③花マル百点満点ラブラブハッピーエンド

 耳がバカになるかと思った。

 というか、なった。ライブハウスの爆音というのは聞きしに勝る凄まじさで、外に出た今でもまだ頭の中で鳴っている気がする。よく平気だなと思う。あるいは言うほど平気でもなくて、実は痩せ我慢してるだけとかだったりするんだろうか?

 ライブハウスを出てすぐそばの裏路地、隣に座ったライブ上がりの青木に、そっと「かずまは大丈夫?」と耳打ちする。

 作戦完了。

 目標は達成した。名前呼び。なんというか、思っていた以上に楽々いけてしまった。そりゃそうだ。でなきゃこんな全身バチバチにキメて、わざわざハレの日を選んだ甲斐がない。非日常感。その熱に浮かされた今の私たちなら、ごく自然かつ世間的にも許される感じでムチューッといけてしまう気がする。

 ——決めた。

 やる。お前が泣いても叫んでも、私は今夜中にお前の唇を奪う。

 というか、行く。今。ジャストナウ。私の隣、なんか体育座りの姿勢で固まった青木は、もう完全に——なんだろう。どういう心境のなんて状態なのかは知らないけど、とにかくどうとでもできそうな感じだ。

 ライブハウスの方は他のバンド、いわゆる対バンの人たちがどんどこ盛り上げてくれている最中で、今この場には誰もいない。ふたりの世界。夜の街の片隅、身を寄せ合う恋人同士。この絶好のチャンスで恋人の唇ひとつ奪えないようなら、私はこのさき一生ヘタレの芋女確定だ。

 何日かぶりの生青木。その肩に手をかけ、ゆっくり、私から身を乗り出すように。

 ——落ちろ青木一真、これが私の全力だァーッ!

「……やめてくれ。そういうことは、その、なんだ。よくない」

 かわされる。なんというか、こう、思ったよりもだいぶ本気っぽい様子で。

 正直、ショックだった。そりゃショックでなかろうはずもない。掠れる声で「どうして……」と聞いて、でも後々になって私は思う。

 どうしてもこうしてもない。当たり前だ。青木はこう見えて純粋というか、すごく真面目で良識的なところがある。風邪を口実に会わずにいた数日の間に、ムキムキの黒いやつにすっかり変えられてしまった女と、〝そういうこと〟は土台できない性格なのだ——と。

 そんな話ならよかった。いや全然よくはないけど、でも。

 かつて私は思った。男の人は、ちょっとおバカなくらいが一番いい、と。その考えは今なお変わらず、青木は格好いいと思うけど。

 でも。


 ——〝ちょっと〟どころではなかった。


「どういうつもりなんだ。さっきも言ったけど、おれには彼女がいるんだ」

 そうです。はいはいいます、ここにいまーす。

「そうなんだよ。困ったことに、結構似てるんだ。きみに」

 ……ん?

「だから、つい甘くしちゃったけど。そういうつもりならおれは楽屋に戻るよ」

 いえ、あの……青木さん?

 ——いや。

 実は内心、心のどこかで、薄々そんな予感はしていたのだけれど。

 もしかして。まさか。このバカ。


 目の前にいる自分の恋人に、まったく気づいていないのか?


 たぶん、公正にジャッジするのであれば、私が悪い。

 こんなの、気づけようはずもない。見た目がどうこうという以前の問題、その日の私は性格からして別人だった。本当ならビビり散らかしていたであろうアウェーの環境、その受付をサクッと乗り越えた瞬間から、無限に気が大きくなったのは自分でもわかった。性格が一八〇度豹変して、見た目はこれまで言った通りで、おまけに先日までの風邪に散々痛めつけられた喉は、まだ本来の調子から程遠いときた。

 百パーセント、私が有責。それはいい。それでいい。ただ、目下最大の問題は——。

 振り上げたこの拳の下ろしどころだ。

 私の覚悟。具体的には今、この黒いマスクの下で——そういえば外し忘れてた——タコみたいになったまんまの、私のこの唇のやり場はどこに。

 私の複雑な胸中。それを知ってか知らずか、いや明らかに微塵も気づいてない様子で、ひとり真剣な顔で自分語りを始める青木。こんなこと、きみに言っても仕方ないけど——。

「おれはもう、二度と彼女の期待を裏切りたくないんだ」

 彼は続ける。つい最近の小さな失敗。彼女が髪を切ったのに、まったく気づけなかったこと。その後悔が、ずっと胸の奥に燻っているのだ、と。

「だから、決めたんだ。彼女のことは、どんな些細な変化も見逃さない、って」

 えっうそ優しい。特にこの状況、私と知らずに言っているからこそ本気だとわかって、おかげで本当に腰砕けになるところだった。どうにか堪えたのは状況のおかげだ。よく考えたらこの男、彼女の些細どころか人生最大の大変身を、リアルタイムで見逃し続けてると思う。

