第1章<第4話>

だが結末を迎える私の目を惑わせるあれは何故消えぬ。あの名前のないものは何故私をこれ程戸惑わせるのだ。翼を失い、恐怖に潰され、死を待つだけの私に何を求めているのだ。あの名前のないものが、私に傷つくことを命ずる。私に傷つきながら進めと命ずる。胴体にくっついているこの無様な両脚、小さく不格好な両脚で、苦しみの中へ進めと命ずるのだ。




 最初に感じたのは太ももから伝わるおかしい感触。その次に感じたのは湿気を含んだねばねばした息。猫の足みたいなものが私の脚と腰を包んでいた。修道院に隠れた野良猫かと思うには、あまりにもその足が大き過ぎる。足一本が人の身体とほぼ同じサイズで、引っ込んでいる爪だけで赤ん坊の身長より大きい。違和感があって当然だった。


 欲望が滲んだ野獣の息が耳障りとなり、寒気が恐怖という本能を呼び起こす。


 びっくりして目を丸く開くと、目の前には捕食者の眼があった。燃える黄金の瞳には、暗い碧眼を持つ若い女の影が映っている。巨大な牙と蛇のように真中が裂けている舌を見せながら、涎を垂らすあれは、幼い頃見た絵本に描かれていたライオンに似ていた。毛の色は灰褐色で、頸部の鬣は針のように鋭く、肩高は少なくとも成人の二倍だった。


 燃え上がる瞳に映っている紺色の髪の毛の、目元が濃い女性が私であることに気付くことはそう難しくなかった。目の前に広がった風景と、私の存在が全て夢ではなく現実のものであると自覚したら、間もなく今私が地下室にいて、先程院長がくれた酒を飲んで倒れたことも思い出した。また、目の前のあの野獣に見覚えがあることも直ぐ思い浮かんだ。


 化け物は目を丸く開きながら顔を引く。私と目が合って驚いた様子だった。


 「どうやって?」


 化け物がそう聞く。


 あれはまだ状況を理解しておらず、それは私も同様だった。


 だけど幸い、私の身体は思考よりも先に動いた。


 両手に力を込めて、獣の目玉を思いっ切り打ち下ろす。横になった姿勢だったので力は中途半端だったが、不意打ちになったおかげか、やつは慌てながら頭を持ち上げる。今度はやつの鼻と喉を拳で殴る。


 足腰を抱えていた前足に力が抜けた内、身体をひねて床を転び、獣から離れた。そして直ぐ身体を起して壁に背中を預け、獣を凝視する。獣は前足で目を抱えて呻いていた。


 今私がどんな状況に置かれたのか分からなかった。私はまだ地下室にいて、レオル院長の姿は見当たらない。何故か目の前には見覚えのある化け物がいる。私が自信を持って言えることは、あの化け物こそ、騎士が倒すべき悪魔であることだった。


 12歳の時、私は街の外郭であれを目撃した。同じ街に住んでいた子どもを食っていたのだ。偶然その場面を目撃してしまった私はそのまま身体が動かなくなり、逃げようともしなかった。傍にいた友達はあれを悪魔と呼んだ。たった数日前に悪魔に立ち向かうと心を決めたばかりなのに、早速もその瞬間が訪れたのだ。


 悪魔は顔を抱えていた前足を離し、その目で私を見つめる。瞳は血に染まっていた。だがやつは目の出血は気にせず、私が起きていることだけに驚き、困惑している。


 「何故起きている?」


 「院長はどこだ?!」


 生憎、やつの質問に答える余力はなかった。私やつ以上に驚いており、困惑していたのだ。私は必死にレオル院長を探した。まさか院長は既にあいつにやられたのか?最悪の状況が頭の中に浮かぶ。院長を守れなかった私を許せない、許す自信がない。だから私は院長の安全を真っ先に祈った。


 「……」


 悪魔は沈黙する。あれはゆっくり私に近づく。私は相変わらず壁に背中を寄せたまま、悪魔との距離を保ちながら横に移動する。視界のどこにも院長の姿は見当たらず、先私が口に当てた銀杯がテーブルの下に落ちて転がっていた。


