「孔明出廬」②
『三國志』諸葛亮傳と齟齬する、『魏略』に載録された「亮先詣備」という逸話の出処、情報源は何であっただろうか。これまでと同様、『魏略』が逸話を意図的に捏造する必然性は低いと考える。
何らかの根拠、根幹となる話があって、それを元に脚色されているとしても、全くの創作という事はないと思われる。そこで着目したいのが、諸葛亮傳で劉備に彼を「臥龍」と紹介し、自ら赴く事を勧めた徐庶(徐福)である。
徐庶は『三國志演義』では母を曹操によって人質に取られた事で、劉備の下を去り、別れ際に諸葛亮を推薦しており、言わば、彼と入れ替わりに退場している。
ところが、諸葛亮傳には「俄而表卒、琮聞曹公來征、遣使請降。先主在樊聞之、率其眾南行、亮與徐庶並從、爲曹公所追破、獲庶母。庶辭先主……遂詣曹公。」と、曹操の荊州侵攻時に南方へ逃亡する劉備に付き從い、その過程で母が
つまり、徐庶は諸葛亮を推挙して、彼が劉備に仕える契機を作り、その過程を実際に見聞していた筈の人物で、当事者の二人以外では最も事情を知悉している一人と言える。そして、最終的に魏に帰しているのだから、諸葛亮登用の経緯を魏に伝えたのは彼と考えるのが妥当である。
そもそも、徐庶について最も多くの情報を伝えているのは『魏略』であり、裴潛傳(卷二十三魏書二十三)に「魏略列傳以徐福・嚴幹・李義・張既・游楚・梁習・趙儼・裴潛・韓宣・黄朗十人共卷」と、『魏略』に「徐福(徐庶)」の列傳があったと云い、その文は裴松之が諸葛亮傳に引いている。
また、同じく諸葛亮傳には『魏略』を引いて「亮在荊州、以建安初與潁川石廣元・徐元直・汝南孟公威等俱游學、三人務於精熟、而亮獨觀其大略。」と、徐庶が石韜(廣元)・孟建(公威)と共に諸葛亮と親交があった事が記されており、これは諸葛亮傳の「惟博陵崔州平・潁川徐庶元直與亮友善、謂爲信然。」や、同傳に引く『魏略』徐福傳の「遂與同郡石韜相親愛。初平中、中州兵起、乃與韜南客荊州、到、又與諸葛亮特相善。」、更に董和傳(卷三十九蜀書九)で諸葛亮が「昔初交州平、屢聞得失、後交元直、勤見啟誨、……」と語っている事に合致する。
從って、徐庶は諸葛亮と特に親しい人物であり、『魏略』はその徐庶本人、或いはその周辺に取材して記事を成したと考えられ、当然、それは諸葛亮と劉備の出会いをめぐる逸話にも反映されているだろう。
「三顧の礼」が事実であれば、徐庶がそれを魏に全く伝えなかったというのは不自然であろう。そう考えれば、『魏略』に載録された逸話にはある程度の信憑性があるという事になる。
とは言え、『三國志』との齟齬は大きく、この二つの認識が両立する事はない。ならば、当事者である諸葛亮の言に依った『三國志』(諸葛亮傳)と、当事者ではないが、その最も身近にあったであろう徐庶に取材したと推定される『魏略』、そのどちらが事実を伝えているのであろうか。
他に客観的な傍証が無い以上、先にも述べた様に、基本的に信用すべきは当事者たる諸葛亮という事になるが、ここは視点を変えて、『三國志』・『魏略』がそれぞれの逸話を載錄した意図、逆に言えば、もう一方の逸話ではならなかった理由を考えてみたい。
ただ、その前に一つ、客観的と言えるかは疑問だが、それぞれの逸話の状況、と言うより、舞台となった場所について考察しておきたい。と言うのも、先に触れたが、『三國志』と『魏略』の齟齬の一つに、劉備の屯所が新野・樊城と、異なっている事があるからである。
