第1章<第3話>

結末というのは思考する者に与えられる悪夢であり、思考するのを諦めた者には決して辿り着けないものであろう。だとしたら結末と向き合った者は何と呼べばよいだろう。私は終わりを告げる者として思考することを否定され、無知を奪われた。見ろ、これが被食者の末路で、捕食者の明日だ。被食者はいつかの終わりのため存在する者。私もそうだ。



 

 修道院の先輩たちがそうしたよう、私も同様に、夜明けの前、午前零時が過ぎて間もない時間、目を覚めてベッドから身を起した。緊張と興奮のせいか、割と直ぐ気を取り戻せた。院長が言った通り、夜明け前に目が覚めるように送別会の後、直ぐ眠って、そのまま眠り続けていたおかげか、思ってたより身体は疲れていなかった。

余分の服と水、食料が入っている鞄を肩にかけて、衣服の着崩れを整う。後輩たちが自分たちの手で作ってくれた大事な修道服だ。服には皺一つ見えないが、心を落ち着かせるためでも服を触る。


 時間になった。まだ早い時間であったが、ずっと部屋で待っていても心が乱れるだけだった。扉を閉めて、部屋から出る前、最後に私が数年間過ごした狭い部屋を見回す。部屋の掃除は寝る前に既にやっておいた。おかげで微塵の汚れもないと自信持って答えられる。


 扉をきちんと閉めて、修道院での思い出を後にし、院長室へ向かう。人に背中を見せず、ただ神のみに己を任して。修道院の院長は導く者。私はレオル院長から剣を受け取り、別れを告げて修道院を出るのだ。


 「おはようございます。と言うにはまだ早いですね」


 院長室の前で彼女は私を待っていた。


 「眠くはありませんか?」


 「少しは眠いんですが、でも大したことではありません」


 「そうなんですか?修道院の院長として儀礼や伝統の価値は当然重んじておりますが、長い旅に出る者をこんな時間に起こすのは少し申し訳ないとも思います」


 「私は本当に大丈夫です。他の子たちにも挨拶したし、昔から身体だけは頑丈でしたので」


 院長を安心させるため笑顔を作ろうとしたが、多分他の人の目にはただ不自然に口角を上げた顔にしか見えないだろう。院長は表情を作るのが苦手な私とは違って、自然と口角を上げながら穏やかな笑みを見せる。


 「確かに、キャトルの頑丈さは他の誰よりも私が一番よく知っていますから。余計な心配でしたね」


 彼女が足を運ぶ。


 「付いて来てください。旅立つ修道女のための儀礼を行う場所へ案内します」


 私は彼女の背中を追う。二十歳過ぎたばかりの歳でもあり、元々体格が小さく、実際の歳よりも若く見える方だった。私が見ている彼女の背中はとても小さい。長いツインテールの髪は、細い肩を隠し、修道服の裾に触れる。歩幅は狭く、足も速くない。でも迷いなく真っ直ぐと進む歩みに連れて、彼女の髪の毛も爽やかになびく。


 「院長は騎士たちとはあんまり合わないんですか?」


 無意識的にそんな質問を口にした。別に大した意味があったわけでも、旺盛な好奇心があったわけでもない。ただ、こんな質問なら暇つぶしでちょうどいいんじゃないのかと、勝手に思っただけ。


 「いいえ、巣を離れた小鳥が、親鳥のところに訪れることなく、親鳥が独立した子どもに会いに行かないように、私もまた、院長としての責務が終わるまで騎士団に足を踏み入れることはできません」


 「それは少し寂しいです」


 「はい。私もそう思いますよ」


 私たちは迷路のように複雑な廊下を歩く。不慣れな場所だった。修道院の中であるはずなのに、まるで別の所に訪れたような気がした。


 「きっと寂しくなるんでしょうね」


 院長に付いて歩いていたら地下へ繋がる階段が視界に入った。この時、漸く私たちが向かう先が、以前私が勝手に潜り込んだ地下室であることに気付いた。2年前の夜、たった一度だけしか行ったことがなかったので、今まですっかり忘れていた。だけど目の前に現われた階段を目にしたら、当時の自分が先の廊下を歩いたということを思い出せた。