 そっかあ、と曖昧な返事をするしかない私に、キメ顔のまま続ける彼。

「ごめん。正直、おれも半端な態度で、きみに変な誤解をさせたと思う。そこだけは謝る」

 そうスパッと断ってみせる青木の、今まで見たこともない冷徹な態度。格好いい。格好いいのはいいけどでも反応に困る。やだ嬉しい私を選んでくれてという気持ちと、やだひどい私を捨てないでという思いが、私の中でぐるぐる渦巻いてえーっなにこの状況ってなる。

 ——わからない。

 私は一体、どうしたら——というか、私は何をどうしたいんだ?

 自分が何に悩んでいるのかに悩むこと、たっぷり十数秒。


 ——さすがに、気づく。


「……ねえ、かずま」

「なに」

「戻るんじゃなかったの。楽屋」

 一瞬、ぐっと身をこわばらせる青木。それから、一拍おいて。

「きみが退いてくれたらそうする」

「そうなの? じゃあ一生どかない」

 返事はない。ないだろうと思った。青木が反応できないような言葉を選んだから。

「うそだよ。どいてあげる。どいてあげるげど……そしたら、戻らなきゃだね。かずま」

 自分で約束したもんね、と、耳元で。もうだいぶ大胆に近づいてるけど、彼はただ身を硬くするばかりだ。

「ねえ、かずま。本当にいいの? 私、本当にどいていい……?」

 返事は簡単なはずだ。ただひと言——いや無言でもいい、小さく頷くだけで済む。だから、それを待つ。もはや絶対にないと半ば確信しているそれを、私は、じっと。

 身を乗り出す。彼の腕に体を密着させて、私はゆっくりとマスクを外す。瞬間、びくり、と慄く青木の全身。リップグロスの甘ったるい香り。マスクの中にずっと篭もっていたそれが、今や触れ合いそうなほどに迫った彼の鼻腔、突き刺さるみたいに脳を焼いたのが視えた。

 彼のカサカサの唇から、まるで掠れるみたいな声。

「——みッ、みっ、ちゃん」

 やっと気づいたかこの野郎。

 そう思った。よかった、正直私もだいぶどうかしかけてたから、ここで魔法が解けてくれて本当に——そんな考えは、でもどうやら私の早合点だった。

 私の唇を凝視したまま、ただ浅く早い呼吸を繰り返すばかりの青木。

 なんとなくわかった。

 さっきの声。青木は、私を呼んだんじゃない。

 きっと、何かを言いかけたんだ。


 みっちゃん、たすけて、か。

 それとも——みっちゃん、ごめん、かな?


 目に見えて震える彼の唇。そこに優しく指先を沿わせて、せっかくだからカマをかけてみる。ずっと気になっていたけど聞けなかったこと。今なら答えて——はくれなさそうだけど、たぶんわかりやすい反応をくれそうだから。

「……かずま。したこと、ないんだね。女の子と、キス」

 ヒュゴッ、となんかすごい呼吸音がして、露骨に全身をこわばらせる青木。すごい。わかりやすいを超えてもうわからない。私の彼ってこんなだったっけ? 間近で見つめる薄暗がりの中の顔は、いつもより格好いいんだか可愛いんだか、もう全然わからないけどでも初めて見た。

 知らない顔。まるで別人みたいなギリギリの表情。心臓が暴れ馬みたいになってるのは、きっと私だけじゃなくて彼も一緒だ。

 同じ場所、同じ時間で、私たちは同じ気持ちを分け合っている。

 初めてのキス。消えない思い出として一生残る、大事な大事な最初の一歩。

 今までずっと大切にとっておいたそれを、こんなところで、なし崩し的に——。

 見知らぬ、誰かと。

 不思議な気持ちだ。目の前にいる見慣れた彼氏が、まったく別の人間に見える。初めて見る顔、初めて触れる態度、初めて味わうその剥き出しの心。そも、冷静に考えてみればいい。こんなバカな状況が本当にありうる? あれだけラブラブな彼女のことに、この後に及んでまだ気づけない、なんて。

 声にならない程度の声で、私はついに、その不安をこぼす。

 ——本当に、かずま、なんだよね?

