《2》変わる

『ちょっとなに、お前もってこと?』

『……。』

『黙ってるんじゃないよ……ああもう参っちゃうなァ、あれからまだ三年しか経ってないっていうのに。』


 カチ、コチ、カチ、コチ。


『なんでここに呼ばれたかは分かってるんでしょ……いや違うな、お前わざと呼ばれるようにやらかしただろ? まったくお前って奴は本当に、』

『うるさい。』

『えっ。』

『いいからさっさとなんとかしろ。だからわざわざここに来てやった。』


 カチ、コチ、カチ、コチ。


『僕は怒ってるんだよ。あいつばっかり優遇しやがって……あいつがいなくなってから僕らをどう使ってるか、あんた自覚とかないの? うんざりなんだよ、もう。』

『……アカル。』

『あいつみたいにしろとは言わない。ただ、僕とマヤだけを見逃せ。』

『……はぁ。お前も大概だったんだねェ、性格。』


 カチ、コチ、カチ、コチ。


『でもさァ、お前の場合はカンゼとは違うの。対となる命が今、向こう側にいないんだ。だから、向こうに渡ってマヤを守るっていうのは、お前にはできない。』

『ならマヤをこっちに留まらせろ。』

『ええ……随分難しいことを言うね。』

『最初からこうなるって分かってて、それでマヤを僕のところに寄越したんだろう、あんた。』


 カチ、コチ、カチ。


『そっかあ。それも気づいちゃってるのか……どうしたのアカル? もしかして今まで本性隠してたの? お前も。』

『手の内を全部あんたに見せたら、なにをさせられるか分からない。当然だ。』

『やだ、可愛い顔して怖いねェお前……けど、その通りです。お前もね、あの頃のカンゼ並みにつらそうだなって元々思ってたの。だからあえてお前にマヤを任せた。』


 カチ、コチ。


『マヤの傷は深い。確かにお前くらいの者じゃないと、治療の糸口ひとつ見つけられなかっただろうね。だけどあの子、お前にとどめを刺してしまうだろうなとも思ってた。』

『……。』

『お前が綻び始めたのって、カンゼと接触してからでしょう。三年前、カンゼがあの患者の治療をしてたとき。』


 カチ。


『はぁぁぁぁぁ。もうちょっとこうね、時間をかけて治療進めてからこう……そういうふうにはできなかったのかな。』

『無理に決まってるだろうが。』

『……お前、カンゼに似てきたね……え、まさか元々?』

『黙れ。』


 カチ。


『怖い怖い、睨むな。けどなァ……お前、とっくに透けちゃってるし、どのみちこれ以上は繋ぎ留められない。』

『いいからなんとかしろ。』

『ああんもう……よし、じゃあこうしよう。さっきも言った通り、お前の場合は今向こう側に実体がないの。だからさァ。』


 ――今からあっちに実体、作っちゃいましょうね。



     *



 ……懐かしい記憶だと、思う。


『くどいようだけど、お前、カンゼばりに向こうの人間に近いんだよ。とっくにね。異端の自覚はちゃんとあるかい?』


 あれから二十年ほどしか過ぎていないなど、まるで嘘のようだ。

 その程度、私にとっては誤差に等しい時間の流れでしかない。だが。


『あのね。マヤをこっちに留まらせるっていうのは、やっぱり駄目なんだ。』

『なんでだ。』

『マヤの生きる世は、どうしたってこちら側ではないからさ。』

『……。』

『あの子が生きていくには、この世はあまりにも淡白すぎる。あの子にとってはこの世こそが不安定なんだ。だから、』


 ――いっそのこと、お前が向こうに行ってしまったほうがいい。


 ……そう。

 この世は、向こうの人間が呼吸を繋ぎ続けていくには力不足。淡白すぎるのだ。最初から、そういうふうに創ってしまった。


『マヤの治療の難しさは、前例の……サユリの比ではなかった。お前が診てきた症例の中でも群を抜いている。それは分かってたでしょう。』

『……。』

『サユリは大人だ。こちらを訪れた時点で、自分の生き方というものをある程度確立していた。他人のそれも理解できる、とても賢い女性だったね。でもマヤは違う。分かるね。』

