《5》天国なのに地獄みたいな地点に陥落してしまった件

 化粧の大半が涙で溶け、諏訪部の顔はパンダみたいになっている。

 その頬を、壊れ物に触るようにそっと撫でた。流れ落ちていく涙も黒い。しかしそこに突っ込んでいる余裕は、今の俺には露ほどもなかった。


 細い身体をシャツで包み、緩く抱き締めたきり。痛いくらいに主張を繰り返していた男としての反応も、現在では随分とおとなしくなっている。さすがにこの状況ではもう……情けないというかなんというか、つらい。


 ぐすぐすと泣き続ける諏訪部は、ようやく元の呼吸を取り戻しつつあった。

 ……消え去りたいレベルの罪悪感だ。俺、死んだほうが良くないか。俺がこの子に対して取った言動は、震える背中を緩くさすり続ける程度で許される所業では、きっとない。

 元々、俺は女を泣かせる男の存在自体が許せないと思う性質だ。その概念が、今、完全に自分に当てはまってしまっている。


 初めてだったからとか、初めてではなかったからどうかとか、問題はそんなことではない。

 そもそもが勝手な想像だった。こんな格好をしているのだから、慣れているに違いない……そんなものは、俺が一方的に抱いていたイメージでしかない。その勝手なイメージに基づいた言動の結果、諏訪部を傷つけ、泣かせてしまった。


 俺は最低だ。見た目で判断してしまった。

 自分だって、そういうふうに判断されてさんざん嫌な目に遭ってきたのに。



     *



「……なんとなく気づいてたの。桐生さん、青山さんのことが好きなんだろうなって」


 鼻を鳴らしていた諏訪部が、徐々に落ち着いてきた呼吸の合間を縫って喋り始める。

 顔は互いによく見えない。諏訪部も、見られていないから話せているのだと思う。緩く抱き締めた細い身体が、言葉の合間に深呼吸を繰り返してはふるりと震える。


「もしかしたら、他にも勘づいてる子、いるかも。別に顔に出てたわけじゃないと思うけど、桐生さんってモテるから。仕事できるしクールなイメージあるし、見てる子っていっぱいいるの。派遣も正社員も」

「……へぇ」

「今日はね、桐生さん、つらそうなの顔に出てるな、相当なんだなって思って、だから誘ったの。あのくらい言わないと帰っちゃったでしょ? あたしなんかじゃ代わりにもならないだろうけど、ちょっとでも気が晴れたらいいなって」

「……諏訪部」

「ちょっと焦っちゃった。『あれ、課長は?』って気づいて席立とうとしてた子、何人かいたから」


 諏訪部の声には抑揚がない。

 わずかに震えている気がして、彼女を抱き寄せる腕に力がこもる。


「タクシーに乗るとき、びっくりした。桐生さん、あたしみたいなのは絶対タイプじゃないよなって思ってたから」

「……なんで」

「だって青山さん、清楚な感じだし。それに大人の女って感じもするもん、桐生さんも言ってたじゃん。あたし、顔も中身も真逆だし、齢だってすっごく離れてる」


 力なく笑う諏訪部の顔には、諦めに似た気配が滲んでいる。

 見た目。年齢。どちらも、自分がさっきまで悪態をついていたポイントであることに気づき、居心地の悪さに思わず顔をしかめてしまう。


「気晴らしくらいなら付き合ってくれるかもって思ったの。無理やり誘っちゃったけど、嬉しかった。お店で飲んでるとき、いつもと違って桐生さん、可愛くて。でも、そう思ったら今度はつらくなっちゃった」

「……なんで」

「こういう桐生さんのこと知ってるの、あたしだけかもって、舞い上がっちゃいそうだった。けど、青山さんが相手だったらこんな顔は絶対しないんだろうなって思ったら……なんていうか」


