第5話 牛乳が欲しい

 何度も頭の中でシュミレートする。失敗してしまったら、ばれてしまったら、また虐待されてしまうのだから、慎重に。

 落ち着かせるように深呼吸をして、玄関の扉に手をかけ。

 そこで僕はまた不安になって、もう一度頭の中でシュミレートする。

 抜けているところはないか、運任せの部分はないか。

 昨日冷蔵庫に牛乳があるのは確認済みだ。

 朝食にも使っていた形跡はなかったから、まだ残っているはず。

 大丈夫。大丈夫。

 そうして何度も心に言い聞かせるが、それでも心臓の鼓動は激しく叩き続ける。

 いつまでもこうしていても仕方がない。

 乾いた唇を潤し、僕は玄関の扉に手をかけた。

「た、ただいま帰りました……」

 廊下を進みキッチンを覗くと、そこには冷蔵庫の中身を見ている母親の姿があった。

 中身を見て、僕が盗っていないかを確認しているのだろうか。

 いや、考えすぎだ。母親はただ夕食を何にしようか考えているだけ。

 冷蔵庫からいくつかの食材をとりだして、調理台の上に並べていた。

 乗り切らない食材は後ろの机に置いて――

 と、振り返った母親と目が合った。

「何?」

「い、いえ。すみません」

 じろりと睨まれた瞬間、これから僕がなにをしようとしているのかを見透かされているような気がした。

 盗もうとしているから、睨んでいるのではないかと。

 母親は舌打ちを一つすると、そのまま調理へと戻っていった。

 大丈夫。睨んでくるのはいつものこと。いつもの……こと……

 いや、ここで落ち込んでいる場合じゃない。

 僕は母親から目をそらして、シンクの横に目をやる。そこには、昨日洗ったペットボトルがあった。それを確認すると、僕は自室へと歩いていった。



 鞄に入っていたプリントの余白部分を切り取り、学校の痕跡がないか確認する。

 その何も書かれていない真っ白な紙切れを手にして、僕は窓から外に出た。

 外に降り立つと、なるべく音をたてないように砂利の地面を進んでいく。

 母親は包丁で食材を切っている最中だから、少しくらいの物音は大丈夫だろうが、念のため。

 そうして僕は、玄関の前へと再びたどり着いた。

 その玄関から少し離れたところ、しかし玄関からしっかりと見えるところに、持ってきた紙切れを置き、飛ばされないように石で固定する。

 少し風が吹いたが、重石のお陰で飛ばされることはなかった。

 次に、玄関の外に置かれている箒を手に取る。

 引き戸の扉が簡単には開かないように、箒をつっかえ棒のようにして置いておく。

 箒の掃く部分がふさふさしているため、扉を開けるときに力を入れれば開けられるだろうが、少し時間を稼いでくれればいい。

 仕掛けを終えて僕は、確認のために辺りを見回す。

 時折ぱたぱたと風に煽られている、重石を乗せた紙切れ。

 玄関の引き戸を開けにくくするように設置した箒。

 そして、普段はめったに押すことのない呼び鈴。

 ――心臓が激しく鳴って、胸が痛い。まるで心臓の鼓動がバスドラムに変わったかのように全身に響いている。

 その痛みはだんだんと、お腹のほうまで侵食していく。

 きゅぅぅと締め付けるような音が鳴り、痛みが増していった。

 呼び鈴に手を伸ばすが、その手が震えている。

 僕はその震えを抑えるためにぎゅっと拳を握り、そして、あの猫のことを思い出す。

 僕がここでやらなければ、猫は飢えに更に苦しむことになる。

 飢えの苦しみは知っている。猫が苦しむことに比べたら、この緊張は軽いものだ。

 僕は深呼吸をして息を整えると、意を決して呼び鈴を押した。

 僕の緊張とは裏腹に、軽快な音楽が家の中に鳴り響くのを確認すると僕はその場から駆け出す。

 向かうは僕がさっき出ていった自室。

 なるべく音をたてないように砂利道を進んでいくと。

「はーい」

 と、居もしない訪問者に返事をする母親の声が聞こえた。

 僕は自室の窓へとたどり着くと、汚れてしまった靴下を脱ぐ。汗でへばりつく靴下をどうにかひっぺがし、裸足のまま自室へと入り込む。

 調理をしていたからか、じゃーという手を洗ったあとに玄関のほうへと進む足音が聞こえた。

 廊下を覗くと、玄関に向かう母親の後ろ姿を確認する。振り向いてこないことを祈りつつ、僕は廊下を通りキッチンへと向かった。

 シンク横に置いてある、僕が昨日洗ったペットボトルと取ると、玄関からがちゃがちゃと扉を開けようとする音と、母親の声が聞こえてくる。

「ちょっ、なんで開かないのよ。あ、すみませーん。今開けますからー」

 鍵を開けたり閉めたりしてどうにか扉を開けようと手こずっている母親。その音を聞きながら僕は、冷蔵庫の扉を開いた。

 その中から牛乳を取り出し――

「か、軽い?」

 慌てて中身を見てみると、10分の1もないくらいの量しかない。傾ければ底が見えるほど少なかった。

 どうしよう。もし牛乳がいっぱいあれば、少し持っていくくらいならばれはしなかったはず。

