《3》受容と、縋る手のひらと

 もしかして、私、間違ってしまっただろうか。

 そう思い至ったのは、彼の両親が眠る墓地からの帰り道のことだった。


『……墓参り?』

『はい。郁さんから聞いたんです、もうすぐお父さんの命日ですよね?』

『あー……うん』

『図々しいかもしれないですけど、私も一緒に行ったら駄目かなって思って』


 反応が鈍いとは思っていた。ほとんど無理やり約束を取りつけた結果、私は今、強めの後悔を味わっている。

 婚約をしているわけでもない癖に、厚かましかったかもしれない。その思いも確かにあったものの、私の頭を真に悩ませているのは、その点ではなかった。


『あの子ね、父親が亡くなってから一度もお墓参りに行けてないの。毎年両親どっちかの命日には誘ってるんだけど、なんだかんだ理由つけてきて、去年も断られちゃって。うちって親戚付き合いほとんどないし、あの子もそういうところ、淡白だから。私と一緒じゃなくても本当はちゃんと行ってほしいんだけどね』


 郁さんからそう聞いたのは、先月のことだった。

 当然ながら郁さんだって、私に都築さんを誘うようにお願いしてきたわけではない。だが。


『ふたり一緒にってわけじゃなかったし、俺自身はあんまり気にしてなくて』

『薄情だな俺、っては思う』


 いつかの話を思い出す。両親の死という悲しいはずの話をしているのに、語る都築さんの表情はどことなく冷めていた。

 余計なお世話だという自覚は十分にあって、それでも、このままでは悲しすぎると思ってしまった。結局、無理に連れ出したところで意味はなかったと、こういう形で思い知る羽目になったのだが。


 そう広くない寺院の敷地内、区画整理が行き届いた一角にその場所はあった。

 都築さんの出勤日の都合で、命日と聞いていた日から三日遅れてのお参りになった。墓石の前には、色鮮やかな仏花が供えられている。


『今年はね、命日当日に行く予定なの』


 そういえば、電話で郁さんがそう言っていた。墓石の周りに敷き詰められている化粧石の間に、雑草や落ち葉は残っていない。三日前に郁さんが訪れ、掃除して整えていったのだと想像がついた。

 持ってきたロウソクに火を灯し、まだ色を保っている墓花の隣に、そっと新しい花束を供える。そしてお線香を上げ、お水を上げて、両手を合わせた。その間、都築さんはひと言も喋らなかった。私の隣で、墓石に添えられた――墓誌と呼ぶのだったか、ご両親の名前が刻まれたそれをただぼんやり眺めているように見えた。


 帰りの道も、都築さんは完全にうわの空だった。

 私も黙っていた。やはり余計なことをしてしまったのだという自責の念が、沈黙と一緒に胸の中に降り積もっていく。


 あれ、と思ったのは、都築さんが自分のアパートを目指していると気づいたときだ。

 私を実家まで送ると言っていたのに、うっかり間違えたのかな……そう怪訝に思って運転席に視線を向けると、薄く笑んだ都築さんと目が合った。


「うち、ちょっとでいいから寄ってって」

「あ……はい」


 承諾したのは、都築さんの笑顔があまりにも寂しそうだったからだ。

 そんな顔をさせているのが自分なのだと思うと、胸がじくじくと痛んだ。



     *



「運転、お疲れ様でした。結構遠かったんですね、無理に誘っちゃってすみませんでした」

「え? いや、そんなことないよ」

「……え、と。コーヒー、淹れましょうか」


 意識して声のトーンを上げる。そうしていないと、すぐにも落ち込んでしまいそうだったからだ。

 なにか言いたげな都築さんの視線を遮りつつ、キッチンに向かった。カップをふたつ用意し、ペーパーフィルターを広げ、ふたり分の粉コーヒーを計る。自分の家ではないのに、どこになにがあるのか、その程度ならすでに覚えてしまっていることに、つい苦笑が零れそうになる。


 コーヒーメーカーのスイッチを入れたとき、後ろから腕が伸びてきた。

 不意打ちで抱きすくめられ、心許ない声が思わず口をついて出る。


「あ……都築さん?」

「ごめん。このまま聞いて」


 腕には力がこもっていない。

 触れるだけの抱擁と、弱りきった声。さっきまで車の中で感じていた胸の痛みが、瞬く間に舞い戻ってしまう。


「……俺」

「うん」

「親父が死んでから、一回も行ってなかった。墓参り」


 声は微かに震えていて、都築さんはそれを隠したがっているのだと気づく。

 いまだにその節がある。隠さなくていいのに、と言っていいものか迷っているうちに私を抱き締める両腕に力がこもり、息が詰まった。


「仕事が忙しいからって言い訳して、郁に誘われても毎回断って、納骨以来一回も行ってなかった」

「……都築さん」

「母親の命日にも親父の命日にも、特別なにも感じなかったから、俺、自分のことずっと薄情な奴だなって思ってきたんだけど、違った」


 ――認めたくなかっただけ、みたいだ。


 掠れた声が耳に届き、肩がぴくりと震えてしまう。私の背をすっぽりと覆う都築さんの腕は、まるで私に縋っているかのようだ。

 後ろを振り返った際に動揺した、その隙を突いて首筋に腕を伸ばす。……はやり、目が赤くなっているところを隠すためだったのか。私にはなにも隠さなくていいと伝えてあるのに。


