《7》あなたを待つ日々のこと

 アカルのおともだちは、ナギ、と名のった。


 ナギとアカルは、にていない。

 アカルは、大人の男の人というよりは、少しこどもっぽいわらいかたをする人だった。かみの毛の色も、目の色も、お日さまがさすと、うすいちゃいろになって、すごくきれいだった。

 でも、ナギはちがう。ナギは、まやと同じ、きんいろのかみ。長くて、つやつやしていて、お人形さんみたいだ。それに、目の色もまやと同じ青。りょうほうの目、どっちも青色で、そこだけ、まやとちがっていたけれど。


 はじめて会ったとき、ナギの目はアカルの目ににているな、とおもった。色も形もぜんぜんちがうのに。

 やっぱり、にて見える。やさしいかんじが、よくにている。

 かみと目の色が同じだから、もしパパがいたらナギみたいなかんじなのかな、とおもうことがふえた。そうしたら、あっというまに、それまでじくじくしていたむねのおく、いたいのが、なくなりはじめた。


 ナギは、「まやのきずはとても大きい」と言った。ぜんぶなおすには、じかんがかかるかもしれない、とも。

 けれど、アカルがとちゅうまでなおしてくれていたから、まやのきずは、たぶんナギがおもっていたより早くなおった。


 ちりょうしているあいだ、ナギは、まやに一回もさわらなかった。


『ナギも、まやにさわったら、しんじゃう?』


 そんなふうに、きいてみたことがある。

 ナギは「うん」とも「ううん」とも言わなくて、ただ、さびしそうにわらうだけだった。

 ちゃんと言われたわけではないけれど、きっとそうなんだとおもった。だから、ちょっとでもナギにさわってしまわないよう、まやはとても気をつけた。


 さいごの日、ナギは「おめでとう」とわらって、まやのほっぺをなでてくれた。

 ママにたたかれたところと同じばしょ。そこをなでるナギのゆびは、ひんやりしていた。さわってだいじょうぶなの、ときいたら、たぶんね、とナギはやっぱりさびしそうにわらっていた。


『それよりも、アカルのこと、よろしくね。』


 そうささやいたナギの声がきこえたときには、まやは、もう、もとのばしょにもどっていたみたいだった。



     *



麻弥まや……!」


 ゆっくりと目をひらいて、さいしょに見えたのは、きれいな女の人だ。

 その人の声をきいてあわてて走ってきた、せの高い男の人も、すぐに目にうつる。


 ……もどってきちゃったのかな。

 そのとき、はじめて、ママとあの男の人のことをおもい出して、せなかがぞわぞわふるえた。


 ママ、おこってるかもしれない。

 そうおもって、でも、ママはどこにもいなかった。


 男の人は、「あつし」と名のった。女の人は「さゆり」と。

 一年くらい前に、あつしくんが、おうちの前でたおれてたまやを、たすけてくれたみたい。さゆりちゃんは、まやといっしょにくらしてるあつしくんに出会って、それからふたりはけっこんしたんだって。


 ママは? ときくと、あつしくんはなにも言わずに、しずかにくびをよこにふった。そしてしばらくしてから、もういないんだ、と言った。

 まやをぎゅうっとだきしめて、そうおしえてくれたあつしくん。あつしくんのうで、少しふるえていて、さゆりちゃんも、まやの頭をなでながら、しずかにないていた。


 あつしくんが、新しいパパ。さゆりちゃんが、新しいママ。

 うれしい。ふたりはとってもやさしくて、まやのことをたたいたり、大きな声でどなったり、しない。


 あつしくんは、お休みの日に、まやといっぱいあそんでくれる。

 いろんなこうえんに行ったり、さゆりちゃんもいっしょに、ゆうえん地とか、水ぞくかんとか、行ったりするんだ。


 さゆりちゃんは、毎日ごはんを作ってくれる。

 さゆりちゃんのごはんは、とてもおいしい。「こんなおいしいごはん、食べたことないよ」と言ったら、さゆりちゃん、うれしそうにわらってた。


 まや、一年いじょう、なにもしゃべらなかったみたい。

 けがをしたまやを見つけたあつしくんは、たいへんだと分かっていて、それでも、まやを引きとってそだてることにきめてくれた。

 本当は「しせつ」に入れたほうがいいのかなって、ちょっぴりまよったんだって。だけどできなかった、まやがとってもさびしそうだったから――そう言って、あつしくんは少しわらった。そのかおが、向こうでナギがよく見せていたかおに、なんとなく、にて見えた。


