第3話 母親と父親

 大きく深呼吸を一つ。

 震える手がいつものように玄関を僅かに揺らす。取っ手に手をかけ、ガラガラと引き戸の玄関を開けた。

 と、奥の部屋からだんだんだんと、心を揺らすような振動が響き、心臓を引っ張られるような恐怖を感じる。

 心臓の鼓動が、足音につられて激しく叩き出した。

 それがどんどんと近づき、やがて――

「あんたのせいよっ!」

 急に母親が角から現れる。ヒステリックに響いた声が僕の心を引き裂いたかと思うと、パチンと衝撃が頬を襲う。遅れて叩かれた部分が燃えるように熱くなった。

「あんたが居るから金が無いのよっ! この穀潰しがっ!」

「…………ごめん……なさい……」

 うつむきながらそう呟くと、母親は僕の肩を突き飛ばす。

 ガチャンと、玄関がまるで風が強い日のような大きな音を立てる。

「あんたのせいで……あの人が出世できなかったんでしょう? あんたが風邪を引いたせいで……っ!」

「……ごめんなさい……」

 呟くように発すると、ギロリと僕を睨み付ける。

「あんたが何やったか、何をやらかしてくれたか……分かってる!?」

「……えと…………すみません……」

「くそっ! ほんッと! 覚えが悪い! 前に言ったでしょっ! あの人の出世に大事な商談と! あんたが病気にかかったのが! 一緒だったのよっ!」

「……すみませんでした……」

 頭を下げると、母親は僕に髪を鷲掴みにし。

「あんたなんか……産まなければ良かった……!」

「……ぃっ……」

 地面へと叩きつけられた僕は、視界の端に親指の爪をグッと噛む母親の姿が見えた。

「太助……何が助けよ……私の邪魔にしかなってないじゃない」

 ボソッと、しかし確かに発せられた母親の呟きが、鋭いトゲとなって心に突き刺さり、まるで返しでもあるかのように抜けなかった。

 「はぁっ」と吐き捨てるようなため息をつくと、だんだんと大きな足音を立てながら遠ざかっていく。

 はやくどかないと。父親が返ってきたときに邪魔だって言われる……

 しかし、関節がさび付いたかのように動かない。

 身じろぎをして何とか動こうとすると、不意に頭を押さえつけられたかのような圧力が襲ってきた。

 脳みその辺りだけを圧縮されるような感覚。それを振り払うために何とか体を動かそうとしてーー

 ああ、なんだ。さっきと同じ白いもやじゃないか。

 これは悪いものじゃあない。

 悪いものじゃ……

 

 

 ――痛みがない場所を探しながら寝返りをうつ。

 こうしてどれくらいたっただろうか。不意にガラガラと玄関が開く音が聞こえ――

 バンッ! と、勢いよく引き戸が閉められる。

 そしてばたばたと、体やら鞄やらを壁にぶつけるような音が、先ほどまでしんとしていた家に響き渡った。

 それだけで、僕の心臓はばくばくと激しく鳴る。つんと鼻の奥が痛くなる中、首を左右に振ってその感情を振り払う。

 しかし、だんだんと部屋の外の音が大きくなっていくにつれて、僕の心臓がまるで警鐘のように激しく鳴る。

 叩きつけるような足音がこちらに迫ってきて――

「酒のあてが足りない。作れ」

「……っ。はい」

 扉を乱暴に開いて、その扉に手をつきながらこちらを睨み付ける男――父親が、ぶっきらぼうに言葉を放つ。

 反対の手には、残り僅かのコーヒーのペットボトルが。

 僕は立ち上がると、未だ扉に手をついている父親の側をくぐり抜けるようにして部屋の外に出る。

「おい。なにちんたらしてんだよ。さっさと歩けよ……っ!」

 背中を蹴り飛ばされ、机に激突しそうになったため反射的に手をついた。

 ……正面までに迫っていた机の角に、僕は目を吸い寄せられる。

「なにぼーっとしてんだよ。早く作るんだよ!」

「はい……」

「あ、その前に」

 と、父親は飲みかけのコーヒーを一気に飲み干し、空になったペットボトルをこちらによこしてくる。

「これ、水で洗っておけ」

「はい……」

 ペットボトルに水を入れてしゃかしゃかとふり、水気を軽く切って自然乾燥させておく。

 がたがたと椅子を引き食べ物を急かしてくる父親を尻目に、僕は冷蔵庫へと手を伸ばした。

 冷蔵庫の中には、ソーセージやハム、数か月前からあるタッパーに入った食べ物、消費期限が切れそうな牛乳や卵などが無造作に押し込められていた。それらをかき分けるようにして酒のつまみになりそうなものを取りだす。

