Killing me softly 番外編

《1》巡る

 麻弥は、夫の妹が育児放棄した子供だ。


 夫が独身だった頃、母子が暮らすアパートの前で傷だらけで倒れていた麻弥を、彼は自ら引き取った。働きながらの育児だったため、仕事のときは彼の母親に預けて育ててきたそうだ。

 施設に預けることはほとんど考えなかったという。償いだから、と自分に言い聞かせるように呟いた彼の顔を、今もはっきりと覚えている。


 麻弥への償いでもあるし、妹への償いでもある。彼はそう言った。

 夫の妹は、麻弥を放棄した後、交際していた男とは別の男に無理心中を図られ、他界してしまったそうだ。荒れた生活を送っていると知ってはいたものの、娘の麻弥ともども、完全に妹への無関心を貫いてきたという夫の表情には、後悔の色が強く滲んでいた。


 手に負えなかった。だから無視してきた。妹など最初からいないものとして、ずっと目を背けて生きてきた。

 だが、あんな形で命を落としてしまうなんて――やりきれない思いに顔を歪めた彼は、「だから償いなんだ」と、再び口にした。


 私から見れば、彼の妹は、単に麻弥を傷つけた人間でしかない。産んでおいて見捨てる……それが子供にとってどれだけ残酷な現実か。そう思えば、すでに他界しているとはいっても、彼女を許せそうにはない。

 きっと、夫も同じ思いなのだろう。しかし、彼にとっては被害者と加害者のどちらもが身内だ。心の中を巡る感情は、私などより遥かに深く複雑なのだと想像がつく。


 最低限の食事と睡眠、介助を受けながらの入浴、排泄。そういった行動以外、麻弥はほとんどなにもできなかったという。その状態は、私が夫と麻弥に出会ってからもしばらく続いた。だから私もよく知っている。

 ぼんやりと窓の外を眺める麻弥の姿は、まるで人形。なまじ整った目鼻立ちをしている分、その印象はさらに強かった。息をしているのが不思議なくらい、麻弥は生気の宿らぬ顔をしたまま、過ぎゆく日々を淡々と見送り続けていた。


 麻弥がそんな状態であることを知ってなお、私は夫と結婚する道を選んだ。

 私たち夫婦の間に子はできない。私の身体に、もうその機能がないからだ。そのことを理解した上で、夫は私との結婚を決心してくれた。


 結婚の一年ほど前まで、私の精神は荒みきった状態にあった。

 とある経緯を経て、なんとか生きる気力を取り戻すに至った私は、それまでの仕事――ホステスを辞め、新しい人生を切り開くために一から歩き始める決心をした。アルバイトをしながら医療事務の資格を取得し、その後は市内で最も規模の大きな総合病院の事務局で働き始めた。


 夫と出会ったのは、病院に勤め始めて半年近くが経った頃だ。風邪をひいて病院を訪れた彼と、会計その他のやり取りをしたのが最初だった。

 当時の彼は疲弊しきっていた。風邪のせいだけではなく、いつもなにかに追い詰められているかのような顔をしていて、とにかくつらそうだった。


 偶然が重なって院外でも顔を合わせる機会があり、私たちは急速に距離を縮めた。そして彼が抱える事情を知り、私は麻弥と出会った。

 あの頃、自身の母親を急病で喪ったばかりだった夫は、麻弥をひとりで育てていくことに強い不安と焦燥を抱えていた。そんな彼と麻弥を少しでも支えたい、そう思った。


 結婚後は病院を退職し、麻弥の世話に専念した。


 六歳の頃から同じ状態を引きずったきりの麻弥は、保育園や幼稚園に通わせることもできなかった。

 夫が引き取った当初は、怪我の治療とともに精神科へも通院していたらしいが、そちらの治療はうまく進まなかったという。結局数ヶ月で通院治療を打ち切り、それからは自宅療養を中心に続けてきたそうだ。

