第1章<第5話>

目を逸らしたらよかったものを。早く身を投げてたらよかったことを。私は名前もないあれに名前を付ける。私はお前を夢と称しよう。私はお前の命に従って、小さくて無様なこの脚で立ち上がり、結末を拒否し、傷つき、苦しむだろう。失った翼から立ち離れ、大空から降り、醜くい世界で生きよう。飛べなくなったとしても、倒れない限り私は死なない。




 目を閉じたら世界は黒に染まった。


 暗闇の向こうから微かな光が見える。


 「離れるのは怖くない」


 もう6年前のことだった。彼女が旅立ってから既に6年が経ったのに、私は未だあの子が話した言葉を忘れられない。


 「一人になったとしても大した変わりはないだろう」


 私の人生で唯一、友達と呼べる存在だった。彼女の存在は暗闇の中でも色褪せず輝いていた。


 「でも後悔はする。私一生、アンタに別れを告げたことを後悔するだろう」


 私は遠ざかる友達を掴むことができなかった。


 彼女が決めたことを否定して嫌われたくなかったし、一人になることに怯える弱虫と思われたくもなかった。彼女がいない明日が信じられなかった。この気持ちを最後まで彼女に明かすこともできなかった。でもあの子は頭がよかった。今考えてみれば、恐らく彼女は私の心なんてとっくに見抜いていたはずだった。


 「確信できるの。アンタはアタシが一番好きな人で、アタシが唯一嫉妬する人。アタシはいつまでもアンタを懐かしむだろうし、アタシは絶対アンタと過ごした時間を切り捨てられない」


 あの子はその時既に、いずれ私が絶望に落ちることを知っていたのか?私は6年が経った今にもあの子が考えていることを理解できないし、そしてこれからも、決してあの子を理解することなんてできないだろう。


 「もしアタシたちが別れて、アンタの全てが否定されるとしても、アンタが持っている全てが嘘になるとしても、私が抱いているこの気持ちだけは否定しないでね?」


 私が信じたかったものは既に消えた。


 私の居場所もなくなった。


 私の行き先も分からなくなった。


 でもお前との約束だけは、今になっても覚えている。


 逃げ場ができてしまった。


 目を覚め、地面から跳ね上がる。


 足の下で私を見上げる悪魔の額を踏み、身体を飛ばす。


 「凄い!そんなに飛べるの?!まだ生き生きしてて、本当美味しそうだね!」


 悪魔は自分の背後に逃げた私を目で追いながら唇を舐める。私は彼女から目を逸らし、記憶を辿りながら光を反射するものを探す。


 悪魔が私を襲う。私は壁でもう一度酒瓶を取って彼女に投げる。飛び掛かる途中だったのにも、彼女は急な攻撃に慌てず、軽く瓶を避けて私の脇腹を狙う。傲慢な悪魔は、口を開いて獲物と遊ぶこと以外には何も考えていなかった。


 やつが瓶を避ける瞬間、その隙に私は先まで悪魔がいたところに身を投げて駆け付ける。部屋を照らす灯りを反射しながら炎の色で光るあれは、2年前の時からずっとその場にあったのだ。


 「貴女……!よりによってそれを!」


 闇の中でも銀色の光を放つ一本の剣が悪魔の瞳に向かう。床に放置されていた剣を手に取って悪魔を睨むと、彼女も今までの自信に満ちた表情を納める。悪魔は意味の分からない言葉を呟く。


 「やはり残してはいけなかった。その後消して置くべきだった」


 私はこの剣が何なのか全く分からない。以前ここに来た時、凄く大きくて鋭い剣が一本あったことを思い出してそれを拾っただけだ。当時は暗い地下室に置かれた見知らぬ剣を見物するのに大した関心がなかった。私がまだ知らない儀式に使われるものか、それとも騎士に支給されるものであろうと早めに結論付けて、床に置かれた酒にだけ目を向かったのだ。だけど今は違う。今の私と目の前の悪魔にとって、この剣は傲慢な捕食者に傷をつけられる唯一の手段だった。


 「やはり手足は切っておいた方がよかった……!」


 今更後悔する彼女に向けて私は片方の口角を上げる。


 「今日ミス多いんじゃないですか?やっぱ歳のせいなのでは?」


 剣と剣を握った私を睨む悪魔は緊張したのか表情を硬くし、慎重に足を運ぶ。私は深呼吸を兼ねて声を上げながら悪魔を揶揄う。踵を地面から離し、足首を自由にする。長い銀色の剣を両手できちんと掴む。視線は悪魔の目に向かい、剣先は前方へ一直線だ。


