていたためか碌に覚えていない。節の目立つ指がキーを叩くその様子に、いつしか画面の角から覗くように見入ってしまっていた私は、視線を上げた瞬間息を詰まらせた。
にやにやと薄ら笑いを浮かべて私を見つめている沓澤代理と、ばっちり目が合ったからだ。
「なに見てんだよ。終わったのか」
「っ、あとちょっと、です……」
「へえ。しばらく指、動いてなかったけど」
からかいを孕んだ言葉遣いは、先ほどとは打って変わって砕けている。
ふたりきりとはいえ、彼が仕事中にこんな態度を取ることは初めてで、残りの仕事が全部頭から抜け落ちてしまいそうになる。躍起になって目の前の画面へ意識を戻し、私はなんとか指を動かす。
とそのとき、自席に座っていた沓澤代理がおもむろに立ち上がった。
ぐるりとデスクを回って私の傍まで歩みを寄せた彼は、隣の席――普段は他のスタッフがかけている席だ――に座り、まじまじと私の顔を覗き込み始めた。
な、なになになに。仕事中ですよ、妙な行動は謹んでいただきたい。
指が強張る。思えば、さっきからバックスペースキーしか打てていない気もする。
「指、案外しっかりしてんだな」
「はッ、はい?」
「なんつうか……骨太っつうかさ。あ、悪い意味じゃねえんだけど」
言葉を選ぶ素振りこそ窺えたものの、結局選びきれていない。そつのない対応が得意な沓澤代理らしくない気がして、私は思わず苦笑する。
就職して以降、ピンポイントでそこへ触れてくる人がいなかっただけで、学生時代には周囲によく意外がられていた。だから慣れている。
要するに、私は指が少し……いや、だいぶ太いのだ。
「いいですよ、慣れてるので。私、昔バレー部だったんですよ。これはつき指の痕です」
沓澤代理の視線が、いまだにぽっこりと腫れて見える右手人差し指の関節に向いている気がして、私はそう説明する。
彼はすぐに納得したらしく、へぇ、と声をあげた。
「簡単に想像つくな、バレー部とか」
「そうでしょうね。ちなみに女子にモテてましたよ、男子には全然でしたけど」
「それもスムーズに想像できる」
「さりげに失礼ですよそれ」
「あ、いや、女子にっていう話のほう……」
「取ってつけたようなフォローをどうもありがとうございます」
「……んだよ、可愛くねえな」
「はいはい、申し訳ありません」
「はいはいってあんた……」
流れるように喋っているうち、妙な緊張は消えていた。
残り数行となったデータの移行を、会話の合間に終わらせてしまう。エンターキーをカツンと叩き、上司の目の前だということをすっかり忘れた私は、腕を上に高く伸ばして大きく伸びをした。
「終わりました! ありがとうございました、遅くまで手伝っていただいて」
「はいはいご苦労さん」
「はいはいって……別にいいですけど」
「さっきあんたも言ってただろ」
こんなに砕けたやり取りは初めてだ。並んで帰路に就くときにも、この人を相手に今のような喋り方をしたことはない。しかも今は仕事中だ。
彼が先に破った私たちの暗黙のルールは、なし崩し的に壊れていく。壊れていいのかどうかを判断する気持ちも、残務を終えた解放感のせいで鈍ってしまっている。
馴れ馴れしい態度をあれだけ嫌がっていた彼だ。こういう喋り方をしたら気を悪くするだろうかと一抹の不安を覚えた直後、普段の薄い笑みとは完全に異なる横顔が覗く。
緊張が背筋を走った。
こんなことしてて、大丈夫なのかな、私。
先に帰宅した先輩社員たちのそわそわした態度を思い出す。邪推とまでは呼べない、けれど私と沓澤代理がふたりきりでフロアに残ることに噂の素材を見つけたような浮ついた表情。それを目にしたときは、さすがに居心地が悪かった。
……間違いだったのかもしれない。思ってもみない事態に巻き込まれて、丸め込まれて、それで私まで浮ついてしまうのはきっと正しくない。
走った不安は、珍しく間延びした沓澤代理の声に掻き消された。
「那須野。今日も持ってきてんのか、飴」
「あ、はい。出しましょうか」
「マジかよ、冗談で振ったのにそんな普通な感じで出てくんの? うわ、しかもまた三本出てきたウケる……」
大きな手のひらを口元に当てて笑いを堪える沓澤代理を薄く睨みつけると、彼は「悪い悪い」と、少しも悪いと思っていなそうな声で謝罪してきた。そしてノートパソコンの手前に並べた缶を順に眺め、うーん、と迷うような声をあげる。
「今日はパインと巨峰と柚子はちみつ、か。柚子はちみつ、いっつもあるけどレギュラーなの?」
「いえ、その……沓澤さん、まだ喉つらいかなって思って」
「え?」
「そ、そのためだけってわけじゃないですけど」
「……ふうん」
ぽろりと零れてしまった本音を慌てて取り繕いながら、書類を届けたときに食事の話を振ったことを思い出す。
あのとき、確かに壁を感じた。
余計なお世話、出すぎた真似。そういうものは彼にとって不要で、だから今の私の発言は多分まずい。
あのときはそれを察したから、それ以上食い下がらなかった。
すぐ引いて、余計なことを言ってしまったなと反省して……あのときと同じ薄ら寒さを感じる。でも。
今の沓澤代理は、なぜか楽しそうだ。
自分が妙な気を回しすぎているのではと訝しくなってくるくらいに楽しそうで、拍子抜けしてしまう。