 しかし、残りが少ないとなると、僕が使ったということがばれてしまう可能性が高くなる。

 牛乳パックの中身と、ペットボトルを交互に見て考えていると。

 がらがらがら、と玄関の扉が開く音がした。

「すみません、開かなく……て。あれ、どっかいった?」

 ……仕方がない。腹をくくれ、僕。

 僕はこぼしても大丈夫なようにシンクに行き、ペットボトルに牛乳を注いでいく。

「すみませーん。あのー」

 母親の声にびくっとなり、注ぎ口とペットボトルの口が僅かにずれる。

 すこしシンクにこぼしてしまったが、どうにか全部を移し替えることに成功した。

 僕は急いで空になった牛乳パックを冷蔵庫にしまい、ペットボトルのキャップを――

 あれ、キャップはどこだ? 落としてしまったかと床を見渡すが、どこにもない。

「あのー……ん、なにこれ。置き手紙?」

 床。調理台。冷蔵庫。シンク。探していると、シンクに白い水溜まりが。

 さっき牛乳をこぼしたあとだ。もしこれが母親に見つかったら、僕が牛乳を取ったことがばれてしまう。

 僕は水道のレバーを少しずつ動かして、牛乳を流していく。

 シンクの証拠を消せた。えと、ペットボトルのキャップは……

 と、シンクの横、ペットボトルが置いてあったところにキャップがあった。

 ペットボトルと一緒に取るのを忘れていたのか。だが、そのおかげでシンクの牛乳に気づけた。

「は? なにも書いてないんだけど。悪戯? ったく。私も忙しいんだからこんなことしないでよ……」

 くしゃくしゃと紙を丸める音が聞こえた。もうすぐ母親が戻ってくる。僕は最後にざっと冷蔵庫とシンクを見渡し、ばれそうな証拠が残っていないことを確認すると、その場から逃げ出した。

 廊下に出ると、母親が玄関の扉を閉める後ろ姿が見え、その首がこちらを向く――

 直前に、僕は自室へと滑り込むようにして入った。



「猫さん。牛乳を持ってきました。飲みませんか?」

 しゃがみ込んで声をかけると、猫はゆっくりと顔を上げて僕の顔をじっと見てくる。

 僕は牛乳を猫にあげようとして。器がないことに気づき、仕方がないのでキャップに注いで猫に渡した。

 少しずつしかあげられないが、飢えているときにいっぱい食べたり飲んだりすると胃がびっくりして痛むから、まあ、これくらいで丁度いいかな。

 猫が牛乳を飲んでいるのを見ていると、僕も水を飲みたくなった。緊張していたからか、喉の奥の潤いがなくなっていて、張り付いたような痛みを感じる。

 僕は公園の水道から、水をごくごくと飲む。

 猫のもとに戻るとキャップ一杯の牛乳を飲み干していて、もっとほしいと言わんばかりにそばにあった蓋の空いたペットボトルに手をかけようとしていた。

「ちょ、ちょっと待ってください」

 猫の手が蓋の空いたペットボトルに触れる前に、僕はペットボトルを手に取る。

「倒したらだめですよ。今次をあげますから」

 僕の顔をじっとみつめる猫に声をかけながら、再びキャップに牛乳を注いでいく。

 舌をJのような形にして、掬うように飲んでいくのを見ていると、自然と笑みがこぼれていく。

 ぼーっとみているとまた飲み干したので、僕はキャップに牛乳を注いだ。



 猫は牛乳を掬って飲んでいるのかと思っていたが、どうやらそうではないらしいというのが、牛乳を何度も飲む猫を見て分かった。

 舌を、水中に入れていないのだ。Jの形にしたところに水を溜めていない。舌を水面に触れさせているだけ。

 どうやって飲んでいるのかと思い改めてじっと猫を観察するとそれが判明した。

 舌を水面に触れさせて引き上げると、水柱が立つ。それをぱくりと口にして飲む。

 それを繰り返して牛乳を飲んでいるのだ。

 だから掬わない分牛乳が飛び散ることも少なく、キャップの周りはほとんど汚れておらず牛乳が少し跳ねた程度で済んでいた。

 と、猫は急に牛乳を飲むのを止めて、ぽむっと顎を段ボールに乗せる。

「満足しましたか?」

 先ほどまで口を開けながら呼吸をしていたのだが、今は落ち着いたのか口を閉じ、穏やかな規則正しい呼吸を繰り返していた。

 しばらくすると眠そうにゆっくりと瞬きを繰り返す。

 開いている時間より閉じている時間のほうが長くなり、やがて目を閉じた。

 すーすーと寝息をたててどこか落ち着いたように見えるその姿に僕は、まだ入っていた肩の力が、解けていなかった緊張が、ほぐれていくのを感じた。

 起こすのも悪いかと思い、僕は立ち上がる。

「いてて……」

 長時間同じ姿勢でしゃがみ込んでいたからだろう。膝がぱきぱきと軋み、痺れていた。

 屈伸をして足に血液を送り込むと、僕は猫に小さく手を振った。

 猫は今日衰弱しているだろうから、これ以上撫でるのは控えよう。

 手に残った猫の撫でた感触が名残惜しかったが、また明日くればいい。

「また、明日です」

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