No.33 不可知論者

空色凪

フリーズ33 不可知論者 空色凪

 車から下りると、眩い光に包まれた。今日は晴れた良き冬の日だった。天から降り注ぐ太陽の光はまるで、これから生まれてくる我が子を祝福しているかのようだ。

 私は車に鍵をかけると、期待を胸にして病院へと急いだ。担当医は我が子については順調に成長していると言っていた。多少の緊張はあるものの、きっと大丈夫だと自身に言い聞かせて病室へと向かう。

 病室の前にたどり着くと、部屋の中から産声が聞こえた。きっと私の息子の声に違いない。私は病室の扉を恐る恐る開けた。だが、病室に妻はいなかった。窓際のベッドで一人の少年がパソコンを見ているだけだった。少年は私に気づいていないように見えた。部屋を間違えたのかと思い、私が扉を閉めようとした瞬間、少年が呟いた。

「ありがとう」

「はい?」

 私は突然のことに驚き、少年に聞き返した。すると少年は私を正面に見据えて微笑んだ。その顔がどこか妻に似ているような気がした。

「ありがとう」

 少年はもう一度そう言った。だが、その声は震えていた。少年は泣いていたのだ。私はこの少年のことがとても気になった。

「どうして泣いているの?」

 私がそう尋ねると、少年はその両頬を伝う涙を服の袖で拭ってから、やはり笑って答えた。

「嬉しいのです。やっと思い出したから」

「思い出した?何を思い出したんだい?」

「全てです」

「全て?」

「そう。全て」

 私は気づけばこの少年に惹かれていた。顔立ちが妻に似ているというのもあるかもしれないが、それ以上に筆舌に尽くし難い何かがあった。私はその何かをとても知りたくなった。

「ここに座ってください」

 私が黙って突っ立っていると、少年はベッドのそばにある椅子を指差して座るように促した。私はその指示に従い、少年のもとへと歩んでいく。その時私はあることに気づいた。よく耳を澄ますと産声は少年の持つパソコンから聞こえてくるのだ。私は椅子に座ると、少年に訊いた。

「そのパソコン、何を見ているのかな?」

「僕が生まれるところですよ。お父さんがビデオカメラで撮っていてくれていたんです」

「そうなんだ。優しいお父さんだったんだね」

「はい、とても。お父さんは僕のことを愛してくれていました。お母さんもです。だから僕も二人のことを愛しています」

 少年の言葉が深く胸に突き刺さった。その声色や表情から、本当に両親のことを大切に思っていることが伝わったからだ。私も自分の息子にこう思ってもらえるように頑張らなくてはと思い立つ。

「そろそろかな」

 少年がポツリと呟いた。その言葉を聞いて、私は自分の息子の誕生が迫っていることを思い出した。

「そうだ。今、急いでいたんだ」

「はい」

「邪魔して悪かったね」

「大丈夫ですよ。こうして逢えてよかったです」

「ああ、私もだよ。ではまたね」

 少年からの返事はなかった。

 その日、無事に私の第一子が生まれた。


 近頃息子の慧の様子がおかしい。高校受験間近だというのに、一日中部屋に閉じこもってずっと何かをしている。初めは受験勉強をしているのだと思っていた。実際、彼は受験勉強に専念したいから学校を休みたいと言ったのだ。冬休み明けから彼はずっと学校を休んでいる。

 だが、部屋には鍵がいつもかかっていて、部屋に入ると勉強道具を机に広げているが、そのノートはいつも空白だった。慧の学力は悪くはなかったのだが、ある時私は心配になって慧に質問をした。

「最近勉強は捗っている?」

「どうして?」

「いや。一人で勉強を続けることはとても大変なことだからだよ」

「そうだね。確かに大変かもしれない。正直に言うと、勉強は捗っていないかな。でも、安心して。僕は僕なりにとても頑張っているから」

「そうか。いずれにせよ、勉強頑張るんだぞ。何かあったらいつでも相談しなさい」

「はい、ありがとうございます」

 私は愚かだった。もっと慧の異変に早く気付くべきだった。もっと真摯に向き合うべきだった。だが、もう全ては遅かった。その日の深夜零時、慧がリビングでテレビを見ていた私に向かって、思い詰めた顔をして訊いてきた。

「お父さん。正直に答えて?お父さんは僕に何をしたの?」

 慧の質問の意味が分からず私は聞き返す。

「何の話だ?」

「僕は知っているんだ。この世界が仮想現実世界であることを。お父さんが創ったんでしょ?」

 慧の妄言に私は一抹の不安を覚えた。

「お前、今変だぞ。もう夜遅いから寝なさい」

「いいや、至って普通だよ。いいから僕の質問に答えてよ」

 慧は私に詰め寄り、語気を強めて意味の分からない質問の答えを求める。私はとても怖くなった。

「だから、何のことかさっぱりわからないよ。お前、どうした?」

「どうもしてない!」

「いや、今のお前はどうかしている!」

 私と慧が口論したのは、今回が初めてのことだった。そのせいか私は冷静さを失っていた。私がすべきことは警察か救急車、もしくは両方を呼ぶことだった。だが、私は慧がまだ正常であることを信じたかったために、そうしなかった。