「これがいいんだよな。ビニール包装で十分なのに、あえてわざわざ小洒落たデザインの缶っていう」
柚子はちみつ味の缶を指でつつき、沓澤代理はそう呟いた。いつの間にか彼が腰かける椅子は逆向きになっていて、左右に軽く揺らされる椅子が、キィ、とときおり甲高い音を立てる。
学生じみた仕種だ。あはは、と声を出して笑いそうになった私は、慌てて真面目な顔を取り繕った。独り言だったのかもしれないと思いつつも、はい、と小さく相槌を入れる。
ビニールのパッケージではなく、筒状の缶に入った飴。
フレーバーのラインナップが豊富なこの飴は、ラベルこそそれぞれ異なるものの、缶の形状はすべて統一されている。高級感とまではいかないけれど、食料品店や量販店などで販売されている飴に比べると、独特の存在感はある。
昔からある当社の商品のひとつだ。通常の飴に比べてひと粒ひと粒の大きさが控えめな分、どのフレーバーも味が濃厚に仕上げられている。
元々飴好きではあったけれど、私がこれを集め始めた理由には、もっとはっきりしたものがあった。
コレクションしたくなる気持ちを擽る、パッケージのデザインだ。
瓶なら自室に並べて飾っても素敵だろう。ただ、缶だからかつい持ち歩きたくなる。大きめのバッグに、その日の朝に選んだ缶を三つ入れて出かける。それが私の朝の日課だ。店舗スタッフとして勤めていた頃から続けている、ちょっとした日課。
「これ、私が現場でお客様にお勧めして、初めて買ってもらえた商品なんです」
懐かしさにかまけて思わず零してしまう。遊ぶように缶を軽く弾いていた沓澤代理の指の動きが、不意に止まった。
どちらかといえば独り言、そんな調子で私は口を開き続ける。
視線を寄せられてはいるけれど、沓澤代理はなにも言わない。その沈黙が続きを促していると捉えてしまうのは、さすがに思い込みが過ぎるだろうか。
「気ままに旅行してるっていう、年配のご夫婦だったんですが」
平日に、場所も日程もなにも決めず、することはそのときの気分で決める。寝坊しても構わず、雨が降ったらそれもまた一興。お出かけの延長のようなのんびりした旅の合間に、その夫妻は私が勤める店へ、やはり気が赴くままといった様子で足を踏み入れた。
『息子夫婦と孫に、なにかお土産を選びたくてね。でも、あまり気取った物や高価な物というのも違う気がするの』
奥様が丹念に商品を手に取っては見比べていて、決めあぐねていたから声をかけた。要望を伺いながら、旅の話もいろいろ聞いた。のどかな平日の昼下がり、客足がそれほど多くない中、私も奥様と一緒になにがいいか考えた。
店員さん、忙しいんじゃないのか――呆れたように奥様に笑いかけるご主人の顔も、はっきりと記憶に残っている。
その中で、この飴をお勧めした。
缶のデザインと店舗限定のフレーバー、両方を気に入ってもらえて、これなら孫も喜ぶと思うわ、と奥様は楽しそうに笑った。
お土産を渡している姿や、受け取っている人の顔、そんな情景がふわりと頭に浮かんで、私まで温かい気持ちを分けてもらった気分だった。
売れ筋商品というほどではない。流行に左右されない味、豊富なフレーバーの種類、特徴的なパッケージ。特徴といえばその程度で、それがなければただの飴玉だ。
付加価値が大切なのだと思う。例えばそれはパッケージだったり、種類の豊富さだったり、あるいは販売員の接客だったり、顧客のニーズを把握することだったり――さまざまな要素が合わさって、なんの変哲もない普通の飴が誰かの特別になる。
興味を持ってもらえて、本当の味を知ってもらえて、美味しく食べてもらえて、パッケージは思い出の品物になって……誰かが誰かと楽しく過ごす時間に添えられるなら、飴だってきっと本望だ。もちろん飴に限らず、どのお土産やお菓子にとっても。
「現場の仕事、好きでした。キツいこともいっぱいありましたけど、楽しいことのほうが先に思い出せるっていうか」
思い出の余韻が徐々に薄まっていく中、はっとした。
あ、と苦々しい声が零れる。いくらなんでも喋りすぎた。残業へ巻き込んだ相手に対し、どこまで空気の読めない行動に出てしまったのかと、私は血の気を引かせる。
「っ、す、すみません。取り留めもない話を長々と、失礼しまし……」
顔を上げて放った言葉の最後は、音にならなかった。
目が合った沓澤代理が、頬杖をつきながら、見たこともないくらい穏やかな顔で笑っていたからだ。
「那須野は真面目だな。えらい」
一瞬ぽかんとして、直後に顔が熱くなる。
沓澤代理は本当に整った顔をしていて、そんなふうに笑いかけられたら誤解してしまう女の人だってたくさんいそうで、それを仕方ないとも思って、でも。
でも、私はそうなっちゃ駄目なんだ――鈍い痛みが胸を走り抜けていく。
「え、いや……普通だと思いますよ」
「はいはい。ほら、早くそれくれ。ゆずの」
……今、これだけ動揺しているときに限ってその言い方はやめてほしい。
誤解も勘違いも絶対に避けたくて踏み留まった心が、一気に底まで転落してしまいそうになる。
この人、私の下の名前、知らないのかな。
毒づくようにそんなことを思い、私は少し雑な仕種で柚子はちみつの飴缶の蓋を開けた。
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