「……こっち向くなよ……」

「どうして? 隠さないでっていつも言ってるのに」

「……でも」

「格好悪くなんかないよ。泣いててもいいから、続き、聞きたい」


 どうして、私まで泣きたい気分になってしまうのか。

 都築さんはすぐに隠したがる。最近では意識的に改善を試みてくれているようだけれど、どうしたってその癖が抜けきれないときもあるらしい。例えば、今みたいに。


 間を置かず聞こえてきた溜息には、確かな諦めが滲んでいた。


「行かなかったら、もういないんだって思い知らなくて済むから」

「うん」

「分かってたつもりだった。葬儀だってちゃんと喪主やって、実家も処分して」

「うん」

「けど、本当の意味では分かってなかったんだな。今日やっと受け入れられた気がしてる……」

「……うん」


 震える声を、都築さんはもう隠そうとしなかった。

 そのことが嬉しかった。私が都築さんの心の内側に立ち入ることを、彼自身に許されている気持ちになる。


 墓誌をぼうっと見つめていたのは、そういうことなのだと思う。花を手向けるより、線香を上げるより、そこに刻まれたお父さんの名前を改めて確認したこと。そのことこそが、お父さんがもうこの世のどこにもいないと、都築さんに受け入れさせた。


 そのとき、不意にコーヒーメーカーがボコボコと大きな音を立て始めた。

 ふたり一緒に現実に引き戻され、互いにしがみつくようにして抱き合っていた腕をどちらともなく緩める。


「びっくりした……っつうか今日はなんか、本当に格好悪いなぁ俺」

「そんなことないってば。コーヒーできたし、一緒に飲もう?」


 覗き込むようにして顔を見つめると、あからさまに背を向けられた。隠したところでバレているのに、それでも恥ずかしいものは恥ずかしいらしい。

 そういえば、告白してくれたときにもずっと顔を隠していた気がする。すでに懐かしいと思えるそのできごとからまだ一年半程度しか経っていないと思うと、なんだか不思議な気分だ。


 私も都築さんも、互いに心を明け渡し合えている。

 私からの一方通行ではなく、彼からの一方通行でもない。そう信じられることが、今はただ嬉しかった。



     *



 リビングの壁に寄りかかって座る都築さんが立てる両膝の間に、すっぽりと包まれるように抱きかかえられた私は、やはり背しか向けさせてもらえていない。

 後ろから抱き締められること自体は嫌いではなかった。守られている気分になるから、むしろ好きだと言えるかもしれない……だが、今は。


 顔が見たいと思っていたのに。

 そうまでして嫌だと言うなら、仕方がないが。


「お父さんって、どんな人だったんですか」

「どんなだったかな。うーん……無愛想で、口数も少なくて」

「うん」

「郁のことばっかり可愛がって」

「うん」

「結構、仕事人間で」

「うん」

「たまにしか怒んなくてな」

「うん」

「……もしかしたら、意外と優しかったかも」

「……うん」


 顔を見られていない安心感があるからか、語る都築さんの声は、途中から微かに笑っている感じがあった。

 不意に首筋に息がかかり、妙な声が零れそうになるところを必死に抑える。よくよく考えると、今の自分はかなり無防備な姿勢をしている。赤くなった顔を見られずに済むこの抱き締め方を、都築さんが好む理由が、なんとなく分かった気がした。


「はぁ。分かってたつもりだったんだけど、分かってなかったってことなんだろうな」

「……都築さん」

「もう何年も経ってるのにな。なんともないって思ってたのは勘違いみたいなもんだったんだなぁ、ちゃんと向き合えてなかっただけなんて本当格好……」

「別に格好悪くないですよ」

「えっ、あ……あり、がとうございます……」

「うん」


 なぜそこでどもった。

 意表を突かれたらしき声は上擦っていて、堪えきれなくなった私はつい噴き出してしまった。怒られるかとも思ったが、結局、都築さんも私に釣られたように笑い出す。


 受け入れるということは難しいと思う。それが親しい人との別れであれば、なおさらのこと。

 私は、まだ本当の意味では理解できていない。けれど、いつかは私にも、そんな日が来てしまうのだ。そのときは、この人の手に縋りついて泣いてもいいだろうか。悲しくてつらくて怖くて痛くて、そういう気持ちを、この人は私と分け合ってくれるだろうか。


 そうしてくれると、今なら信じられる。


「……ねぇ、都築さん」

「ん?」

「また一緒に行こうね。お墓参り」


 背を向けたままでも、抱き寄せてくれる腕の力が強まったことが分かって、そのあたたかさを噛み締める。


「……うん。そうだな」


 振り返ると、目を真っ赤にしながら笑う都築さんと視線が合った。

 泣き顔を見られても、都築さんはもうなにも言わなかった。今度は正面から、広い背中に両腕を巻きつける。


 このぬくもりを、私はきっと、生涯忘れることはない。




〈受容と、縋る手のひらと/了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

プランナーさんと! 夏越リイユ|鞠坂小鞠 @komarisaka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