『……。』

『彼女は、向こうでたった数年しか生きていない子供だ。なにが正しいのか、なにを捨ててなにを守るべきなのか……それどころか、自分の身の守り方ひとつ分かっていないんだよ。』


 カチコチと規則正しく繰り返される音が、一体なにを刻んでいるのか。

 私にももう明確には分かっていなかった。当時の時点で、すでに。そのことも懐かしいと思う。だが、それよりも。


『向こうの子供は、親が守ってくれる。親がさまざまなことを教えてくれる中で育つ。なのにマヤの場合は、そこが欠けてしまっている。お前もそれに気づいてたでしょう? だからこそマヤに心を揺さぶられた、そして堪えきれなくなってあの子に触れた。違うかい。』

『……。』

『いいかい。向こうに渡ったら、おとなしく向こうの人間らしく生きなさい。ある程度の記憶は残してあげられると思うから……ある程度だが。後は自分でなんとかしなさいね。』


 後は自分でなんとかしなさいねって、ちゃんと言っただろう、あの日の私。

 なのにこう……あいつ、馬鹿だったのかな。向こうにまとまったら記憶が全部すっぽり抜ける、だなんて。


 だから、だから気をつけろとあれほど口酸っぱく……いけない、言葉にならない。などと頭を抱えたのも、もう二十年近く前の話なんだなァ。懐かしいね。

 一時はどうなることかと思って、私も気が気ではなかったんだ。だって、どれだけあの子の夢に干渉しようとしても、こちらでの記憶が綺麗さっぱり抜け落ちている以上、入り込む隙がない。

 馬鹿ぁぁぁぁ! と悪態をつきながら過ごしたこの二十年弱、生きた心地がしなかったよ本当に。ほら、私、肝が小さいし。繊細なんです、皆さんが思っているよりもずっと。


 アカルの記憶が抜け落ちていることに気づいたのは、実は、マヤの治療が完了してからだった。

 マヤの傷は深すぎて、どうにも気が抜けなくてね。確かにうっかりしていたのもあるんだが。いや、アカルの治療に文句を言うつもりは毛頭ないんですが……まァ、傷自体が深すぎたんだな、うん。


 全神経を集中させていないと治せなかった。加えて、マヤの信頼は、アカルには向いていても私には向いていなかったからね。当然ながら。

 一から築き上げつつ、治療、治療、日々治療。鉄壁と表現して差し支えない、強張ったマヤの心を少しでも溶かせるようにと、マヤの持つ色素に合わせた外見を維持したりなどしてねェ。あれは効果覿面だったね。私、ほんと天才です。

 だいたい、私が患者の治療に携わるのはいつ以来だったか、大昔すぎて思い出せないくらいだからね。その程度のズルは許されてもいいだろう?


 ……とはいってもねェ。

 出来の悪い息子ほど可愛いというか、なんというか……アカルって本当に憎めない子でね。

 役割も、随分長い間頑張ってもらっていたが、抜けも結構多くてね。何度手を貸してあげたか分からない。しかもあいつ、大抵の場合「自分はちゃんとできてる」って思い込んでたからね。注意するこちらとしても気を遣うし……。


 あ、カンゼですか? 彼はね、とにかく優秀な子でしたからね!

 私がとやかく言わなくても、こちらの意図を汲んで完璧に役割を果たせる子だった。だからこそ私も、彼に甘えてしまっていたのだけれど……その点は私の落ち度でしかない。

 私にカンゼを責める資格はない。あそこまでの亀裂を入れてくれたという事実こそあれ、その予兆を察知できなかったのは他ならぬ私自身だ。


 そう。ああいう子も可愛い。けどアカルもね、可愛いんだ。

 というより、私にとっては誰もが大切な子供なのだからね。


 ……それにしても、困ったなァ。

 彼らのような役割を担う者が、もうほとんどいないんだ。重篤な患者は増える一方なのに、その患者を任せられる子が、数えるほどしか残っていない。


 そろそろ真面目に考えないと、この世のことわりが崩壊してしまう。

 危険な状態にあるなら、患者の流入を一時的にでも止めれば済む話なのかもしれないが――論点はそこではない。

 開いたひずみのせいで、役割を担う者たちが、今まで通りの治療を続けられる心理状態になくなってきていることこそが問題なんだ。これでは皆、今の時点で自覚があろうとあるまいと、自ら禁忌に触れてはあっさりと命を落としてしまう。