 「そんな生意気なこと誰に教わったの?院長に対する敬意が足りないのでは?」


 「たかがこれ程の冗談で怖がらないでくださいませんか?知っているんじゃないですか?私この修道院歴代最悪の問題児なんですよ?」


 口角を上げて虚勢を張っているが、実は緊張で心臓が暴れ、筋肉も固まっている。低くジャンプしながら身体の緊張をほぐし、肩を動かす。深呼吸も忘れない。悪魔との距離が縮む。だがまだ動いてはいけない。あれが剣の間合いに入る寸前まで待つ。


 「そういえば貴女は本当にずっと私を困らせるばかりだったよね。言うこと聞かないし、近づいても直ぐ逃げちまって、臆病者で、間抜けものだった」


 爪が宙を裂く。急いで剣を収め、爪を避ける。そして素早く力を込めて下から切りかかる。悪魔は一歩引くことで私の攻撃を避け、直ぐに姿勢を構えながら地面を蹴る。その力が強過ぎるあまり、身体をぶつけようとする悪魔を目の前にしても剣を振るう隙がない。身体を翻り、紙一枚の差で噛まれず済んだが、着地も考えず飛んでしまったのでそのまま床に倒れてしまった。黄金の眼が私を見下ろす。


 「なのに何故変わったの?そんな臆病だった貴女が、何故真面目になって、何故急に私を頼るのようになったのよ!」


 再び空気を切り裂く音が聞こえた。反射的に剣を振るうと、腕を通じて肩まで衝撃が伝わり、手が震える。悪魔は目で追えない速度で私を襲い掛かるが、獲物を捕らえる直前、剣の側面が額に当たり、その勢いを失ってしまった。まさか倒れた状態で振るうった剣であれ程の巨体を持つ野獣に打撃を与えるとは思いもしなかったので、悪魔が目を瞑って後ろに引く姿を見て、自分自身も驚いてしまった。しかし生憎、今は私の火事場の馬鹿力に驚いている場合じゃなかった。身体を起し、剣の握りを持ち上げ、肩と脇を隠す。


 「なんで変わったの?なんで今更変わったのよ?!」


 あれは怒りなのか、それとも悲しみなのか。やつは黄金の炎を振り撒き、飛び掛かる。奴の動きを目で追うことはできなかったが、奴の筋肉を観察していつどこからかかって来るのかは予測できた。牙が私の上半身を切り裂く寸前、悪魔の鼻と口に向かって剣を振るう。悪魔はまた私の攻撃を避ける。


 だがその慎重な性格のせいで、彼女は一瞬足を止めてしまった。今度は私の番だ。剣を両手で握り、体重を乗せ悪魔の懐に飛び掛かる。院長と目が合った。一本の剣が化け物の巨体を切り裂く。下から上へ、悪魔の胸と頸、顎を一直線で切る。銀色の剣は、硬い皮膚と頑丈な筋肉を切ってなお力を失わず宙に突き上がり、赤い悪魔の血を振り撒く。




捕食者の声が響く。翼はいない。だが脚は動く。私はまだ生きている。




 一瞬止まっていた呼吸が再び動き出す。悪魔は血を流しながら床に倒れた。彼女の目はまだ私を見ている。私は銀色の剣を握って、そのまま悪魔を後ろにして地下室から抜け出した。


 どこに行けばいいのか、どう生きればいいのか分からなかった。誰を信じるべきか、何を信じるべきかさえ分からない。私にあるのは手に持った一本の剣と肩にかけた小さい鞄だけ。服に血が染まって、顔と髪にも固まった血が付いている。緊張と溜まった疲れのせいで足は鈍って、歩みは不安定。だけどそれでも太陽は昇る。


 進む先は知らず、だが進まねばならない。


 まずはシャワーを浴びたい。そして一寝入りしたい。




捕食者から逃げた翼無き鳥。空飛ぶこともできず、苦しみの中で死と向かい合い続けながら捕食者の牙と爪に心臓を貫かれ、飢えて我を失っても、その膝が地に落ちぬ限り、永遠と茨の道を歩む。


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悪魔は躊躇せず、謝らず 柳ノ雉 @dpswpfqlxm12

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