井上高志 第8話

 身震いする寒さで目を覚ますと、隣で寝ている陽介が僕の布団を奪って心地よさそうに寝ていた。障子から差し込む月明かりを頼りにして、部屋の中に掛けられた時計を見ると、午前一時半を回っていた。

 乱れた浴衣を直し、クローゼットに掛けられたジャンバーを手にする。ゆっくりと部屋のドアを開けて、古びた廊下を右左と見渡す。廊下に誰もいないことを確認しトイレに向かう。

 トイレの閉まった窓から外を見てみると、雪がちらついていた。駐車場のアスファルトはすでに白一色に染まっていて、車の上には数センチほどの積雪があった。旅館の前の国道を一台の車が通り過ぎていく。エンジン音が静かな山の中にこだました。

 すると、トモちゃんがベンチコートを着てロビーから出てくるのが見えた。トモちゃんは随分と早く駐車場に行ったなと思っていると、トモちゃんはちらっと僕に視線を合わせ、国道を下るように駐車場を左手に出た。

「待って!」と叫びそうになったが、今声に出してしまえば先生たちに見つかるだろうと思い、喉元まで出ていた声を飲み込んだ。

 僕は部屋に戻り、靴下とスニーカーを履いてから再び廊下に出た。二階へと降りると、先生たちが廊下で何かを話している声が聞こえた。僕は一層足音を殺して階段を降り、一階へ向かう。誰もいないことを確認してロビーを通り過ぎ、玄関の扉を開けると、冷たい風が僕の顔面を吹き抜けた。

 雪に沈んだ足跡は、歩道のない道路の左端を進んでいる。街灯も無く、十メートル先は暗闇の道をその足跡を頼りにして歩き続ける。旅館から十分くらい歩くと、お土産屋と酒屋が並ぶ光の明るい通りに出た。東照宮から旅館に戻るときに見かけた通りだ。足跡は不自然に聳えるマンションの方へと続いている。マンションの傍には植木とフェンスで囲まれたテニスコートくらいの公園があった。滑り台にジャングルジム、屋根付きのベンチ、トイレと実にシンプルな公園だった。

 てっきり公園の中に入って行ったと思ったが、足跡は公園の入り口で忽然と消えていた。歩道の先にも、公園の中にも、反対側の歩道にも足跡が続いていない。僕は耳を澄ませる。あまりにも静か過ぎてキーンと耳鳴りがするも、やっぱり物音は聞こえない。

 僕はとりあえず公園に入ってみることにした。入り口にある車止めのポールを通り抜けると、隣にある植木がガサガサとうごめいた。

「わぁ!」

「おわぁ!」

 僕は滑って尻餅をついた。浴衣に雪の冷たさが染みる。

「……オバケかと思った」

 僕は立ち上がってフードを被ったトモちゃんを見る。

「どう?綺麗に足跡消えてたでしょ?最後の足跡がある場所から、そこの段差に向かってジャンプしたんだ」

 トモちゃんが指差した段差の上には確かに足跡があった。

「趣味が悪いなぁ」

「へへ、ごめんね」

 僕たちは公園の中を進み、三角形の屋根がついたベンチに腰をかけた。トモちゃんも僕と同じように浴衣にベンチコートを羽織っただけのようだった。トモちゃんは雪の付いたフードを外すと、顔に垂れた髪を耳の後ろに掛けた。ベンチコートの開いた足元からトモちゃんの透き通るように白い肌をした太ももが見えた。悪いことをした気がした僕は慌てて視線を目の前にある滑り台に向ける。

 僕らはしんしんと降り続ける雪を眺め続ける。僕らの足跡が徐々に白くなっていく。

「高志、随分背が高くなったよね」

 トモちゃんが僕のことを見る。三年生の頃は僕の方が低かったが、今では同じくらいの目線だ。

「六年生にもなったらトモちゃんにも負けないよ。とは言っても、トモちゃんも女子の中だと相当高い方でしょ?」

「まあね。けど、サッカー辞めたから身長とか関係ないけどね」

 トモちゃんが少年団を辞めたことは風の噂で聞いていた。男子にも負けずエースストライカーとして活躍していた彼女を止めようと公太たちが動いていたらしいが、それに応じることなく辞めてしまったらしい。

「ちなみに中学では吹部に入るんだ」とトモちゃんが言った。

「どうして吹部に?」

 トモちゃんは「そうだなぁ」と呟くと、足元に敷かれたコンクリートに足を滑らせながら、木目状の屋根裏を見て考え込む。一分くらい経った後、トモちゃんは「高志が見せてくれた図鑑の楽器が綺麗だったからかな?」と笑顔で答えた。