 どうしよう。例えば、もし彼に双子の兄弟とかがいたら。別にただのそっくりさんとかでもいい。彼が私に気づかないのは当然で、だっていつの間にかすり替わっていた青木似の他人で、だから私は今から全然知らない男に唇を捧げるのだと、そんなあり得ない疑惑が私の中でどんどん膨らむ。こわい。私は何をしているんだろう? 愛する彼氏以外の男、その腕にぴったりくっついて、目の前には今にも触れ合いそうな唇。

 ——それは、よくない。

 こんな気持ちのまま、本当にそれをやっちゃったら。

 その味を、覚えちゃったら、私は。

「ごめんね」

 そう謝って、そして静かに身を離す。そうした。少なくとも私はそのように動いて、これは言い訳や妄想でなくて間違いのない事実で、でも彼の方が早かった。力も強い。必然、何が起こるかは決まり切っている。

 触れ合う、唇。

 一生忘れられない甘さになるはずのそれは、でも胸を引き裂かれるみたいな痛みに彩られて、というかもう普通に激痛だった。ゴチン、と凄まじい衝撃があって、歯と唇がズキズキ痛んで、思わず漏れ出た「痛っでェァ!」のひとこと、それに反応して飛んでくる「うわぁっみっちゃんごめん!」の言葉。

「ごめん、おれ、初めてだから力加減わかんなく——え? 待って、みっ……ちゃん?」

 思わず叫んだであろうその言葉に、自分で目をぱちくりさせるその男。もとい、青木。もはや「かずま」ですらない、どう見ても平素の私の彼氏。

 そうです。私がお前の大事なみっちゃんその人ですけど、でもちょっとだけ待ってほしい。

 これだけいろいろやってまったく気づかなかったのが、でもお前いま何で私ってわかった? まさかあのダミ声の「痛っでェァ!」、それがお前の中での愛する彼女だというのか?

「しょうがないじゃん! 女の子はちょっと頭のネジがぶっ飛んでるくらいが一番可愛いっていうか、おれみっちゃんのそういうところが本当に好きで——いや違う、そんなのどうでもよくて」

 そうだ。どうでも良い。お前はまず彼女がちょっと髪を切りすぎたくらいでその存在自体に気づけなかったのと、あと人のこと頭のネジ飛んでる女扱いしたことをまずは謝れ。首を垂れて謝罪しろ。そしたら私の前歯をヘシ折りかけたことと、それを大事な初めてにしちゃったことについては水に流してやる——。

「——よかった! 会いたかった、みっちゃん大好き!」

 全力のハグ。痛い。こいつと私では体格が違いすぎて、正直こうなるともうどうにもならない。クラスのみんなからはよく「大型犬の散歩で逆に引きずられる幼児」みたいなこと言われて、正直どういうことかいまいちピンとこなかったけど、今この瞬間理解した。

 だめだこいつ。こんな疑うのもバカらしくなるほど直球の「みっちゃん大好き」を叩きつけてきて、でもよく考えたらこの男、その数秒前に知らない女の唇を強引に奪ったばかりだ。こわい。なんであの直後にこんなラブラブハッピーができる? 信じられない——そう内心に思う私は、でもいつもの調子で青木の背や頭を「よしよし」している。いつも以上の安心感。青木が帰ってきたという嬉しさが、さっきまで別の男を誘惑していた自分を、その事実ごとスーッと消し去ってくれる。

 あまつさえ、

「また、記念日増えちゃったね。初ちゅー記念日」

 とか、そんなことまで言っちゃう。ふたりして顔を赤くして、痛かったとかごめんとか。その直前までの裏切りに、でも罪悪感や呵責は一切なくて、なんならふたりで何かを乗り越えたかのような感動すらあって、それが逆にっていうかもう自分で自分がこわい。

 なにこれ? なんでこんな当たり前に幸せしてるの私?

 謎だ。正直、彼のおかげで色恋には慣れたと思っていたけど。でも所詮は十五の小娘、私にはまだまだわからないことが多い。


 えらい人は言いました。

 恋は順風満帆じゃつまらない、そこには苦難があってこそ、と。


 恋もいざしてみると意外な発見があるもので、なるほどこれか、と私は思った。




〈はじめてどうしのおつきあい 了〉


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はじめてどうしのおつきあい 和田島イサキ @wdzm

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