 嬉しいのか寂しいのか、よく分かんない感じ。

 そう呟きながら、諏訪部は最後にへへ、と小さく笑った。


 頬を伝う黒っぽい涙に指を伸ばすと、「汚れるよ」とやんわり止められる。

 拒絶された気分だった。緩やかな制止を無視して強引にそれを拭うと、困った顔をした諏訪部は「ごめんなさい」と小声で呟いた。


 謝ってほしいわけではなかった分、余計に苛立ちが募る。

 離れかけていた身体を、もう一度強く抱き寄せた。ん、と息を漏らして俺に寄りかかる諏訪部が、触れているのがおそれ多い気がするほどに可愛く思えて胸が苦しい。三十を過ぎた男とは思いがたい初心な自分の反応が、もはや気持ち悪かった。

 そんな俺の内心になど、思い至るはずもないのだろう。俺の胸元に寄せていた手を握り、諏訪部は俯いたきりで続ける。


「好き。ずっと好きだったの、桐生さんのこと。だから、行きずりでも勢いでもなんでもいいから、抱いてもらえるならそれでいいかなって。なのに、いざそういう感じになったら……やっぱり怖くて」


 しどろもどろに弁解する諏訪部の声には、焦燥が滲んでいた。そろそろくどいと自分でも思うレベルだが、何物にも代えがたいほどに可愛い。困ってしまう。

 どうしてだ。どうしてそんなに謙虚なんだ。その内面を、キツい口調で隠そうとしていたとでも……しかし、今の鼻声ではとてもではないが通用しない。


 黒い涙が伝った跡すら愛おしいと思う。同時に、素顔が見たいとも思う。

 なににも隠れていないまっさらな状態で、この頬がどれくらいの赤さになっているのか、知りたかった。


 柔らかな頬を指で撫でつけながら、浮かされたように口を開く。


「化粧」

「え?」

「落としてこいよ。全部」

「あ……すみません、汚いですよね」

「そうじゃなくて。お前の顔、ちゃんと見たい」


 両手を伸ばして頬を包み込み、触れるだけのキスを落とす。普段なら鳥肌モノの自分の言動に対し、すでに寒気に近いものを感じてはいるものの、止めることはできなかった。

 こんなキスをしてしまっては、自分の首が絞まる一方だ。

 茹で上がった頭が、ますます温度を上げて危険な状態に陥るだけ……それは十分に理解していた。だが、心がどれほど警鐘を鳴らしたところで、身体は従順には動いてくれない。


「……う……」


 真っ赤になってぱくぱくと口呼吸をしている諏訪部は、小動物のようで可愛らしい。というか、さっきからこの子に対して「可愛い」以外の考えを巡らせられていない。だいぶ参っている自覚はあった。


 目が合うと、諏訪部は脱兎のごとくベッドから下りてしまった。可愛い。それ以外に彼女を形容する言葉が浮かばない。

 慌ててバスルームに駆け込んでいく後ろ姿を、ぼんやりと眺める。羽織らせた俺のワイシャツが大きすぎて、太腿まで完全に隠れていた。

 こんなに小柄だったっけ……と訝しく思った瞬間、ドアの前で無理やり脱がせたピンヒールの凶悪な角度を思い出した。元々小柄だからああいう靴を履いていたのか。やはり可愛すぎる。もう諏訪部の全部が可愛くしか見えない。


 白い肌、華奢な肩、ピンクの下着、意外に大きな胸。今になってからそんなことばかり思い出し、頭にカッと血が昇る。

 ぞんざいに触れるなんてあり得ない。あってはならない。それなのに、自分こそがやらかしてしまった。自分で自分が許せなくて、ともすれば八つ裂きにしてやりたいという物騒な考えを抱きそうにさえなる。


 青山さんの面影は、とうに脳内から消え失せていた。

 あんなに好きだったのに。今日一日、それどころかたった数時間ですべて塗り変えられてしまった。これは人としてどうなんだ。完全にアウトな気しかしない。


 化粧を落として戻ってきた諏訪部は、まさに天使だった。


 誰だ、こいつは魔女だなどとおどろおどろしい発言をしていた奴は。瞬く間にこの世から消し去ってやるぞ。

 手の甲を口元に寄せ、気まずそうに視線を逸らし……まさかそれでそのすっぴん顔を隠しているつもりか。煽っているようにしか見えないが。

 天然、かつ小悪魔というわけか。そろそろ本気でいい加減にするんだ、俺の理性を試そうという話ならこちらにも考えがある。


 だいたい、なぜお前はそんな愛らしい素顔をわざわざ分厚い化粧で隠して生きているんだ。もったいなさすぎる。しかも彼シャツ――彼ではないが――を羽織ってだなんて、勘弁してくれ。これ以上は言葉にならない。

