普通列車下り、九時四十七分発

夏越リイユ|鞠坂小鞠

普通列車下り、九時四十七分発

 会社を休むことにした。


 具合が悪くて、としどろもどろに伝えた電話の向こう側、早番出社の上司は苛立ちを隠そうともしなかった。吐き捨てるような『お大事に』という声の後、ガチャンと受話器を叩きつける音がして通話は切れた。

 溜息は出なかった。ただ、息が詰まった。


 具合が悪いのは本当だったが、そのまま部屋にこもっている気にはなれなかった。

 ゆっくりと着替え、歯を磨き、顔を洗い、化粧をする。朝食は取らなかった。作る気どころか、食べる気さえ起きなかった。


 スーツではなく普段着に身を包み、アパートの鍵と財布だけを入れたトートバッグを片手に、なんとなく駅へ向かう。そして、やはりなんとなく、地元に続く電車に乗り込んだ。

 乗り換えを経た後、ガラ空きの座席を見て初めて時間が気に懸かる。スマートフォンで確認すると、午前十時手前だった。納得した。ガラ空きで当然だ。


 各駅停車でのろのろ走る電車に揺られながら、私は向かいの窓越しに覗く景色を見ていた。

 覗く景色が、少しずつ、田んぼと畑中心ののどかな風景に移り変わっていく。大きめの駅で街らしい景色になり、けれどすぐにまた、黄金色に輝く田んぼと土色の畑のオンパレードに戻る。

 私の実家は農家ではないが、田んぼいっぱいに実る稲穂の姿はことさら私を懐かしい気持ちにさせる。早いところはすでに刈り取りが始まっているようで、遠目にトラクターが覗いたり、裸になった土色の田んぼが覗いたり……地元へ近づいているという実感が湧いてくる。心が躍るほどではなかったが、安堵は確かにあった。


 無人駅でたったひとり下車した私を、どんよりと濁る曇り空が面倒そうに迎え入れる。

 砂利の簡易駐車場には、数台の車がまばらに停まっていた。そのまばら加減が、片田舎の侘しさを一層際立たせている。

 軽トラック、ワゴンタイプの軽自動車、軽トラック。右端のそれは幌つきだ。幌つきの軽トラックなんて、私が暮らす街ではあまり見かけない。本当に帰ってきちゃったんだな、と諦めに近い気持ちを抱いてしまう。


 ……さて、なにをしようか。

 気を取り直して考えてみる。


 地元の友達は、今では数える程度しか連絡がつかなくなっている。しかもこんな時間だ。貴重なその数人も、今頃はきっと仕事中だろう。

 家庭を持って久しい友人も多い。実際、三十歳にもなれば、田舎町では独り身のほうが珍しくなってくる。


「……ふう」


 溜息が零れた。今日という日に、私だけ置いてきぼりにされてしまった気分だ。

 そもそも、どうして私は今日の仕事を休んだのだったか。出社が憂鬱なのはいつものことで、もっと気分が悪いときに出社することも多々あった。

 だから、今日の休暇が私にとってなんなのか、私自身もよく分かっていないまま。


 無人駅の小屋と軽自動車を背に、ゆっくりと砂利の上を進みながら、またも零れそうになった溜息を噛み殺す。

 持ち合わせも心許ない。給料日までは、まだ一週間もある。呑気に遊んでいる余裕は正直なかった。外に出ないと息苦しくて駄目になってしまいそうだったから出かけたが、自室に引きこもっていたほうが気楽だったかもしれない。