 ときおり、市や児童相談所の職員たちが自宅を訪問してくれることがあった。とはいえ、一向に口を開かない、視線さえ動かさない麻弥の様子を目にして、誰もが困惑の表情を浮かべるだけだった。


 一切の言葉を発さない麻弥。その心にどれほど深い傷を負っているのかについては、想像に難くない。

 怪我の治療の際、「性的暴行の痕跡がある」と医師に告げられたという夫の話を聞いたときには、怒りで目の前が真っ赤に染まった。

 そのときのショックを、私は生涯忘れられないだろう。十にも満たない子供を相手に……まさに鬼畜の所業だ。麻弥にそんなことをした男にはもちろん、そのような危険から麻弥を守らなかった母親にも憎悪を抱いた。


 麻弥に言葉と表情が戻っておよそ四年、麻弥はいまだに私を「早百合ちゃん」と呼ぶ。夫のことも「敦くん」と。

 私たちは、まだ麻弥の親にはなれていないみたいだ。だが、そればかりはなにがあっても麻弥の気持ちを尊重したかった。

 私たちが焦っても仕方ない。麻弥が実の親に刻みつけられた傷は深い。だから、これ以上麻弥に余計な傷を負わせるわけにはいかない。


 時間をかけて、少しずつ。

 他人である私を、少しずつでいいから、家族として認めてもらえたら。


 私にとって、すでに、麻弥は大切な自分の子だ。



     *



 その日はとても天気が良かった。

 小学校の冬休みが間もなく終わるという頃、麻弥と私は一緒に近所を散歩していた。


 晴れの日ほど、空気そのものはひどく冷える。日差しまで覗く穏やかな好天、風も碌に吹いていないが、漂う空気はきんと冷たく澄んでいる。

 歩道の除雪がしっかりと行き届いているためか、歩きにくくはなかった。それでも、昨日のうちに降り積もった新雪が、歩くたびにぎゅ、ぎゅ、と音を立てて固く沈み込む。麻弥はそれを楽しそうにブーツで踏み鳴らし、私はといえば、麻弥が固めたその場所をなぞるようにしてゆっくり歩いていた。


 少し入り組んだ路地に入ったとき、不意に、麻弥が「あ」と声をあげた。

 麻弥の視線の先を追うと、そこには椿の枝があった。鮮やかに開いた赤い花は、周りの景色からくっきり鮮明に浮き上がって見える。


「どうしたの、麻弥ちゃん?」

「……この、花……」

「ああ、椿だね。わぁ、綺麗に咲いてるね。こんなに寒いのにねぇ」


 枝や葉にはところどころ雪が残っていて、開いた花びらがわずかばかり白く染まっている。冬に咲く花は限られているから、麻弥の目には新鮮に映ったらしい……だが。

 その赤に、浮かされたように見入る麻弥の視線に、私は微かな違和感を覚えた。それがなにによるものなのかを明確に把握するよりも先、麻弥が小さな口を開く。


「うん、すごくきれい。麻弥ね、この花、好き」

「あら、そうなの? 実は早百合もね、好きなの。椿の花」

「早百合ちゃんも?」


 驚いた様子で目を見開く麻弥へ、私は笑いかけながら答える。


「うん。ずーっと昔、好きだった人のこと、思い出すんだ。……ふふ、敦くんには内緒だよ?」

「……好きな、人……」

「ん? 麻弥ちゃんにもいるの、好きな人?」

「……うん。いるよ」


 意外だった。

 普段、麻弥はこの手の話を一切しない。


「そっかぁ。えっ、気になるー! ねぇねぇ、どんな人なの?」


 思わず、私ははしゃいだ声をあげてしまう。

 学校の授業の話はするし、友達とどんな遊びが流行っているのかも話す。先生のことも話すし、給食や休み時間のこと、それに学外での習いごとのことなども、楽しそうに話してくれる。