 実はね。

 元々、ここは私が「心を病んだ向こう側の人たち」を助けたいと考えて作った箱庭なんだ。


 そう、箱庭。それほど広くはないんだよ。向こうで言うところの……キョート? あ、今はトーキョーだったかな? ちょうど都ひとつ分という感じかな、広さは。

 ああ、細かいことは言わなくていい。どのみち、どちらの街も似たようなものじゃなかったかい? え、全然違う? ははは、気にしない、気にしない。


 最初はね、私がひとりでやっていたんだ。そこに理解者がひとり、現れた。彼女は「組織」を作ったほうが良いのではと私に提言したんだ。

 それもいいかもなァ、もっとたくさんの人を助けてあげられるかもしれない……そう思って、私は命を創った。箱庭そのものの形も、どんどん広げていった。


 組織を作るには人材が必要だろう? ゆえに人を創った。

 人の身体は、内部を事細かに再現すると、絶対に面倒くさいことになると分かっていた。食べなければ生きていけない形にしてしまえば最後、必ず争いが生じるからね。

 奪い合いは流血を生む。それでは駄目だ。それは、私が最も忌み嫌うもの。だから思念体にした。向こうのように、見返りや報酬のために働くという仕組みも、徹底的に排除した。


 だからこそ、こちらでは仕事ではなく役割なんだ。

 果たすべき役割。対価は発生しない。役割を果たすこと、それこそがこの世に生を授かった者たちの存在理由だ。そういう仕組みを、私は、何百年もかけて築いてきた。

 ところが近頃、向こうの人々はよく病む。そのせいで治療が間に合わなくなってきているんだね。


 ……患者かい? ああ、もちろん選んでいるよ。こちらの者を決して害さない人間を。

 それから、この世を利用しようとか、そういった知恵が働く可能性のある患者は、どれほど症状がひどくても排除している。私の理念に反するからね。


 とはいっても、手を差し伸べるべき患者も、今では全員なんてとても掬いきれない。大勢の中から選ばなければならないんだ。どうしたってね。

 だから、治療の中核を担っていた二名――カンゼとアカルを立て続けに失った今、私は根本的にこの世のあり方を考えなければならなくなっている。


 カンゼと彼の最後の患者――咲耶が作り出したこちらの世の歪みは、私が築き上げてきた規則に、修復不能な風穴を空けた。同じ役割を担っている者にしては、さして向こうに惹かれる素振りなど見せていなかったはずのアカルが、あそこまで簡単に転げ落ちてしまう程度には大きな風穴だ。

 カンゼがやらかしたことは、それほどに、私にとって許しがたい歪みだった。


 ……でも私、カンゼのことが大好きだし、全然怒ってないけどね。咲耶も大好き。可愛いんだもの。本当に。

 さらに言うなら、アカルも麻弥も大好き。麻弥なんてもう、正直を言えばアカルになんか渡したくないくらいに可愛くて仕方ないんだ。目の中に入れても痛くないと思う。


 そう。なにより歪まされてしまったのは、私の理念なんだなァ。

 参っちゃうよね。ははは。


 ああ、けどね、こんな呑気な話を続けている場合では本当にないんだよ。他の子たちがずるずると転げ落ちてしまうよりも先に、早々に対策を練らなければ。

 とはいえ、この世の人間が生まれ落ちるそのときに、彼らから相応の人間性を剥ぎ取っているのは他ならぬ私自身なんだけれどね。


 不思議なものだ。

 変わりなどいないと思えるほど執着している相手に優しく殺してもらって、望む道を歩み始めたり、新しい命を受け取ったり……きっと、今の君たちが進んでいる道は、私には知り得ない幸せなのだろうね。君たちだけの幸せだ。


 ふふ。なんだか寂しいねェ。

 この箱庭に最後に残るのは、結局、私ひとりなのかもしれない。




〈変わる/了〉

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Killing me softly 夏越リイユ|鞠坂小鞠 @komarisaka

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