先ず、諸葛亮の居所について確認しておけば、諸葛亮傳に「玄卒、亮躬畊隴畝、好爲梁父吟。」とあり、そこに裴松之は『漢晉春秋』を引いて「亮家于南陽之鄧縣、在襄陽城西二十里、號曰隆中。」と注している。
「出師の表」で諸葛亮は「臣本布衣、躬耕於南陽」と「南陽」に在ったとしており、これを「南陽之鄧縣」と見做せば齟齬はない。諸葛亮傳の末尾に『蜀記』を引いて「晉永興中、鎮南將軍劉弘至隆中、觀亮故宅」云々ともあり、諸葛亮が「隆中」に在ったというのは信用してよいだろう。
対して、劉備については先主傳に「曹公既破紹、自南擊先主。先主遣麋竺・孫乾與劉表相聞、表自郊迎、以上賓禮待之、益其兵、使屯新野。」と、建安六年(201)九月に汝南を逐われ、荊州に寄寓した当初は新野に屯している。
そして、「曹公南征表、會表卒、子琮代立、遣使請降。先主屯樊、不知曹公卒至、至宛乃聞之、遂將其眾去。」と、建安十三年(208)八月に劉表が卒し、曹操の侵攻が迫る中、樊に屯していた事が確認できる。
ただ、この七年間のどの時点で、劉備が新野から樊城に移ったのかは不明である。但し、先主傳には『世語』を引いて「備屯樊城、劉表禮焉、憚其爲人、不甚信用。曾請備宴會、蒯越・蔡瑁欲因會取備、備覺之、偽如廁、潛遁出。」云々という話が見える。
この話自体は東晉の孫盛が「此不然之言。備時羈旅、客主勢殊、若有此變、豈敢晏然終表之世而無釁故乎。此皆世俗妄說、非事實也。」と否定しているが、どの時点かは不明ではあるものの、劉表の生前に劉備が樊城に屯していたという話が伝わっていた事が窺える。
一方、諸葛亮が劉備と出会った時期については「出師の表」に「後值傾覆、受任於敗軍之際、奉命於危難之閒、爾來二十有一年矣」とあり、これに対して裴松之は「劉備以建安十三年敗、遣亮使吳、亮以建興五年抗表北伐、自傾覆至此整二十年。然則備始與亮相遇、在敗軍之前一年時也。」と勘案しており、「敗軍之前一年時」、乃ち建安十二年(207)となる。
これを疑うべき理由は無く、諸葛亮は劉表の死、そして、「敗軍」こと、所謂「赤壁の戦い」へと至る江陵への逃亡の一年程前に劉備と出会ったのであろう。ただ、この場合、諸葛亮が劉備と出会ったのは、劉備にとっての荊州寄寓の末期であり、『世語』を信じるならば、既に樊城に移っていた時期と見る方が妥当である。
諸葛亮が在った「隆中」は『元和郡縣志』卷第二十一(山南道二)の襄州襄陽縣条に「諸葛亮宅、在縣西北二十里。」とあり、この「縣」は「本漢舊縣也」であるので、『三國志』に云う「襄陽」と同一地点である。
また、同州の臨漢縣は「南至州二十里。本漢鄧縣地、即古樊城、仲山甫之國也。」とあり、この「州」は襄陽縣であるから、鄧縣こと樊城は「諸葛亮宅」から比較的近い距離にあることが判る。
一方で、新野は「南至襄州一百八十里」という鄧州の新野縣が「本漢舊縣」であり、「西北至州七十里」というので、やや方角は異なるものの、新野は襄陽の北(東北)百里(唐里)程の距離にある。
この百里程の距離を三度訪問するというのは、不可能ではないであろうが、不自然な状況であると言え、時期的な問題から見ても、諸葛亮が劉備と出会った際、劉備は樊城に居たと見る方が妥当である。
であれば、少なくとも、この点においては諸葛亮傳より『魏略』(及び『世語』)の方が事実に近いと言える。或いは、これは陳壽の誤りであるかも知れないが、『魏略』が真実の一端を伝えていると考えられる。
但し、百里を厭わず、三度訪ねたという方が、劉備の衷情が強調されるとは言える。
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