 しかし、今のように色恋に関する話をしてくれたことは一度もなかった。かつて、男という存在に手ひどく痛めつけられた可能性が高い麻弥だから、そういうことは考えていないものとばかり思っていたのだが。


 はっきりと分かる程度に赤く染まった頬の理由は、おそらく寒さだけではない。

 齢相応の淡い恋を経験できるまで、麻弥は豊かな心を取り戻しつつあるのかもしれない。そう思うと、心があたたかなもので満たされていく。

 もじもじしている麻弥の顔に浮かぶ、恋する少女の愛らしい表情が、新鮮に目に映る。先ほど感じた違和感の正体を探ることも忘れ、私は言葉の続きを待った。


「ええと。あのね……格好、良くって」

「うん」

「髪、お日さまに当たって、薄い茶色、きらきらしてて」

「うん」

「それからね、……麻弥の痛いの、治してくれる人なの」


 最後の言葉に、ただ微笑ましく思っていただけの心の奥が、派手に軋んだ。


 ……痛いのを、治してくれる人?

 椿。薄い茶色の髪。

 まさか。


「……痛い、の?」

「うん。麻弥、いっぱい治してもらったの。今も待ってる。麻弥の、特別な人なの」


 頬を赤く染めて微笑む麻弥は、とても嬉しそうなのに、寂しそうにも見えた。

 大人の女性のそれに近い複雑な表情を、たった十一歳の麻弥が浮かべているという事実が、さらに私の仮説を助長しそうになる。ふと脳裏を占拠しそうになった思考を、私は必死になって振り払った。


 そんなわけはない。単なる偶然だ。

 降って湧いた葛藤を麻弥に見抜かれてしまわないよう、努めて明るい声を振り絞る。


「そっかぁ、素敵な人なんだね。その人と幸せになれるといいね」

「……うん」

「ふふ、今日の話は敦くんには内緒だよ! 女同士の秘密だからね。あ、早百合が話したのもだよ!」


 人差し指を唇に当てると、麻弥はにこりと微笑んだ。真似るように自分の人差し指を小さな唇に押し当て、内緒、と口にする。

 そしてほんの少しだけ躊躇を見せた後、麻弥は、私がわずかにも予想していなかった言葉を口に乗せた。


「大好き、……ママ」


 見開いた目が、間を置かずにどんどん潤んでいく。

 一体、麻弥はどんな気持ちでその呼称を口にしたのか。今、麻弥が浮かべている満面の笑みを見れば、答えは簡単に分かる気もする……でも。

 それはきっと、麻弥にとっても私にとっても特別な言葉。母親になることなどできないはずだった、子を宿せない身体を引きずった私を、麻弥が母親と認めてくれた、確かな言葉だ。


 目尻から零れ落ちた私の涙に気づいているのかいないのか、麻弥は私の手を握って走り出した。滑るから危ないよ、と叫びながらも、ほとんど引っぱられる形で小走りに足を動かしていく。

 そのとき、私の脳裏に思い浮かんでいたのは、ある人の屈託のない笑みだった。


 ……ねぇ、アカル。覚えてる? 私のこと。

 今、私、こんなに幸せなのよ。あのとき、あなたが私を治してくれたから。


『向こうで幸せになれるよ、僕のことなんかすぐに忘れてね。』


 だから言ったでしょう、忘れないよって。

 忘れられるわけがないのに、そういうところ、あなたって本当に馬鹿だった。


 最愛の夫と、最愛の娘。なによりも大切な私の家族たち。

 この幸せはあなたが繋いでくれたもの。あなたが導いてくれた、道だ。


 あなたが大切であることは、私にとって生涯変わることのない事実なのよ、アカル。



     *



 それから十五年後。

 大学で助手の仕事に就いた麻弥が、初めて自宅に連れてきた「恋人」の顔を見て、私ときたら心臓が止まるほど驚かされるわけなのだが。


 ……それはまた、別のお話。




〈巡る/了〉

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