 本当のママとあつしくんは、きょうだいなんだって。

 あつしくんは、ママのお兄さん。だから、本当は、あつしくんはパパではなくて「おじさん」。だけど、今はまやのパパだ。


 ごはんは食べられる。夜になると、きちんとねむる。てつだってもらえたら、おふろにも入れるし、トイレにもちゃんと行ける。けれど、そのほかはなにもしない。ぼんやり、とおくを見ているだけ。

 まや、ずうっとそんなだったみたい。だから、小学校に入学する年になっても、学校に行けなかったんだって。まやにそのことをおしえてくれたとき、さゆりちゃん、さびしそうにわらってた。


 分かってる。

 きっと、それはまやが向こうでちりょうをうけていたあいだのこと。まやはこっちにいなかった。


 あつしくんは、おしごとをしている。まやのことをそだてようときめてくれた、それよりも前から、ずっと。

 おしごとのとき、まやは、あつしくんのお母さん――おばあちゃんに、あずけられていたみたいだ。でも、半年くらい前に、おばあちゃんはびょうきでなくなってしまった。

 どうしようか、こまっていたあつしくんは、そのころにさゆりちゃんと知り合って、さゆりちゃんは、それまでつづけていた「いりょうじむ」のおしごとをやめて、まやのおせわをしてくれてたんだって、きいた。


 今は、まや、学校にかよってる。お友だちもできた。

 楽しいこと、毎日、いっぱいあるんだよ。たくさんおべんきょうして、いっぱいあそんで、お絵かきもすきなだけできる。おいしいごはんを食べて、さゆりちゃんといっしょにおふろに入って、早く明日になればいいなとおもいながら、あったかいおふとんでねむる。


 こっちにも、こんなにすてきな毎日があるなんて、まや、ちっとも知らなかった。


 まやは、たくさんの人にたすけてもらって、今、こうしてくらしてる。

 あつしくんにも、さゆりちゃんにも、いなくなってしまったおばあちゃんにも、それから、まやのいたいのをなおしてくれた、アカルとナギにも。


 アカルがいなくなったとき、まや、自分がしねばいいとおもった。

 でもちがった。あのとき、まやがしんでしまってたら、あつしくんとさゆりちゃんに会えなかった。ふたりとも、学校のお友だちともあそべなかったし、さゆりちゃんのおいしいごはんだって食べられなかった。


 だから、まや、生きててよかった。

 今は、ちゃんとそうおもえてる。



     *



 アカルは今、どこにいるんだろう。

 そう思うたび、胸がぎゅっとしめつけられるように痛む。


 ナギは、いっぱい時間がかかると言った。

 アカルは麻弥と一緒に暮らすための準備をしていて、けれどそれには麻弥が大人になるくらいの時間がかかる、と。

 今、麻弥はあつしくんと早百合さゆりちゃんと、三人で暮らしている。でも、ナギはきっと、早百合ちゃんにとっての敦くんみたいな人という意味で「一緒に暮らす」と言ったのだと思う。


 だから、麻弥は待っている。


 アカルのことを待っていたい。アカルが麻弥をきちんと見つけられるように、立派な大人にならなければ。

 敦くんにも早百合ちゃんにも、アカルのことは伝えていない。言いたくないわけではないけれど、上手に説明できないと思うからだ。


 これは、麻弥だけの秘密。


 ちゃんとした大人になりたい。だから勉強も頑張る。

 そうやって、毎日が過ぎていく。



     *



 高校は、地元で最もレベルが高いと言われている進学校へ進んだ。

 彼は私に「治療」を施してくれていたのだから、医療に関係した仕事に就いているかもしれない――安直にもほどがあるという意識こそあれ、その考えを拭いきれなかった私は、自分も医療に携われたらと医師を目指すようになった。


 高校に進学した頃から、周囲の男性に声をかけられる機会が激増していた。

 私の顔立ちは無駄に目立つから、生来の髪を落ち着いた色に染めてみても、そうした反応はなかなか変わらなかった。

 成長するにつれ、右目の青の色味が次第にはっきりしてきてしまって、今ではそれを隠すために黒のカラーコンタクトレンズを使っている。パパとママは「そんなことまでしなくていい」と言ってくれたが、外見に伴う面倒ごとは少しでも避けたいというのが私の本音だ。


 混血だという噂は、どこに行ってもつきまとう。別にそう珍しくもないはずだと思うのに、この片田舎では十分異質なのだろう。

 興味の視線に晒されることにはもう慣れた。ときおり、あからさまに向けられてくる悪意や、不躾な視線にも。


 とはいえ、そんなものなど私の心を傷つけるには到底至らない。所詮は上辺だけの、至極つまらない感情ばかりだ。

 かつて私を襲った悪意は、そんなものではない。深く刻まれた傷を治してくれた人たちを……そして深い愛情を注ぎ続けてくれている今の両親を思えば、その程度のものに屈している場合ではないと容易に理解が及ぶ。