 目的のない外出なんて、別に珍しくもなかった。ふらりと出かけることは結構あったし、好きでそうすることもある。

 それなのに、なにをしたらいいのか、なにをしたいのか、今日はひとつとして思いつかない。途方に暮れてしまいそうになる。


 とぼとぼと歩きながら駅の敷地を出ると、ほどなくして公園が見えてきた。足を引きずるようにしてそこへ向かい、出入り口に設置された黄色の柵を横切る。

 ブランコ、鉄棒、すべり台、それから地面に半分埋まったタイヤ。遊具はそれだけの、ごく小さな公園だ。子供の目にはもう少し広く映るのかもしれないが。

 出入り口から最も近いベンチに腰を下ろす。木製の古びたベンチは少々湿っぽかったが、これ以上目的もなく歩き続ける気にはなれなかった。


 ちっぽけな遊具を再び順に眺め、またも溜息が出そうになった、そのときだった。


「あれ? 美砂みさか?」


 背後から低い声が聞こえ、肩が派手に震えた。

 たまたま帰ってきた私に、平日のこの時間から声をかけてくる人物がいるとは想定していなかった。しかも名指し……知り合いだろうか。できれば、気心の知れた友人以外とは顔を合わせたくない。でも。


 おそるおそる振り返った先には、ひとりの男性が立っていた。


 姿を見てもピンとこなかったけれど、面影になんとなく見覚えがあった。深く考えを巡らせるよりも先、あ、と思う。

 懐かしい姿が脳裏を掠めたからだ。短く刈られた髪、周囲から頭ひとつ分抜き出た長身、野球部のユニフォーム姿――そうか。


 この人は、中学校時代の同級生だ。


「あ……ええ、と」


 下の名前で呼ばれるなんて相当に久々で、返事をするまで無駄に時間がかかる。

 小学校時代や中学校時代には、私も皆を名前で呼ぶことがほとんどだったし、私だって皆にそうやって呼ばれていた。目の前の彼は当時の同級生だ、おかしな言動を取られているわけではない。とはいえ、困惑は顔を出てしまっていたと思う。

 一方の相手は、特に気にする様子も見せず、小首を傾げつつ尋ねてくる。


「どうしたんだ、こんなところで。こっちに帰ってきてたのか?」


 言いながら、相手はのんびりとした歩調で歩み寄ってくる。

 あ、と零したきり、今度こそ返事に窮してしまう。


 ……困った。名前を思い出せない。思い出そうとすればするほど記憶に靄がかかる。

 次第に焦りを覚え始め、泳ぐ両目の動きを意識的に止めた私は、傍に立つ彼の姿をちらりと盗み見た。


 背が高く、がっしりとした身体つきだ。そう、この人は中学校時代から背が高かった。野球部のユニフォーム姿が、もう一度脳裏を過ぎる。

 服装は、くたびれたジーンズに袖の長いTシャツ、履き潰されたスニーカー。ごく普通の、少しだらしない印象さえ受ける格好だ。極めつけは、整っていないでもないのにどうにも垢抜けない顔立ち……全体的に、昔とあまり変わっていない気はする。


「う、ううん。今日だけ、たまたま」


 無理やり声を絞り出すと、相手は「そうか」と呟き、私の隣に腰を下ろした。

 ぎょっとした。座った、ということは話が続いてしまうのか。どうしよう、まだ名前を思い出せていないのに――にわかに焦りを覚え、私は膝上で拳を握り締める。


 そのまま足元に視線を落とすと、自然と彼のつま先も視界に入ってきた。

 おそらくは土だろう、つま先が派手に汚れた大きなスニーカーを見つめながら、私は罪悪感に襲われていた。明らかに知り合いのはずの人の名前を、こうまで思い出せないなんて。


 相手はなにも喋らない。私もなにも喋れない。居心地の悪い、気詰まりな沈黙だった。

 無人駅を出てすぐ傍の公園のベンチ、大した晴れ間も覗いていない中で黙って座り込むアラサーの男女。その構図に耐えきれなくなり、とうとう私は相手より先に口を開いた。


「あの……仕事は?」

「ああ、今日は休みなんだ。田んぼ、そろそろ見ねえといけねえから」

「そ、そっか」


 田んぼ。そうか、稲刈りの季節か。

 電車の窓から覗いていた黄金色の稲穂を不意に思い出した。地元は兼業農家が多いから、この子もそうなのかもしれない。いわれてみれば、確かに農家の息子だった気もする。


「お前は? 実家に顔出しか?」

「えっ……ま、まぁそんなとこ」


 今度は逆に訊かれて、私は曖昧に濁した。

 どうして今日この街に戻ってきたのか、自分でもよく分かっていない。他人に理解してもらえるとは思えないし、してもらう必要もない。どうせ、相手は向こうに帰ったらまた忘れてしまう人だ。