「あとね、他校にいる私の友達も吹部に入るんだ。麻理も一緒だし、陽介も誘ってみよっかな」

「陽介は将棋部に入るとか言ってたよ」

「将棋?」

「ほら、陽介ってボードゲーム好きじゃん? 今度は将棋やってみたいんだって」

「ふーん。残念」

「機会があったら、二人が演奏しているところ観に行くよ」

「うん……やっぱり、もう高志とは会えなくなるんだね」

 僕は親の勧めもあって中学受験をした。だから、多くの同級生が進学する地元の公立中学校には進学しない。

「そう思うと、私はちょっと寂しいな」

「僕もだよ。本当はみんなと同じ中学行きたかったんだけどな」

「あのさ、三年生のサッカー大会、まだ覚えてる?」

「六年間で一番スポーツが上手かった瞬間だったから覚えてるよ」

「さすがに六年間って。それは言い過ぎじゃない」

「本当だって。あれから僕はサッカーでもバスケでもゴール決めてないし、ソフトボールに至っては三振ばかり。マラソン大会ではビリから五番目だったし」

「うそぉ。高志ってそんなに運動音痴なイメージなかったけどね」

「この身長が勿体無いよね」

「本当だね」

「本当だねって。そう言われるとなんか傷つく」

「ふふ、ごめん」

 トモちゃんはベンチコートで手元が隠れた両手で口元を押さえながら笑顔を見せた。

「私ね。何年間かサッカーやってきて、何十回も試合に出たけどさ、一番楽しめたのはあの試合だった。だからさ……高志と話せなくなったのは本当に悲しかった」

 僕がトモちゃんと約束を交わしてから、公太たちは僕に執拗に構うようになった。公然の前での暴力は振るわれなかったが、僕の容姿や趣向、運動音痴についての悪口や給食のゼリーを盗むといった陰湿な嫌がらせは止まらなかった。陽介も公太たちの行動に気づいて「先生に言おうか?」と提案があったが、もう三年生が終わる直前だったので、黙ってもらうようにしてもらった。ただ、四年生から一緒のクラスになるのは避けたかった。三年生の終業式が終わった後、陽介と麻理を連れて、担任の先生に事情を伝え、公太と同じクラスにしてもらわないように相談した。

 四年生からの僕は、トモちゃんとなるべく会わないようにするため、今までよりも教室に篭るようになった。授業や掃除による移動がなければ、一日中教室から出ないこともあった。仮にトモちゃんとすれ違うことがあれば、僕は咄嗟に視線を違うところに向けた。そうやってトモちゃんとの接点をなくしていけば、彼女に迷惑が掛からないと思っていた。

「話そうとしなかった僕が悪かったんだ。僕は揶揄われるのが怖かった臆病者だったんだよ」

 今思えば、トモちゃんは僕に話しかけられても、例えカップルのように思われても気にしなかったと思う。結局、僕は自分自身が揶揄われたくなかっただけだったんだ。

「そんなことないよ。私だって何も出来なかったんだから、自分が臆病者だなんて言わないで」

「でも……」

「ほら、今こうして話せているんだからいいじゃん。高志と話せればそれで十分」

 トモちゃんは左手で僕の背中をさすった。上着越しであるが、トモちゃんの手からは温かさが僅かに伝わっていた。このまま永遠にこの時間が続いて欲しい。今日と同じくらい寒くて、珍しく雪が散っていた図書館帰りのあの日も同じことを感じていたと思う。

 けど、時間が止まるなんていうのはあり得ない。降り続けている雪は僕らの足跡を完全に消してしまい、時間というものの存在を僕らに突きつける。また明日になれば、僕とトモちゃんはいつも通り他人同士の関係に戻ってしまう。

 そんなのは嫌だ。

 でも僕はそれを選択してしまったし、中学生になったらもっと会えなくなるだろう。これを機に、トモちゃんとは永遠に話せないかもしれないと思うと不安と後悔で胸がいっぱいになった。

「泣かないでよ。高志」

 右膝の上に置いていた僕の右手の甲に、トモちゃんは黙って手を重ねた。僕は右手を返し、トモちゃんの手を握る。トモちゃんの指は細くて柔らかかった。

 じんと伝わるトモちゃんの体温が僕の手を温める。トモちゃんの力強くて優しい鼓動が、僕の心に落ち着きを取り戻させる。

「雪、止んだね」

 トモちゃんの言う通り、雪が止んだ。

 今、この世界で動いているのは、僕とトモちゃんが吐く白い息と鼓動だけだ。

 一秒でもいいから、一緒に居させてほしい。

 僕はトモちゃんの手をきゅっと力を入れて握る。トモちゃんも同じだけ握ってくれた。

 目を閉じると、トモちゃんとの思い出が僕の脳裏で再生された。初めてトモちゃんの手を握ったあのドロケイの日、サッカー大会で優勝した瞬間、夜の公園。どの記憶もトモちゃんの笑顔がそこにあった。

 目を開けてトモちゃんを見た。前を向いていたトモちゃんは僕の視線に気づくと、僕を見てニコッと笑った。

「また会ったら話してくれるよね?」

 僕は頷いた。

「よかった」

 また雪が散り始めた。

 それでも僕らは「帰ろう」と言うことはなかった。

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