 軽く羽織らせただけだったシャツにはしっかりと腕が通され、ボタンもある程度留められている。だが、だぼだぼのワンピースに見えなくもないその内側には、さっきまで俺の眼前に晒されていたあの白い肌が隠れている。


 眩暈がした。

 天国なのか、それとも地獄なのか……一体なんなんだ、このどっちつかずな状況は。


「可愛い。もっとよく見せろ」

「っ、あ」


 麻痺に似た感覚に囚われている頭を無理やり稼働させ、微妙な距離を取っていた諏訪部の腕を強く引く。簡単に胸元に転がり込んできた身体の感触を味わいながら、マスカラの痕が消えてなくなった頬に唇を寄せ、間を置かずに唇を塞いだ。

 性急に襲いかかっていたときには余裕がなさすぎて感じ取れなかった感触が、しっとりと唇を蕩かす。柔らかなそれを前に、なにもかもがどうでも良くなりそうになる。


 ……これはいけない。止められる気がしない。

 このままでは物足りないが、かといって強引に押し進めるのは気が引けた。現に、軽く触れ合うだけのキスで、諏訪部はすでに息を上げている。考えてみれば、最初からキスも碌に慣れていない感じだった。


「なぁ、もしかしてキスも初めてなのか? 無理やりしちゃったけど」

「えっ? ええと、キスは……違います……」


 そわそわと身じろぎしながら告げられ、背中から崖に突き落とされた気分になった。

 こんなにも残念な気持ちになるのはおかしい。これほど好き放題やらかしておいて、俺はどこまで贅沢を言えば気が済むのか。

 だが、やはり惜しいものは惜しい。全部自分のものにしたいと思う気持ちを止められない。この子が他の男とどんなキスをしてきたかを想像するだけで、瞬く間にどす黒い感情が胸の底を覆い尽くしてしまう。


 そもそも、諏訪部はまだ俺の彼女でもなんでもない。

 こんな独占欲は間違っている。間違っているのだと理解は及ぶ……だが。


「へぇ。じゃあお前、今までどんなキスしてきたんだ? こんな簡単に息上がっちまう癖に」


 お門違いにもほどがある暗い感情に打ち勝てず、強引に唇を開かせる。

 閉じた唇を舌先でつつくと、諏訪部は驚いたように目を見開いた。それと同時に唇も薄く開き、俺はあっさりとその先に侵入を果たせてしまう。うう、と苦しそうな声をあげた諏訪部は、俺の胸元をとんとん叩いて制止を促してきた。

 不本意ながらもそれを聞き入れ、唇を外してやる。ますます赤く頬を染めた諏訪部は、さらにとんでもない爆弾を投下した。


「ま、待って。こういうのは、したこと、ない」

「ん?」

「う……キス。小学生のとき、クラスの男子から、ほっぺにされただけ……」


 ……なんだと。

 それはそれで、どういった経緯を経てそのような状況に至ったのか非常に気懸かりではある。だが、今問題にすべきはそこではない。


 小学生の淡い恋路に薄汚い嫉妬を燃え盛らせた、三十過ぎの会社員(課長職)。

 痛い。笑う気にもなれない。いくらなんでも滑稽が過ぎる。いや、もう好きに言ってもらって構わない。そして思う存分笑えばいい。俺としては別に痛くもかゆくもない、ははっざまあみろ!