 ――忘れてしまう人。


 そう思った瞬間、じり、と灼けるように胸の奥が痛んだ。

 ほんの一瞬の痛みに気を取られ、思わず額を押さえる。胸が痛いと思ったのに、頭を押さえたのはどうしてか……的外れな疑問が思い浮かんでは、からからに渇いた喉が張りついて、とにかく不快で堪らなくなる。


 喉を潤すためのなにかがほしいと確かに思うのに、私の手元にはなにもない。近くに自動販売機があるわけでもない。対処の手段を探しながらも、渇きはひどくなっていく一方だ。

 なんだろう、喉の渇きなんてさっきまで全然感じていなかったのに……違和感に似たその疑問符を、私は少々強引に掻き消した。


 それから、私たちはぽつぽつと話をした。

 思い出話にはさほど花が咲かなくて、天気のこととか、田んぼのこととか、他愛もない話を続けただけだ。ただ、相手は私の詳細について一切踏み込んでこなくて、そのことをありがたく思った。


 結局、最後まで彼の名前を思い出せないまま、私はおずおずとベンチから腰を浮かせた。


「ええと、私、そろそろ行くね」

「ああ、そうか。悪ィな、急に捕まえちまって」

「ううん。大丈夫」


 予定はなにもなかったけれど、名前を覚えていないことを相手に悟られるよりも先にという思いが強かった。

 正面から顔を突き合わせてしまわないよう、手にしたトートバッグの紐に視線を定め、じゃあね、と告げるために口を開きかけて……けれど。


「美砂」


 背の側から呼びかけられ、つい振り返ってしまう。

 ベンチに座ったきりの相手と目が合った。見上げられていることを妙に新鮮に感じて、同時に、名前を思い出せないことを責められるのではという不安も覚えた。


 相手の顔をまじまじと見つめたのはこのときが初めてで、なんだか妙な感じがした。

 若く見える気がしたのだ。ラフな服装、風に揺れる無造作な毛先、あるいは先ほどまでとは逆の、自分が相手を見下ろしている状況――そういうちょっとした要素がそう思わせるだけなのかもしれないけれど、それにしても、今年三十歳になる男性にしてはどこかあどけない。


