井上高志 第9話【試し読み最終話】

 僕は絵馬の前で屈む奈々子の後ろで鼻をかんだ。何回もそうしているから、まだ午前中なのにティッシュを切らしてしまった。

「朝からずっとそんな調子だけど、もしかして風邪?まさかインフル?」

 誰かの願いが書かれた絵馬を見ていた奈々子が振り返る。

「昨日散歩してたら雨に打たれてさ。多分それが原因だと思う」

「昨日の夜中に部屋から出て行ったのって……まさかあんな寒かったのに、旅館から外に出て散歩に行ったわけ?」

「ちょっとだけ」

「はあ。意味分かんない」

 再び彼女はハートが描かれた絵馬に視線を移す。

「高志は修学旅行のときこういうの書いた?」

「あんまり興味なかったかな」

 僕が言うと、奈々子から夢がないねと呆れられた。

 小学校高学年くらいの集団が東照宮と二荒山神社へと続く砂利道を歩いてきた。数人の女子が小走りで売店に向かう。巫女さんから受け取ったピンク色の絵馬を手にし、机の上で書き始める。後ろから男子たちが覗こうとすると、氷のような目つきで睨んだ。尻込みした男子たちは神社に身体を向けて、スマホを開いて写真を撮りはじめた。

「今の子供たちは普通にスマホ持ってるんだね」

「時代の流れだね」

「高校に入学して、初めてスマホ持った時は衝撃的だったな。出先で色々検索出来るし、音楽も聴けるし、写真も撮れる。高校のときはずっとスマホを触ってた気がする」

 スマホというものが開発されてからは誰とでも連絡が取れるようになった。たとえ連絡先を聞いていなくとも、『友達かも?』に挙がってくるリストに小学校や中学校の知人が載っていることもある。そのリストに『中島友美』の名前があることを期待しているが、一度もその名前を見ることはなかった。

「行こっか」

 奈々子は僕の右手を握り、すぐさま恋人繋ぎをしようと試みた。互いの指が交互に重なり合い、奈々子の体温が伝わる。その熱に悪寒を感じた僕は思わず手を引っ込めてしまった。

「……ごめん」

「またぁ?高志って恋人繋ぎ嫌いだよね」

 奈々子は不満そうに頬を膨らませる。

「嫌いっていうか、どうしても無理なんだよね」

「ぞわぞわするってやつでしょ?」

「うん」

 社会人になってから三年が過ぎたとき、奈々子とは陽介の紹介で出会った。僕よりも二歳年下の奈々子は幼さが残り、ショートボブが似合う可愛らしい人だった。僕らはその二年後には結婚し、去年には結婚式も挙げた。まだ子供はいないが、奈々子が子育ての話を振ってくるし、僕も三十四歳になったので、そろそろかなとは思っている。

 付き合ってから九年ほど経ったが、これまで彼女と恋人繋ぎをすることは出来なかった。一時期は治そうと努力したが、どうしても僕の身体は受け入れてくれなかった。奈々子だけでなく、過去の恋愛においても同じで、僕が手を繋げないことを発端にして別れることもあった。

「別に高志って潔癖症ってわけじゃないし、普通に手に触れる分には大丈夫なのにね」

「僕も治したいんだけど、どうしても無理なんだ」

「いいんじゃない?別に私も強要するわけじゃないし、もしかしたら高志に過去のトラウマがあるのかもしれないし」

「ごめん」

「大丈夫。今までそうやってきたじゃん」

 誰かの手を繋ぐとき、必ずトモちゃんとの記憶がフラッシュバックしてしまう。こんなこと恋人には言えなかったけど、何と言うべきか、トモちゃんが僕を離してくれなかった。僕がどれだけ抗おうとしても、僕の手には常にトモちゃんがいるような感覚がして、それが心地良いとも感じてしまう。僕の手に残るトモちゃんの存在が、何者かに上書きされるのが嫌だと僕は思っているのだろう。

「トイレ行ってくる」

「うん、ここら辺で待ってるよ。戻って来たら帰ろうか」

 奈々子がトイレに向かったのと同時に、先ほど売店の近くにいた小学生たちが僕の横を通り過ぎ、道路まで続く石段を下っていく。

 小さな背中を目で追っていると、石段の中腹の壁沿いに、黒色のダウンに茶色のパンツを履いた女性が両手を合わせて屈んでいた。小学生たちは一瞥しながら、その女性の後ろを通り過ぎていく。

 まさかね。そんなわけないよね。

 僅かな期待を抱きながら僕は慎重に石段を下っていき、その女性の背後に近づいた。

 小学生のときは知らなかったが、ここにも売店横と同じようにピンク色の絵馬が何列にもなって掛けられていた。

 その前で両手を合わせて祈っている女性は少し痩せていたが、確かにトモちゃんの面影があった。

「トモちゃん?」

 その女性は立ち上がってこちらを振り返った。

「えっと……もしかして高志?」

 トモちゃんの言葉に僕は力強く頷いた。

「うそ! すっごい久しぶりじゃん!」

 トモちゃんは手のひらを僕に向けた。僕と勢い良くハイタッチすると、自然な流れで僕らはそのまま指を重ね合わせた。先ほど感じた悪寒はそこになく、彼女の温さと懐かしさが僕の心を満たす。