 ……会いたいと、思う。

 いつになったら会える。長い時間がかかる、それは痛いほど理解できている、けれどその時が訪れるのはいつなのか。一体、いつになったら、私は。


 スケッチブックは、何冊も何冊も、赤い椿の絵で埋め尽くされている。

 幼い頃は大好きだった苺味の飴も、今では口にすることさえできない。苺味に限らず、私が飴という食べ物を見て思い出すのは、もはや実母ではなく彼だ。

 その事実が、いつからか激しく胸を締めつけるようになって、その息苦しさが恐ろしくて、今では飴そのものを口に入れられなくなった。


 会いたくて会いたくて、頭が割れてしまいそう。

 日を追うごとに募っていく思いに、いずれ押し潰されてしまうのかもしれない――そういうふうに思うことも増えた。


 そんな私の内心など知ったことかとばかり、無情にも、歳月は滔々と流れていく。



     *



 大学は医学部に進んだ。

 だが、医師になることは断念した。かねてより私に目をかけてくれていた女性の先生が、闇雲にそれを目指す私を止めてくれたことが最大の理由だった。


『あなたは繊細すぎる。優しすぎるの』

『そのまま目標を追い続けていると、いつか潰れてしまうかもしれないわ』


 先生はそう言った。彼女の言わんとしていることを察した瞬間、私を突き動かしていた呪縛がゆっくりと解けていく感覚があった。

 私は、誰かを助けたくて医師を目指しているわけではない。私がそれを目指す真の動機は、むしろひどく不純なものだ。だからこそ、こんな燻りを抱えながら医師を志し続けていては、一度は修復できた心を再び破綻させてしまいかねない。

 私と接する中で、先生はそのことに気づいてくれた。私が抱える根本的な弱さを、見抜いてくれていた。


 将来の目的を失った私は、今、彼女の研究室で助手を務めている。

 医師になることは諦めた。そうしたら、自分がどこへ向かえばいいのか分からなくなった。結局のところ、私はあの人に会いたいがためだけにこの道を志してしまっていたのだから、当然の帰結ではあった。

 そんな私の目には、同期の学生たちが医師や研究者を――夢を目指して突き進む姿は、あまりに眩しすぎた。道半ばで呆然と立ち尽くす私に、アルバイトみたいなものだけれど、と手を差し伸べてくれたのが先生だった。


 仕事は楽しい。自分が誰かの役に立っていると思うと、心が満たされることもある。

 彼の後ろ姿を追い続け、盲目に等しい状態でここまで走り抜けてきた、なにかが欠けたまま大人になってしまった私。その脆さを理解してくれる人がいることも、その人たちが信頼に足る存在であるという事実も、純粋に嬉しかった。


 いつしか周囲には私よりも齢の若い学生が溢れ、ときおり、彼に似た顔立ちや髪色をした学生を見つけては涙を落としそうになる。

 そうやって齢を重ね、ついにその時が訪れたのは、私が二十六歳になったある日のことだった。



     *



 研究室から大学事務局までは、思ったよりも距離がある。

 建物の構造上、一度外へ出なければならないところがまた面倒だ。


 今月末から一週間、先生は、都心で開催される学会へ出席する予定だ。彼女が受け持っている授業の休講や日程変更など、出張期間の細かな調整を行うため、私は事務局へ向かっていた。

 こうした細々とした業務は、多忙な先生に代わり、よく私が行っている。ただ、今日はたまたま私宛に入った電話への応対が長引き、事務局側と約束していた時間を過ぎてしまった。

 内線で事情を説明し、一旦事務局へ向かうと、今度は向こうの担当者の予定が合わなくなったようだ。結局、相手の時間が空くまで、その場で待たせてもらうことにした。


 大学の事務局には、学生の頃から何度も世話になっている。職員の中には顔見知りも多い。そのうちの何人かは、今でも気さくに声をかけてくれる。

 私の家庭の事情について詳しく知っている職員も、ごくわずかではあるがいる。地味な色に髪を染め、コンタクトレンズを使って片目の色を隠し……そういう事情を知っている人も。