 「あれ程飲んだら絶対起きられないと思っていたが……、それとも実際飲んだのは一口程度かな?」


 悪魔は訳の分からない独り言をつぶやく。距離が段々縮まる。


 「あれ程の酒好きだった貴女なら、当然何も言わずぐいぐいと飲み尽くすと思ってたら」


 悪魔の身体に変化が起きる。鬣が翻り、全身の筋肉が収縮と変形を繰り返す。私が見ているのは果たして現実なんだろうか。


 「珍しくずっと酒を断って、もしかしたらと思ったら……。貴女って本当に勘がいいのね?」


 呼吸ができない。足に力が抜けて、身体を支えることができない。


 「だけど運が悪いな、キャトル」


 悪魔は少女になる。見慣れた顔だった。


 「……院長?」


 院長はいつも通り優しい笑みを見せている。だけどその笑みの奥から見えるのは愛情と親切ではない。


 何ですか、これ?」


 声が震える。


 「何だって?見りゃ分かるでしょ?私が悪魔なのよ。そして今から貴女を食べるの」


 脚に力が入らず、しゃがみ込んだまま彼女を見あげる。直ぐ目の前まで近づいて来たが身体が全く動かない。頭が回らない。


 「この瞬間をずっと待ってたの。ずっと我慢して、やっとこの日が訪れたのよ。貴女が酒を口にした時、今までの我慢が報われた気がして本当に嬉しかったの」


 「私……、院長のこと信じていたのに……」


 無力に声を上げようが、彼女は気にもせず


 「そう?それは残念だった。でも貴女への愛は本当なんだよ?貴女は本当美味しそうなんだから」


 そしてまるで告白でもする少女のように、頬を赤らめながら、恥ずかしそうに視線を逸らす。


 「自分の口で言うのは恥ずかしいけど、私ってアンタのみたいに長くて太い脚が好きなんだよね」


 嫌らしい視線で私の脚を舐める。これはきっと悪い夢なんだ。何もかも夢に過ぎないんだ。そう信じたかった。でも夢というには苦し過ぎるし、悪夢というには余りにも絶望的だった。


 「私を傷つけないと言ったんじゃないんですか?」


 その言葉を聞いた彼女は足を止め、片手で頬杖をつきながら暫く考え込む。そして瞑っていた目を開き


 「いや、貴女にはそんなこと言った覚えはないけど?」


 本当に何も知らないような表情で答える。白を切って嘘を吐くわけではない。寧ろ好奇心を持って逆に私の方に質問をするのだ。


 「うん。やっぱりそんなことなかったよ。他の子には、反応を楽しむためにこの姿になって『傷つけたりしません~』とか話したことはあったけど、貴女にはそんなことなかったんでしょ?一体どこでそんなこと聞いたの?」


 言葉を失った私の脳内には、一番考えたくないことが閃いた。院長が他の子たちもこんな風に地下室におびき寄せて殺したとしたら、私を救ってくれたあの時の言葉も、ただ他の子を揶揄うためだけの言葉に過ぎなかったのでは?私は偶然その場で酒を飲んで倒れて、運がよく院長にばれず生き残っただけで?


 今までの私は、私の希望は一体何だったんだ?あんな酷い冗談に頼って今まで生きて来たの?


 心が折れた。死にたくないという本能はまだ残っていたが、生きようとする意志が消え去っていく。私を救ってくれた悪魔が、私を侮辱する。頼るところを失い、全てが嘘になった。その中で唯一、私は一人だという事実だけは、疑う余地のない真実であろう。


 私は逃げる。生き残るためでも、勝つためでもない。ただ逃げるため逃げる。


 「逃げないで欲しいな。貴女を傷つけたくないのよ?」


 悪魔の声が心に刺さる。


 「私、キャトルとは長く楽しめたいの」


 少女の声が再び人間のものではなくなる。


 悪魔に背中を見せながら走り出す。そして地下室の奥にあった別室に身を隠す。私が2年前勝手に入って酒を飲んだあの場所だった。別に意図したわけではない。ただ逃げる場所が必要だっただけ。


 「早く出ておいで?こんな暗いところじゃなくて、もっと明るいところで遊ぼう?」


 悪魔の声が私を追う。無意識に壁にかかっている酒瓶を取る。見慣れた形だった。2年前に私が口に当てたものと同じ形だった。それを反射的に院長の方へ投げる。


 「そんなの私には通用しないのよ?」


 すると、院長は前足で軽く瓶を払い、飛ばされた瓶は壁にぶつかって粉々となった。院長はゆっくり瓶の破片が散らかっているところに近づく。


 「面白いものやってみる?」


 彼女は床に流れる透明な酒を爪先で触る。部屋を照らす外からの灯りのおかげで、悪魔の爪先から酒がぽつぽつと床に落ちるのが目に見える。


 「ここにキスしてみて?」


 悪魔が爪を出す。


 「一滴だったら恐らく3分程は眠れるはずよ」


 蛇の舌が狡猾に笑い、凶暴な牙が嘲笑する。


 「貴女は3分間寝てまた起きるの。そして目を覚める時、今まで見た全てが悪夢であるように祈る。院長は優しく、修道院は安全。悪魔みたいなものもここにはない」


 瓶をもう一つ手に取る。瓶を開いてそこに入った酒を悪魔に振り撒く。だが悪魔は既に予想していたように瞬きもせず酒を避けて私に近づく。


 「でも現実はもっと残酷。目を覚めたら今までのことが夢ではなく現実であることに気付いてまた絶望するだろう?」


 欲望に囚われた傲慢な黄金の瞳が私の肌を燃やし尽くそうとする。


 「そしたら私はもう一度貴女に酒を飲ませるの。また貴女が眠るのを傍で見守って、再び貴女が目を開いたら、絶望に落ちるその姿を何回も味わう」


 あの悪魔にとって私という存在は死を待つことしかできないか弱い被食者だった。傲慢な捕食者が口を開き、爪を立て近づく。もう逃げ場はなく、逃げる理由も見つからなかった。私は息を止めて目を問じる。


 「揺るがない現実、否定できない悪夢によって絶望した貴女はどんな反応をするのかな?本当楽しみ」

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