第4話 猫さんとはじめまして

 じじじっとノイズが小さく聞こえた後、電子音あふれるチャイムが校内と近隣に響きわたる。

 と、そこかしこから大きなため息や、「やっと終わったー」という間の抜けた声が聞こえてくる。

「号令するまでまだ授業中だぞー。日直」

「きりーつ。れい。ありがとうございましたー」

「「ありがとうございましたー」」

 挨拶が終わると、皆机の中の教科書や資料集、ノートなどをカバンの中に入れていく。

 その姿をどこか羨ましそうに眺める先生だったが、やることがあったのかふと我に返り教室を出ていった。

 と、不意にがちゃがちゃと何かをぶちまけたような音が鳴り、傍にいた数人の視線がそちらに向く。

「あ、ごめんごめん。筆箱倒しちゃった」

「ぜんぜん。てか私のほうこそごめん。立つ筆箱って倒れやすいからさ」

「だったら替えろし」

「えー。だって幅とるじゃん。社会の授業とか、教科書に資料集にワークにノートだよ? 筆箱邪魔だって」

「それなー。社会の日って鞄重いしだるい」

 床にしゃがみ込み笑いながら、鉛筆やボールペンを拾っていく。

「うわっ、あぶな。ハサミ足元に落ちてたし。ちょっと横だったら突き刺さってたかもわからんね」

「それ大げさ」

 冗談めかしてハサミをちょきちょきする女子生徒。

 ハサミ……刃物……包丁……?

「っ」

 慌てて両手を確認する。切り傷や擦り傷でいっぱいだったが、穴が開いていたり指先が無くなっていたりはしていない。

 ――というか、どうして僕は今手を見たんだろう。手なんか見たところで何かがあるわけでもないのに。

「ホームルーム始めるぞー。早く帰りたいなら席に着けー」

 先生の言葉に、僕は手に奪われていた視線を戻した。



 ばたばたと足音を立てながら、廊下を走っていく生徒たち。部活に行くのか、自宅に帰るのか。どちらかは分からなかったが、なにか目的のために走ることができるのは、なんというか、まぶしい。

 その人たちから目を背けると、保健室の横、一枚のポスターが目に入った。

 こころとひみつ、まもります スクールカウンセラー

 ここに相談したら、現状何か変わるのだろうか。

 ……などと、淡い期待を抱いていた時もあった。

「はぁ……」

 

 あれは、半年ほど前のことだっただろうか。

 4階の一番端っこの部屋。その部屋に入ったことが簡単にはわからない場所にスクールカウンセラーの先生がいた。

 僕はごくりと唾を飲み込んで、こんこんと扉をノックする。

「はーい」

 柔らかい物腰を感じさせるような、こころを包み込んでくれるような優しい女性の声。

 僕はこわばっていた肩の力が抜けていくのを感じながら引き戸を開けた。

「こんにち……。こんにちは。さ、まずは上履きを脱いで?」

 パソコンで事務作業かなにかをしていた先生は、入室した僕の姿を見て一瞬動きを止めた。

 僕は疑問に思いながらも、言われたとおりに上履きを脱ぐ。そして置いてあったスリッパに履き替えた。

「その、ずいぶんと……痩せているね。あんまり食べてないの?」

「は、はい。今も少し、おなかすいていて」

「そう。まあ、とりあえず座って」

 藍色のカーペットが敷かれた床は足音を吸収していて、部屋に響くのは僕と先生の声と、暖房の機械音だけ。

 僕は言われたとおりにソファに座ると、先生も対面のソファに座る。

「で、今日はどうしたの? 進路の相談? それとも友達付き合いがうまくいかないとか?」

「うまくいかない、といいますか、あの。僕、いじめられていて。あの、いじめを止めてほしいんです」

 事前に考えてきた言葉を、少し詰まってしまったけど言うことができた。

 ほっとして僕は先生を見ると。

 先生はソファに体を預けていた。そして小さく、ほとんど音のしないこの部屋だから聞こえた小さなため息が、僕の耳に届く。

「……はい。えーまずは相談してくれてありがとうございます。えーっと、辛かったよね。でも、安心して、君をいじめている人は君を傷つけようとしてやっているわけではないんです。ただ、少し構ってほしいからやっているだけなんですよ」

「え? えっと、あの、先生? とめて、ほしいんですけど……」

「そうですね。まずは、歩み寄ることから始めましょう。君にちょっかいをかけている人は、手を伸ばしています。君がその人と仲良くなろうと手を差し伸べれば、きっと仲良くなれるはずです。さあ、勇気をだしてみてください」

「勇気……。あの、僕をいじめる人は、仲良くなれるとか、そういう感じじゃなくて……」

「でも、君から仲良くしようとしていないわけですよね? 一応ここは学校という、社会の練習みたいなものなんです。チャレンジしてみましょう。それでだめでしたら、また来てください」