 もったいないと言う人もいる。

 確かに、こんな年齢にもなれば、特異な外見とて見方次第では十分個性になり得るだろう。しかし、私の外見は私にとって、単に悪目立ちしてしまう要素に他ならない。

 その考えを、至極真っ当なものと受け止めてくれる人は多い。事務局の職員に限らず、親しい友人たちや私が師事している先生、他の先生たちの多くも同じだった。


 季節は五月中旬。先月までひどい混雑を見せていた事務局棟は、今ではだいぶ落ち着きを取り戻している。

 先月には、入学して間もない一年生が授業の受講申請を行ったり、さまざまな事務手続きを行ったりといった光景が覗いていたこの場所も、今日はことさら閑散としていた。

 休講の案内掲示板を眺めている学生がちらほら、後は別棟へ向かう途中と思しき学生たちが数名、廊下を足早に通過していく程度だ。中途半端な時間であることも手伝ってか、人気ひとけは碌にない。


 壁際のベンチにそっと腰を下ろす。

 今日は風が強い。外を歩いている間、横にまとめて括っている髪が乱れてしまっていたようで、それを指で撫でつけながら、私はぼうっと周囲を眺める。

 色とりどりの衣服を身に着けた学生たちの中、堅苦しい黒のスーツを着込んだ私の姿は、少々異質に映るらしい。前を過ぎっていく学生たちの何人かは、何者かと訝しげな視線を私に向けていく。ぎこちなく会釈して通り過ぎていく子もいた。


 引き続き、なんの気なしに窓口で書類のやり取りをしている学生へ目を向け――そのときだった。

 そこで周囲を見回していた男子の学生と、不意に目が合った。


「……あ……」


 くらりと眩暈がしたにもかかわらず、私は目を見開いていた。

 音がしたかと思うほど、私とその男子学生の視線がぶつかり、重なり、そして。


 パズルの最後のピースがぴたりと嵌ったときの感覚によく似ている……場違いな考えがふと脳裏を掠め、気づいたときには、私はベンチから立ち上がった後だった。

 腕に抱えていた打ち合わせ用の書類が、派手な音を立てて床に散らばる。通りすがりの数名の学生たちが驚いた顔で私を振り返り、けれど、そちらへ気を回していられるだけの余裕など私にはとうにない。


 あ、とまた声が零れたと同時、私と目が合ったきりの男子学生の手元からも、荷物が音を立てて床へ転がり落ちる。

 耳障りな音が床を叩き、瞬間、彼の隣にいた学生が驚きに満ちた声をあげた。しかし、彼自身もまた、その友人の声を気に留められているようには見えない。


 瞬きを忘れた私の両目が次に捉えたものは、相手の瞳の色だ。

 それから、見覚えのある茶色の髪、私の側へ差し向けられるスニーカーの靴先。


「……アカル」


 堪らず、あなたの名を呼ぶ。

 もしかして、今のあなたはそんな名前ではないのかもしれなくて、けれど呼ばないわけにはいかなくて、ただ息が詰まる。


 ……こんなに近くにいたのか、と思う。

 全然気づかなかった。今だって、時間が少しでもずれていたら気づけなかったのかもしれなかった。

 頬を伝い落ちていく生ぬるい液体の感触があり、一拍置いてから、それが自分の流している涙だと思い至る。それが床を濡らす前、人目も憚らず私の腕を引き寄せたあなたの、柔らかな茶の髪の毛先が頬を掠めた。


「……マヤ。ごめん、僕、」


 ――今、全部、思い出した。


 抱き寄せられた身体があなたの側へ傾ぐ。

 今は仕事中で、これから打ち合わせが入っていて……そうした詳細が見る間に霞んでいく。途切れ途切れに続くあなたの声がゆっくりと鼓膜に馴染み、その奥へ届き、それがこの上なく心地好い。


 ……よくひと目で分かったね。

 今の私は、髪の色も目の色も、あの頃と同じではないのに。


「……いいの。私、待ってた、……アカルのこと、ずっと」


 胸を押さえていた両手を、あなたの首へ伸ばしていく。

 霞みきった視界がかろうじて捉えたものは、今にも泣き出しそうなほどくしゃくしゃに歪んだ、記憶にあるそれよりわずかに幼いあなたの顔。


 決して人通りが多くはなかったその場所で、それでも驚きや冷やかしの声は次第に大きくなっていく。

 考えてみれば、おそらく事務所内からも丸見えだ。我に返ったあなたは、顔を真っ赤にして私の腕を強く引いた。ほとんどあなたに引きずられるように、私たちは小走りにその場を立ち去っていく。


 もつれかけた足をなんとか前に進めながら、だんだんおかしくなってくる。

 つい笑い声をあげてしまうと、私のそれが伝染したみたいに、あなたもやがて声をあげて笑い出した。


 やっと見つけた。

 一度は途絶えかけた私の心を、この世に繋ぎ留めてくれた人。


 たったひとりの、私の愛しい人。




〈了〉

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