 地下室は修道女たちが騎士になるための儀式が行われる大事な場所だったのだ。普段立ち入りが禁止されるのわけだ。当時には地下室には絶対足を踏み入るなと言われたのがきっかけで好奇心が湧いて、勝手に入ってしまったが、もしもその日、騎士になるための儀式が行われていたら、大問題になるところだった。


 「大丈夫ですか?」


 階段の前で突っ立っていたら、余計に心配されたようだった。院長が足を止めて振り向いていた。彼女と目が合うと、罪悪感と羞恥心が押し寄せる。この恥を誰にでもいいから明かしたいと思った。しかし、何も知らない顔で首を傾ける彼女を見て、やはりここでは全て夢のままにするべきだと思った。


 そのことがあった以来、一度もレオル院長は当時のことを口にしなかった。理由が何であれ、それには必ず彼女なりの意味があるはずだった。ならば私はただ彼女を信じて、彼女に付いて行けばいい。


 「はい、問題ありません。ただ少し驚いただけです。まさかここに噂の地下室があったことに」


 「ふふっ、他の子たちも同じ反応でした。心配しないでください。案外暗くないし、もう直ぐですから」


 階段を下りて地下室の前に着くと、予想通り、記憶の中にあるあの分厚い青銅製扉が見えた。


 どこにそんな力が潜んでいたのか、レオル院長は、その小さな肩で簡単に地下室の巨大な扉を押して開く。


 地下室の壁には、地下室に向かう階段に飾ってあった大きめの蝋燭と同じ形のものが何個かかかっていた。おかげで院長の言葉通り中は意外と暗くなかったが、と言っても目の前に何があるのか微かに見える位に過ぎなかった。視線が記憶の中の夢を追って動く。記憶と変わらず、地下室の隅っこには小さな部屋があった。あの部屋で私は勝手に酒を飲んで、院長の声を聞いた。


 「ここに座ってください」


 院長はそう言いながら地下室の真中に置かれたテーブルの方へ行って、地下室の青銅製扉に背を向けながら座る。彼女は自分の席の向こうにある椅子を指す。私はその椅子に座って、院長と目を合わせる。


 テーブルの上には一つの銀杯が置かれていた。


 「その杯を持ち上げてください」


 杯はかなり大きいサイズだったため、両手で気を付けながらそれを持ち上げる。微かに光る蝋燭の炎が杯を照らし、銀色の明かりを灯す。一輪の百合が刻まれていること以外大した目立つところのない地味なデザインだった。


 「ではお祈りを捧げましょう」


 レオル院長が手を合わせ、目を瞑る。私も同じく丁寧に杯を掴んだまま、目を閉じた。どこか覚えのある香りが鼻に触れると、過去の記憶が再び蘇る。


 「……姉妹の無事と平穏を祈ります」


 短い祈りが終わった。生憎院長の祈りは全く耳に入って来なかった。杯の香りが私の思考を混乱させる。


 「キャトル、その酒を飲んでください」


 「これはお酒だったんですか?」


 私は既に自分の手の上にあるものが何なのか知っていた。実際口にしたことがあったのだ。


 「はい。旅に出る修道女たちの無事と平穏を祈る意味でお酒を渡しているのです。少し量が多めでありますが、それ程度数の高いものではないので一気に飲み尽くせると思います」


 「一気に飲みつくんですか?」


 「これもただの伝統に過ぎないことですが、でも折角だし、別れる時は修道院の伝統に従うのも趣きのあることでしょ?」


 「それはそうですね……」


 自分が握っているこれが何なのか聞きたかったわけではない。2年前私が既にこれは経験をした。寧ろ知っているからこそ、院長の意図が分からないのだ。酒には自信がある私であったが、この酒は一度口にしただけで気を失ってしまう。院長の言葉とは違い、恐らくこの酒は随分度数の高いものであろう。そんなものを何故危険な旅に出る寸前の修道女に渡すのか、その意中を知りたかった。