 違和感に違和感が重なり、勢いに乗って増殖していく。


 なんだ、これ。大切な……いや、重大なことを忘れている気がする。忘れて良いようなことでは決してないことを。

 息が詰まるほどの困惑が、瞬く間に私をまるごと絡め取る。

 目を逸らすことも忘れて呆然と立ち竦む私を、彼は真正面からまっすぐに見つめ返し、そして。


「お前、戻ったらすぐ医者に行けよ」

「え?」

「同じ顔してる。昔の俺と」


 医者。同じ顔。昔の俺。

 言われた言葉を反芻しながら、私は呆然と相手を見下ろした。


 身体はちっとも動かない。

 相手の名前がどうとか、自分の記憶がどうとか、そういうことに対して覚えていた焦燥が瞬時に掻き消える。


「うっし、じゃあ俺もそろそろ戻るかぁ」


 私の疑問符を、相手は拾わなかった。

 勢い良く立ち上がり、すれ違いざまに「じゃあな」と笑った彼の声は、すっかり元の呑気な調子に戻っていた。

 どくどくと唐突に高鳴り出した胸を咄嗟に押さえ、それとは反対側の手を、相手の腕に大きく伸ばす。


「っ、待って! 今の……」


 どういう意味なの。

 叫びに近い声でそう続けようとした矢先、相手がゆっくりと私を振り返る。その姿が徐々に霞み出し、私は眉を寄せた。

 振り向き方も、私が焦っているわりには思わせぶりなほどのんびりしている。


 おかしいと感じたのと、相手が私に焦点を合わせたのは、おそらく同時だった――瞬間、ぱちりと目が開いた。


「……あ……?」


 視界いっぱいに広がる見慣れた天井を、たっぷり十秒は見つめていたと思う。

 直前まで掴んでいた人の腕の感触が、次第に薄れていく。眼前にあった公園の情景は、無機質な天井にあっさりと置き換えられ、ああ、夢か、とようやく思い至った。


 痛むほど心臓が高鳴っている。

 傍にまだ彼がいる。そんな感覚が残っている。少しずつ少しずつその感覚が薄れていって、私は深い吐息を落とした。


 妙にリアルな夢だった。

 久しぶりに彼の夢を、と思った途端、ぎくりと背筋が強張った。


 ……多分、夢から醒めたせいだ。

 思い出す、とは違う。蘇る、とも違う。とっくに知っていたことに改めて理解が及んだ、知らぬ間に欠けていたピースが再び嵌まった。言葉にして表すなら、それらが一番近い気がする。


 名字。名前。中学校時代の面影。野球部のユニフォーム姿。当時の彼に密かに抱いていた、淡い恋心。

 思い出そうと思えばすぐ思い出せていた、最初からそういうものでしかなかったはずの記憶が、我が物顔で頭を満たしていく。


「……なんなの……」


 堪らず声が零れた。

 吐息によく似た自分の掠れ声をどこか遠くに聞きながら、起き上がることもできず、私は手の甲で視界を塞いだ。

 これだから夢というものは厄介だ。平気で忘れたり、普通なら考えられない態度を取ったり、絶対に忘れられない人が相手でも簡単にそういうことが起こり得る。


 どうして今頃夢に見てしまうのだろう。

 彼はもう、この世のどこにもいないのに。


 忘れられない人、という言い表し方が正しいかどうかは分からない。

 実際、ここ数年は彼について思い出すことのほうが珍しかった。でも。


 弾かれたように、壁の時計に視線を向けた。

 時刻は午前八時をわずかに回ったところだ。どのみち遅刻確定の時間だ、けれどそのことは少しも気に懸からなかった。そんなことよりも、夢の中で会社に電話した時刻まで、あと数分。


 テーブルに置いたスマートフォンに勢い良く手を伸ばし、会社に電話を入れる。

 数回のコールの後、通話に応じたのは直属の上司だった。


 これもまた、夢と同じ。でも。


「おはようございます。なりです」


 昨日言われた通り、これから病院に行きますので今日はお休みさせていただきます。社長には改めて直接ご連絡します。

 ひと息にそう言いきった。言いきらなければならなかった。私は、もう夢を見てはいないのだから。


 電話の向こうで、上司は戸惑っているらしかった。私が〝社長〟という言葉を出したからだろう。暴言や横柄な態度を繰り返しては、私の心身をいいように追い詰め続けてきた癖に……なんだかおかしくなってくる。

 昨日、自身のミスを私に押しつけた挙句、お前こそ頭がおかしいんじゃないかと暴言を吐き散らかしたことを思い返しているのかもしれない。あるいは、それ以前から続く、私への侮辱的な態度の数々も。