 右手の薬指に固い感触があったので見てみると、トモちゃんの左手の薬指には指輪がはめられていた。

 その指輪の冷たさに僕は冷静さを取り戻し、トモちゃんの手を離した。

「まさかトモちゃんがいるとは思わなかったよ。二十年ぶりくらいだね」

「ほんとだよ!それにしても、高志はどうしてここに?」

「ちょうど旅行中。小学校ぶりに日光に来ようと思って」

「私も一人旅してたの。まさかこんなところで会えるなんてね」

 絵馬の前にはリュックとスーツケースが置かれていた。

「普段は何の仕事してるの?」と僕は訊いた。

「えっと……」

 トモちゃんは足裏で石段を何回か叩いた後、「育児とかで辞めちゃったんだよね。今は専業主婦してる」と言った。

 奈々子が戻ってくるまでそんなに時間はない。僕はずっと気になっていたことを質問した。

「小学校のときの修学旅行もさ、ここで何か祈ってなかった?」

「うん。してたね」

「僕さ、何を祈ってたのかずっと気になってたんだ。良かったら教えてよ」

「えー恥ずかしいなぁ」

「嫌だったら無理しなくていいけど」

「……絵馬に書いたわけじゃないけど、一度でいいからまた会いたいなって願ったと思う」

 それは誰のことかと聞く前に、僕の後ろから「もしかして、昔のお知り合い?」と奈々子が割って入ってきた。

「ああ、うん。小学校のクラスメートだよ」

 トモちゃんは背筋を伸ばし「初めまして、木村友美と申します」とお辞儀をした。

 木村友美という聞き慣れない名前に違和感を覚える。

「あ、初めまして。井上高志の妻、井上奈々子と申します」と言って奈々子もお辞儀をした。

「もしよければ積もる話もあると思いますので、カフェでも行きませんか?」と奈々子が提案した。

「いやいや、お二人の邪魔になっても困りますし、私もそろそろ行かなくてはなりませんので」

 トモちゃんはそそくさとリュックを担ぎ、スーツケースを持った。

「じゃあ、またね高志」

 トン、トン、トン。

 木々に囲まれて影になった石段をトモちゃんが下っていく。重そうにスーツケースを運ぶその背中を呆然と見ていると、奈々子が僕の肩を叩いた。

「高志、行ってきな」

「え?」

「あの人が高志にとって大事な人だったことくらい分かるよ。今日は話せなかったけど、今はスマホがあるんだし、連絡先くらい交換してきな」

「いいのか?」

「それにさ、あの人もしかしたら……」

 一瞬だけ奈々子の表情が曇った。

「……いや、何でもない。とにかくスーツケースくらい持ってあげな」

 奈々子が僕の背中を軽く叩いた。僕はそれに押させるように、駆け足でトモちゃんのもとに向かった。トモちゃんも僕の足音に気づいて振り返る。

「どうしたの?」

「いやさ、スーツケース持とうと思って」

「ありがと」

 僕はスーツケースを受け取り、トモちゃんと階段を下る。

「これからどこに?」

「さあねー、気が向くままにどこへでも。最後の思い出作りだよ」

「これから子育ても忙しくなって、一人旅なんて行けなくなるからか。そりゃあ楽しそうだ」

「……うん。そうだね」

 それから小学校の思い出話をしていたら、あっという間にバスの停留所に着いてしまった。

「スーツケースありがとね」と言ってトモちゃんは僕からスーツケースを受け取る。

「最後にさ、連絡先交換しない?」

 僕の提案にトモちゃんは二つ返事で受け入れ、互いの連絡先を交換した。

「じゃあ、また連絡するよ」

「うん、高志も元気でね」

 僕は停留所から離れ、来た道を戻る。

 これで良かったんだと僕は自分自身を納得させた。僕が本当に聞きたかったことは胸にしまい込んだ。

 でも、やっぱり訊いておけば良かったかな。僕は好きだったけど、トモちゃんは僕のことが好きだったのだろうか。

「ねえ、高志」

 呼ばれたことに気づいたときには、僕の右手はトモちゃんの両手に包まれていた。お互いの鼓動が握った手から交互に伝わる。

「あの日から、私のこと忘れたりしなかった?」

 僕は頷いた。

「じゃあさ」

 トモちゃんは僕の右手を力強く握った。

「これからも、私のこと忘れないでいてくれる?」

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金木犀の香り【試し読み版】 逢坂海荷 @Umikachan

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