 10歳過ぎたばかりから色んな種類の酒を経験した。少し飲み過ぎるくせはあったが、修道院の外では子どもが酒を飲むことを悪いことだと思わなかったし、酔っ払って問題を起したこともなかった。私は、同年代は勿論、大人たちと比較しても酒に強い方だったし、今まで一度も酔っ払って気を失ったり、二日酔いで苦労したりしたことはなかった。


 2年前、初めて地下室に来た時、私は偶然、地下室の隅っこにあった小さい部屋で液体が入っている瓶を何本か見つけた。今のように銀杯に注がれた状態ではなく、大きいガラス瓶の中に入っていた。ガラスの瓶は街で過ごしていた頃、よく口にしたワインの瓶によく似ていたので、私はてっきりそれが酒だと思った。私はそこにあった瓶の中で、開けっ放しになったものを手に取った。暗くて色は見えなかったが、甘い香りが食欲を刺激した。アルコールの匂いもあまりしなかったから軽い気持ちでそれを二、三回口にしたら、いつの間にか私は気を失っていた。


 今目の前にあるこの酒は原液ではなく、水を混ぜたものなのか知れない。あり得ることだ。でも原液ではないと主張するには、香りが記憶の中のそれと全く同じものだった上、気を失った記憶が楽しい記憶ではなかったこともあって、簡単に杯に口を当てられなかった。


 「安心してください。修道院も酒を全て禁止するわけではありません。許可なく酒を飲んだり、作ったりするのは問題になりますが、院長が許可したら大丈夫ですよ?」


 まだ知らない振りをしているのか、それとも私がこの酒に嫌な思いをしたことを本当に忘れてしまったのか区別がつかない。


 「本当に大丈夫なんですね?」


 「あら、珍しいですね?キャトルがそんなにお酒を怖がるなんて」


 「申し訳ございません。旅が不安だったので……」


 「確かに、それは仕方ありませんね。ですが本当に度数が低いので酒よりはジュースを飲む気で口にすればいいのです」


 「そうなんですか?」


 院長がそう言っているから間違いないだろう。彼女の説得に結局納得してしまった。どうせこれも逃げられない義務の一部だったし、ここまで来て彼女の頼みを断りたくもなかった。何より今この瞬間は院長との最後の思い出でもあった。彼女の言葉を信じて、杯を口に当てる。


 「神様、姉妹を祝福してください」


 「……祈ります」


 甘い香りが鼻先をくすぐり、酒が唇を潤す。慎重に一口飲むと、やはりこれは過去に飲んだあの酒と同じものだったことが分かる。水や他の飲料と混ぜたわけでもなさそうだ。それに気付いたら、今直ぐでも口から離したかったけれど、やはり院長が渡したものを断ることは私にはできなかった。


 蝋燭の炎が地下室を照らしているとはいえ、地下室には月光も陽光も届かなかった。直ぐ目の前にあるものしか目に見えない。院長には申し訳なかったが、私は酒を飲み干す振りをしながら、杯にあった酒の半分を口の中ではなく袖や襟の方へ注ぎ、口の中に入れた分も暫く口中に入れた後直ぐ吐いた。


 しかし実際飲んだのは一口だけだとしても、覚えある目眩と眠気の感覚を止めることはできなかった。やはりこの酒を口にしてダメだった。でも院長は安心してもいいと言ったのに?目眩が酷くなり、視界が揺れる。それとも私が緊張し過ぎたせいか?身体の具合でも悪かったのかな?


 「院長、私、身体が変です……」


 視線を院長の方へ向けようとした時、彼女の声が聞こえた。


 「愛しているよ」


 声が途切れ、視界が消える。

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