「孔明出廬」③

 『三國志』・『魏略』が互いの逸話を載錄しない、換言すれば、否定しなければならない理由を考えれば、『魏略』については、その必然性は低いと言える。


 『魏略』が「三顧の礼」の逸話を載錄した場合、敵國の丞相である諸葛亮をその待遇を受けるべき、比類無き宰相として称揚し、彼にその待遇を施した劉備の先見性を認める事とはなるが、それは『魏略』に載錄された逸話であっても、ある程度は果たされている。

 つまり、程度の問題はあれ、諸葛亮が卓抜した軍師であるという事は伝えており、強いて「三顧の礼」を否定し、それに反するとも言えない逸話を伝える必然性は低いと考える。

 一方、『三國志』、諸葛亮傳の場合、『魏略』の逸話では諸葛亮が優れた軍師であるにせよ、劉備の「三顧」を受ける程の、他に抜きん出た存在である事を示すのに不充分である。

 先に述べた様に、「出師の表」が出されたのは、劉備亡き後に、その遺志とも言うべき「北伐」を敢行せんとする最中での事である。


 「北伐」、魏の打倒は蜀漢政権が漢の復興を目指すのならば、万難を排してでも成さねばならぬ企図と言える。だが、当時の蜀漢に於いて、それは必ずしも上下一致して、國を挙げてと言った類いのものではなかったと思われる。

 蜀漢政権を構成する人士は、大別すれば元より益州に住まっていた在地の者達と、劉備と共に蜀へ入った、主として荊州を出身とする者達がいる。更に言えば、前者には益州を本貫とする者と、漢末の騒乱の中で、劉焉・劉璋父子の時代に益州へ移ってきた者達とがおり、後者にも、劉備と荊州に於いて結び付いた者と、それ以前、彼の挙兵以来、徐州などで随従する様になった者達とがいる。

 当然、それぞれの出身によって動向が一体という事はないが、概略として「北伐」に熱心なのは、諸葛亮を筆頭とした新来の外来者達であり、在地の者達は、例えば、後に左車騎將軍となる犍爲武陽の人張翼が「維議復出軍、唯翼廷爭、以爲國小民勞、不宜黷武。(卷四十五蜀書十五)」と、飽く迄も姜維による出征にだが、批判的であった様に、外征に対して抑制的であったと考えられる。


 そうした批判的な一派に対して、諸葛亮には自らの正統性、劉備の遺志を繼承する者としての立場を宣揚する為に、劉備の「三顧」を受けた、比類無き軍師という像が必要とされたのではないか。

 当時の蜀漢政権には「與諸葛亮並受遺詔輔少主(李嚴傳)」という李嚴(李平)がおり、彼は南陽の人だが、諸葛亮等とは異なり、曹操の侵攻時に、劉備とは無関係に蜀へ入った先来の人物である。


 李嚴の立場は劉備の顧命を受けた時点で「中都護、統內外軍事」とあり、その後、光祿勳を加えられ、前將軍とされ、更に後には、先に触れた様に驃騎將軍に進んでいる。また、建興四年までは永安、次いで同八年までは江州に駐屯しており、これは諸葛亮が漢中で対魏の戦略を担当していたのに対して、吳に対応していたと言える。

 光祿勳は東漢に於いては司徒へ進む事が多い地位であり、前將軍も北伐に失敗した諸葛亮が自ら右將軍・行丞相事に降格しており、蜀に於いて、前後左右將軍は驃騎將軍馬超、車騎將軍張飛の死後は將軍としての最高位に当たり、李嚴は名実共に諸葛亮に次ぐ立場に在ったと言える。

 その李嚴は後年、補給の不備によって廢黜されている事を思えば、北伐に積極的ではなかったとも想像され、益州在地出身者達に近い心情だったのだろう。そうした、消極的であれ、北伐への反対者達を凌駕する為に必要としたのが「三顧」という、一種の神話であったのではないか。

 そして、それを否定し得る劉備自身、更には古くから彼に随っていた關羽・張飛や徐州以来の麋竺等は既に亡く、先に触れた孫乾・簡雍や、「先主之在荊州、籍常往來自託。(卷三十六蜀書八伊籍傳)」と、荊州で早くから劉備と親交があった伊籍なども既に故人であったと推定される。

 残るはやはり古参の將である趙雲や「自豫州隨先主、名位常亞趙雲、俱以忠勇稱。(卷四十五蜀書十五楊戲傳引「季漢輔臣贊」)」という陳到、先の劉琰などであるが、彼等は基本的に北伐の遂行に肯定的であり、敢えてこの「神話」を否定する者ではなかったと思われる。


 從って、飽く迄も推定となるが、『三國志』(諸葛亮傳)には虚構とは言わないまでも事態を脚色する必然性があり、その必要が薄い『魏略』の逸話が真実に近いと考える。

 無論、「三顧の礼」という印象的な逸話が全くの創作に成るとも考え難く、これまでの、劉備に「相失」した子がいた、張皇后の母が夏侯氏であるといった如く、根底となる何らかの典拠があったとも考えられる。

 例えば、劉備が諸葛亮に三度問うた、或いは、所謂「水魚の交わり」に見える關羽・張飛などの不満を宥める為に、「三顧」してみせたといった事実があったのではないか。


 以上、三題に亘って、蜀漢に係わる『魏略』の逸話を検討したが、何れも『魏略』には興味本位という点はあるにせよ、強いて話を捏造する必然性は薄く、一方で、『三國志』(蜀書)には『魏略』の伝える話を忌避、或いは脚色する必要があったと言える。

 從って、『魏略』こそが真実を伝えているとまでは言わないが、その「異説」には一定の真実が含まれていると考える。

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『魏略』三題 灰人 @Hainto

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