「そうか。きっとお父さんは記憶を忘れているんだ」

「何を言っている?」

 慧は私に背を向け、キッチンへと向かい、包丁を持って帰ってきた。私は震える声で慧に訊く。

「何故、包丁を持っている?」

「お父さん。今までありがとう。本当に楽しかった。僕はとても幸せだったよ」

 私は慧が自殺しようとしているのではと思い、次第に背筋が凍りつくのを感じた。なんとかして止めなければ。

「やめろ!本当にどうしたんだ?」

「お父さん。一つだけ言わせて」

「何か辛いことがあるなら、お父さんが聞くから!だから、一回その包丁を置きなさ――」

 慧は私の腹を刺した。慧は泣いていた。その泣き顔に私は見覚えを感じたが、どこで見たのかは思い出せなかった。

「お父さんが幸せにするべきなのは僕じゃない。お父さん自身だよ。だから僕のことなんて、忘れてよ」

 痛かった。そう。ただただ痛かった。体から血とともに力が抜けていくのを感じた。私は消えゆく力を振り絞って慧に尋ねる。

「どう、して?」

 どうして私を刺したのか。慧は泣き笑いで私の質問に応えた。

「お父さんを目覚めさせるためだよ。いつまでもこの世界にいては、お父さんは不幸になる」

 慧は私の体を抱えて、ソファにそっと横たわらせた。もうこの頃には痛みはなくなっていた。ただ、寒気がして、意識がだんだんと遠退いて行くのを感じていた。

「お父さん。お母さんによろしくね」

 ぼやけた視界の中で慧が確かにそう言った。お母さんは生きているはずなのに、どうしてそのようなことを言ったのか不思議だったが、私はなんとか僅かに残る力を振り絞って首肯して応えた。

「ありがとう、愛しています」

 意識が途切れる間際、そう言われた気がした。


 私は目覚めた。目に入るのは白い部屋と最先端の機械郡、そして白衣を来た人間達だった。長い長い夢を見ていた気分だった。

「おはようございます。永澤さん」

 白衣を身にまとった男性が私の顔を覗き込む。

「おはようございます。あれ?私は死んだはずでは?」

「ええ。ですが死んだのは夢の中でですよ」

「夢の中?」

「ええ、思い出してください。ここは病院です」

 周りを見渡すと確かにここは病室に見えた。私の妻が隣のベッドに横たわっているのに気付く。そこで私は全てを思い出した。

「何故、私は目覚めたのですか?それに、慧はどうなったのですか?」

「落ち着いて聞いてください。残念ながら、あなたの息子さんは先程亡くなりました」

「なっ!」

「私達も出来る限りのことをしましたが、力及ばず。誠に申し訳ございませんでした」

 私は息を呑む。そうか。慧は死んだのか。

「そう、でしたか」

 もともといつ死んでもおかしくなかった体の慧だったが、やはり今回の臨床試験で耐えられなかったのかもしれない。

「慧は何故死んだのですか?」

「それが分からないのです。現在原因究明をしています」

「そうですか。宜しくお願いします。あの、妻は?」

「奥様はまだ眠られております。ですが、夢の世界にはあなたも息子さんもいらっしゃらないはず。どうしますか?」

「起こしてください。恐らく、彼女もあの世界から出たいはずです」

「分かりました。では、早速取り掛かります」

 白衣の男性が二人の助手とともに、妻の元へと向かった。一人になった私は夢の中で慧が言った言葉を思い返していた。

「私が幸せにするべきなのは私自身か」


 私は間違っていたのだろうか。私は不完全に生まれたお前を助けたかった。不完全に生まれたお前をせめて人並みに幸せにしたかった。私と妻はそのために持てる全てを投げ打ってきた。それが間違っていたのかもしれない。

 お前は自分で死ぬことを決めたのだろう。お前は私に言った。「幸せだった」と。それは私が創った仮想現実世界での偽りの十五年間ではなくて、現実世界での十五年間のことを指していたのではないか?真相は今となってはもう誰にも分からないが、私はそうである気がしてならない。なら私達がするべきことは一つだけだ。


 今日は慧の七回忌だった。今は妻と墓参りに来ている。空はよく晴れていた。毎年お墓参りする度に晴れているので、もしかしたら神様がいて見守ってくれているのではないかと思ってしまう。

 蝉の声が織りなす喧騒の中、私は妻と一緒に永澤家の墓の前で祈った。

「私は定年を迎え、老後を満喫しているよ。慧」

 私は慧に語りかける。もちろん返答などない。だが、こころなしか慧が微笑んでいるような気がした。私は慧に言われたように自分のために生きている。これでいいのだろう?慧。


             ◆


 白い病室。

 ループする偽りの世界。

 始まりはいつだって終わりの先にある。

 神様、僕はこの世界の仕組みがわかってしまったよ。

 どこまで続いているのかな?

 何度目覚めれば本当の僕になれるのだろう。

 この世界のことをすべて知った。

 それでも僕は本当の『すべて』を知ることはないだろう。

 だけど、それでいいんだ。

 僕はそれで幸せだった。

 ありがとう。

 本当にありがとう。

 だからお願い。

 


             ◆


「そろそろ帰りましょう、あなた」

 私が長い間目を瞑って、心の中で慧に語りかけていると、妻が私に声をかけた。

「ああ、そうだな」

 私は妻に同意して立ち上がる。その瞬間、涼しい風が吹き、私の背中を押した。私は夏の香りに包まれながら、思わず一歩を踏み出した。

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