 夢とは違って、しどろもどろに『お大事に』と呟く上司の声を最後に、通話は静かに切れた。



     *



 実際、ダメージは思っている以上に蓄積していたらしい。

 心身の静養のため、私は職場を退職することにした。


 上司のパワハラについては、電話で本人に伝えた通り、上層部にも伝えた。

 揉み消される可能性も想定していたけれど、上司と上層部の謝罪は、想像より遥かにあっさりと現実になった。

 社長には休職も提案されたものの、固辞した。場所を変えずに新しいスタートを切るなんていう器用なことが、今の自分にできるとは思えなかったからだ。


 仕事を辞めたらすべてが終わると思っていたのに、そんなことはなかった。

 むしろ、辞めなければどうなっていただろう。いつ糸が切れるか分からない極限状態に追い込まれた身体と心を引きずって、いつまで耐えていられただろうか。


『同じ顔してる。昔の俺と』


 夢の中で私を見上げていた彼の顔が、声が、脳裏に鮮明に蘇る。

 あの言葉の意味が、今なら分かる気がした。昔の俺――そう言いながら、君の顔は、身体は、きっと最期の齢のままだった。


 だから私の目には若く見えた。そういうことなのだと思う。


『徹夜明けだったみたい。すごかったらしいよ、火が上がって……病院にはちゃんと運ばれたって聞いたけど』


 言いにくそうにときおり言葉を濁しつつ教えてくれた友人は、果たして誰だったか。今となっては思い出せない。

 もう六年も前の話になる。

 もう六年、まだ六年……信じたくはないけれど、どうしたところで、人は少しずつ忘れていく生き物なのだろう。


 彼が徹夜明けの仕事帰りに事故に遭ったと、搬送先の病院で一度も意識を取り戻すことなく他界してしまったのだと、そう教えてくれた友人の声ももはや曖昧だ。


 葬儀には参列しなかった。

 当日、私は普段と同じように働いていた。自分がなにを優先すればいいのか、すべきなのか、当時の時点ですでにまともな判断をつけられてはいなかった。


『本当に良かったの? だってあいつ、中学の頃からずっと美砂のこと、』


 葬儀の日の夜に電話してきた友人の声を、私はあからさまに遮った。

 聞きたくなかった。二度と会えない今になってしまってから、そんな話は。


 だいたい、別れの瞬間にだけ立ち会ったところでどうなる。

 遠く離れた地で日々仕事に身を削りながら、私は中学校時代の恋のことなんてすっかり忘れていた。彼の存在自体を碌に思い返すこともなく、のうのうと暮らし続けていた。


 そんな私に、彼との別れに立ち会う資格があるはずもない。

 心のどこかで、ずっとそう思い続けていた。



     *



『お待たせしました。二番線、普通列車越野沢行き九時四十七分発、間もなく……』


 夢と同じ時間の電車を選んだ。

 服装も、鞄も、夢で身に着けていたものを選んだ。


 乗り換えの選択肢は複数あったけれど、それも夢と同じ駅ですることにした。手向ける花は、地元に着いてから購入すると決めている。


 君は、あのときと同じように、私に気づいてくれるだろうか。


 あの日の夢に君が現れた理由を、私は今も考え続けている。

 夢にしてはあまりにもリアルだった。土に汚れたスニーカーも、その潰れ方も、君の声も、喋り方も、掴んだ腕の感触も、どれもこれも鮮明に記憶に焼きついたきり離れない。


 君が助けてくれたと考えるのは、いくらなんでも安易が過ぎる。けれど私にとってはすべてだ。あの夢の中で、君は間違いなく私の行き先を変えた。

 不毛な今を断ち切って、新たな一歩を踏み出すためのスタートラインを引くこと。そしてその線は、自分で引く場所を選んで、自分の手で引かなければならないこと。

 君がそれを教えてくれた。君に会えていなかったら、きっと私は、苦しい現状を変えようと思うことさえできていなかった。


 事故の現場にも、ましてや墓地にも、君がいるはずはない。

 会えるわけでももちろんない。


 頭では分かっている。だとしても。


 会いに行く。今から、君に。

 君のためではなく、私自身のために。私が、次の一歩を踏み出すために。


 私はつくづく身勝手な人間だな、と思わず苦笑が滲んだ。

 それでも、こんなにも身勝手な私のことを、どうかあの日のように笑って眺めていてはくれないだろうかとも思う。


 ほどなくしてホームに入ってきた電車の、明らかにガラ空きに見える車内に、私はゆっくりと足を踏み入れた。




〈了〉

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