 脳内ではこれ以上ないほどけたたましく叫んでいるが、外面的には完全な無言を貫いている――そんな俺の顔を見ていられなくなったのか、諏訪部は居た堪れなさそうに視線を俯けた。うう、と小さく唸った彼女は、俺の腕の中で恥ずかしそうに身体をよじっている。


 ……やめろ。その仕種、やめるんだ。

 お前は大して意識していないだろうが、そういう仕種こそが俺の理性をうっかり殺しかけてしまうんだぞ。頼むからそろそろ分かってほしい。


 駄目だ。今日ばかりは、どうあってもケダモノ化を回避せねばならない。

 あれほど派手に泣かせた後だ。だというのに、なりふり構わずケダモノになどなったら最後、おそらく俺は嫌われる。ついさっき受けたあの衝撃を再び喰らうのは御免だった。


 大事に大事に可愛がって、甘やかして、俺だけのものにしなければ。


 頬に手を添え、顔を上げさせる。反射的にこくりと喉を鳴らした諏訪部は、潤んだ瞳の奥を隠すようにそっと目を閉じた。

 それを合図に、再び唇を重ねる。ゆっくりとゆっくりと、深まっては浅くなる、そんな慣らすようなキスをひたすら繰り返した。まるで練習みたいな、それでいて蕩けるくらいの甘さを孕んだキスに、ふたり揃って没頭する。

 次第にうまく呼吸するコツを掴んだのか、諏訪部は恥じらいつつも自分からも唇を押しつけてきた。


 ……可愛すぎる。意外と大胆なところも、相変わらず頬の赤みはさっぱり引いていないところも。


 やっぱり地獄なんかじゃない。間違いなくここは天国だ。

 俺は今、天国にいて、目の前には天使がいる。それもとびっきりの、俺のツボにストライクな天使が。


「……上手。唇、もうちょっと開いて」


 唇を触れ合わせたままそう促すと、諏訪部はおずおずと従った。

 初々しすぎる。可愛すぎる。勢いに任せて深めたキスに彼女はびくりと肩を震わせ、繋いだ手に力がこもった。

 露骨に顔が引きつる。そういう反応がマズいんだと、何度言えば……と毒づきそうになったところで、実際に言葉にしては伝えていなかったなと思い至る。


 ――本当に、今日という日はどうなっているのか。


 諏訪部。いいか、冷静に考えてみてほしい。

 俺でいいのか? 本気なのか? お前から見れば俺は相当なオジサンだし、筋金入りのヘタレである自覚もある。お前も実際に目にしたはずだ、さっきまでだってドン引きしていたじゃないか。忘れたとは言わせない。

 仕事を頑張っていようが、クールに見えようが、年齢と内面だけはどうにもできない。特に、年齢に至っては今年で三十三だ。どう矯正を試みても、この先一生この性格は変わらないだろうという自信……いや、諦念もある。


 けど、お前、なんて言ってたっけ。

 失望じゃなくて、がっかりでもなくて……ああ、「可愛い」だったか。


 十近く齢の離れた男相手に、なんてことを言ってしまうんだ。

 飲んだくれて愚痴を零すなど、穴があったら入りたいレベルの失態だ。そんな俺を、どうして許せるんだ。どうして可愛いなんて言えてしまうんだ。


 酒に呑まれた俺を見た後に隣に残ろうとした女なんか、過去にはひとりもいなかったのに。

 仕事ができそう。クールな感じ。エリートっぽい。そういう部分しか見ていなかった、だからがっかりした。

 皆、そうやって俺の傍を離れていった。あるいは友人になることを選び、それとなく俺から距離を取る女性もいた。


 知らねえよ、そんなこと。お前らが勝手に思ってただけだろ、これが俺だ。

 そう言いきってしまえたらどれほど気楽だったかと思うが、結局、それもためらった。それ以上本性を晒して、そのせいで本気で拒まれることを恐れた。


 だから、避けた。

 人前で酒を飲まないからといって、別に死ぬわけではない。そうやって逃げて逃げて逃げ続けて、そして今日、なにもかもが覆されてしまった。アルコールを避け続けてきた理由ごと、すべて。


 可愛い。可愛い。可愛い。

 一夜のアヤマチでなんて、絶対に終わらせたくない。俗に言う失恋直後、そんな状態でどこまで都合のいいことを口走る気だという自覚は確かにある……それでも。


「俺だけのものになれよ、今すぐだ。……いいだろ、亜唯」


 茹だった唇と、少々強引に絡めた熱が、今はただひたすらに心地好い。

 唇と唇の間、薄い隙間から紡いだ俺の掠れ声に、うっとりと目を開いて緩く頷いた諏訪部は――やっぱりめちゃくちゃ天使だった。




〈了〉

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