「チャレ……ンジとか、そういうんじゃなくて、あの」

「はい、とりあえず頑張ってみましょう。君ならできます。こうやって相談してくれたということは、勇気はもう持っているはずです。あとは行動に移すだけですよ」


 ――なにが相談なのか。

 相談など、意味はない。何かが解決するわけじゃない。

 むしろ、変わるかもと期待を抱いて裏切られて、傷つくだけ。

 僕はスクールカウンセラーのポスターから目をそらすと、昇降口に向かって歩いていった。



 なぜだか、足が重い。

 アスファルトの地面が実は沼で、僕の足が沼に取られているのではないかと思うほどに、自分の思うように足が動かない。

 いつも歩いている帰り道の風景が、今日はいつもよりゆっくりと流れている。

 公園の木の葉は緑を落とし紅葉で色づいているというのに、夏を終わらせてたまるかと言わんばかりに太陽が燦然と輝いていた。

 木の葉を揺らす風だけが、僅かに秋を感じさせる体感温度にしている。

「……な……」

 なるべく日陰を歩いていたが、この先の道に日陰がないことに気づき、僕は潔くあきらめて日向を進む。

「……にゃー……」

 どうせ日向を歩くんだったら、遠回りをしてまで日陰を探す意味などなかったな。いや、でも暑いから、公園で水分補給でもしてから帰ろう。ゆっくり休んでから、少し日が落ちてから帰るのでも遅くはない。

「……にゃ、にゃー」

「ん?」

 ふと、木々のざわめきの隙間から、声のようなものが聞こえた。……猫?

 猫と遊んでから帰ろう。別に家路を急いでいるわけでもないんだ。ゆっくり帰ろう。

 僕は猫の鳴き声がした方、公園の中へと歩みを進めた。

 公園の入り口である木々のアーチをくぐった瞬間、先ほどまで感じていた夏の残りが嘘のように消える。心地よい風が服の中を通り抜け、汗をかいた体が冷えていく。むしろ、少し寒いくらいだ。

 ふう、と一息つき、鳴き声のした方へと向かってみると。

「にゃ……」

 木の下に、小さな段ボールが無造作に置かれていた。その中には、力なく体を段ボールに預けた猫の姿が。

 両手の掌くらいのサイズの体は、いつもなら可愛さを増す要素のはずだ。しかしそんな要素は感じさせず、むしろ今にも力尽きてしまうのではないかという弱々しさを感じさせていた。

 口を小さく開きはぁはぁと喘ぎ声を漏らしながら呼吸をしていて、時折助けを求めるように小さく鳴き声を発する。

 僕はその猫におそるおそる手を伸ばした。そして、本当は真っ白であろう、今では土と枯れ葉で汚れた毛を優しくなでていく。

 汗で冷やされて少し肌寒い僕の体に、猫の体温がやわらかく熱を持たせてくれる。

「にゃ……」

 猫はゆっくりと顔を上げて、撫でた僕の顔を見上げた。

「あ、すみません。急に撫でてしまって、驚かせてしまいましたか?」

 問うと、猫は僕から視線をそらし、ぽむと顎を地面につけた。

 試しに撫で続けても、特に嫌がる様子はない。僕は、自然と零れた笑みに、笑ったのはいつぶりだろうと思いながら、猫の体温を感じ続けた。

 しばらく食べていないのだろうか。撫でた時の毛のふわふわの感触の中に、骨の硬さも混じっている。ふわふわの毛も、想像していたよりはじとっとしていて、脂っぽさが手に残った。

 もしかして元気がないのも、飢えているから?

「すみません。なにか食べさせてあげたいんですけど、自由に使えるお金がなくて……何も買ってあげられないんです」

 もし、ここで出会ったのが僕じゃない誰かだったら、近くのコンビニに行って牛乳やらドライフードやらを買ってきてもらえただろうに。

 いや、食事を得るのはなにも買うだけじゃない。

 懐に忍ばせて店を出れば、お金はいらない。

 ……しかし、もし成功すればいいが、失敗したらどうなるだろうか。

 学校と家に連絡がいって、僕の万引きがばれてしまう。そうなれば、また。

 急に肌の温度が下がった気がして、僕は自分の腕を抱いた。

 店も万引き対策はしているはず。厳重な警備をかいくぐって盗むのは現実的じゃない。ばれる危険性が高いし、ばれた時に虐待を受けるのは嫌だ。

 他に食材を入手できそうな場所は。場所は。

 ――やはり、あそこしかないのだろうか。

 警備に関して言えば店とは比べ物にならないくらいに緩い。ばれる危険性は皆無と言っていいだろう。

 いや、だけど……

 僕は、目の前の猫を改めてじっと見つめる。

 この猫は死にそうなほどに飢えている。飢えは全身の力を奪い、やる気を無くし、――何より苦しいのだ。たまに胃を捻られているのではないかと錯覚するほどの痛みが襲ってくるのだ。

 この猫も、苦しいのは嫌だろう。

 最後に僕は猫を一撫でする。

「少し、待っててください。猫さん」

 震える声を無理やり腹で支え、僕は立ちあがった。

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