 食材を切るためにシンク下の扉を開けて、包丁を取り出し……取り出して――

 …………

「おい、さっさと手を動かせっ」

「……っ。すみません」

 はっと我に返り、まな板の上に食材を乗せて切っていく。

 が、食材をうまく掴めない。背後に切り裂かれそうなほどの視線を感じて、手がマヒしていく。

 手を調理台に押さえつけでもしないと、震えが止まってくれない。

 早く作らないと。早く作らないと――

 落ち着かせようと深呼吸をしても、呼吸すら震えて深く息を吸い込めない。

 とんとんとん、と、机をたたく音が背後から聞こえる。その心臓よりも少し早い音が、僕の心を焦らせる。

 落ち着こうとして目をつむっても。

「はぁーっ」

 という攻撃的なため息に、僕はばれたのかと思ってしまってすぐに目を開いた。

 と、不意に机をたたく音が消え、しーんとした空気が流れる。

「父親に作るものだから適当でもいいって思ってんだろ」

「っ。い、いえ、そんなことは」

「万年ヒラ社員の、歳だけとった老害は邪魔だって言いたいんだろ」

 静かに椅子を引き、ゆっくりと立ち上がりこちらを睨みつけてくる。その視線に僕は、壁に両手両足を釘で突き刺されたみたいに動けなくなってしまった。

「俺だって頑張ってんだよ! 頭なんて下げたくないんだよ! 自分よりも年下の奴の靴なんか見たくないんだよ!」

 動けなくなった僕へ、父親は唾をまき散らしながら向かってくる。

「大丈夫ですよー。誰にでも失敗はありますから、次頑張りましょう。……だと? 何様のつもりだ!? お前のミスは誰がカバーしてると思ってんだ!?」

 机の上にあったティッシュの箱を薙ぎ払い、罵声と物音が部屋全体に響きわたる。

「心の中では嗤ってんだろ? 経験だけが取り柄の老害がミスするとか、もう救えないって! 傍でキーボード叩いてるやつも内心では、また怒られてるって嗤ってるんだ。そいつらもどーせ仕事なんてしないでSNS投稿してんだよ。また年上の部下が年下の上司に怒られてるって投稿していいね稼いでんだよ畜生!」

 感情に身を任せたように机をひっくり返す。脳に響くような硬質な音に、耐え切れずぎゅっと目をつぶった。

「それも全部誰のせいだ? ほら言ってみろ? ん?」

 生暖かい息が顔にかかり、おそるおそる目を開けると、父親の顔が眼前に迫っていた。

 剃り残しの多い髭と、手入れもしていないようなカサカサの皮膚が、嫌に目に残った。

「えと……じょうし――」

「違うだろ!? ほんと物覚えが悪いなっ! お前が邪魔したんだ! せっかく愛情込めて育ててやったのに、お前はそれを仇で返しやがったんだ! あ!?」

「す……すみません……」

「あの時お前が熱なんて出さなきゃ、こんなことにはならなかったんだ! あの日から一気に人生が変わった! 折角の商談がパーだ! お前のせいでっ! お前のせいでっ!」

「ん……っ。うぅ……うぅぅ……」

 襟首を掴まれ、足がぷらぷらと虚空に揺れる。

 首を吊るのはこれほどまでに苦しいものだったのか。

 うまく息が吸い込めない。微かに開いた通り道では、酸素をうまく取り込めない。

 息を求めて脳は体に信号を送るが、肝心の体は全く言うことを聞いてくれない。

 恐怖にこわばっているのか、それとも動けないほどに酸素が不足しているのか。分からないまま意識を失――

 直前、急に引き寄せられると、全身をぎゅっと包み込まれた。

 解放されて僕は狂ったように酸素を取り込む。何回にも分けて酸素を肺に入れると、全身の感覚が元に戻ってくる。

 他者のぬくもり。じんわりと温かな父親の体温が、僕の全身を包んでいた。

「あぁ。あぁ、ごめんよ太助。俺はお前を愛しているんだ。こんなことをするつもりじゃ……ただ、少し周囲の環境に恵まれていなくて、それで少しだけイライラしてしまっただけなんだ。こんな父親を許してくれ……」

 鼻をすする音とともに、乱暴に頭を撫でつけられる。

 そのたびに締め付けられていた喉が痺れ、次第にじんじんと熱を持ち始めた。

 それを感じた瞬間、喉の熱がぶわっと広がっていく。しかし父親に包み込まれているため、その熱を放出することができない。それどころか、父親の肌のぬくもりが喉のそれと同じに思えてくる。

 熱い……熱い……熱い……

 身じろぎしても、父親のがっしりとした体に、僕の細い体で抵抗できるはずもなく。

 肩やひじ、体の関節が熱で溶かされてしまうのではないかというような熱さに、抵抗しようとどうにか動かせる手や首を外へ伸ばし――

 不意に父親の、背に回っていた左手が、頭を撫でつけていた右手が、締め付けを緩めた。

「おい、なんで逃げようとするんだ? 家族の時間だろう? 何を逃げる必要があるんだ。……ああ、そうか。結局お前もそっち側の人間なんだな。俺を陰で笑って、おちぶれた救えないやつだって思ってるんだろ。はぁ。せっかく愛してやろうと歩み寄ったのにこのざまかよ。どうして世界は俺に厳しいんだっ? なんでどいつもこいつも俺の邪魔ばかりしてくるんだっ!?」

 急に胸に痛みと衝撃を感じ突き飛ばされたかと思うと、ゴンと腰に痛みを感じた。後ろで食材が転がっていく音が聞こえる。

「俺が何をした? 俺はただ毎日を生きているだけなのに、どうして皆俺の足を引っ張るんだ!? どうして誰も俺を認めないんだ!?」

 父親はずかずかと迫り、僕の喉へと再度手を伸ばし――たかと思ったが、首の横を通り過ぎて僕の背後に手を伸ばした。

「そうだ、子育てだ。最近は父親も育児に参加するそうじゃないか。うまくしつければ、俺は社会の最先端を行っていることになるだろ。ひひひっ」

 父親の手に握られていたのは、包丁だった。

 場違いなほど照明を煌びやかに反射させ、食材を切っていたため刃先に残りがついていて、僅かに湿った刃物。

 それに目を奪われていると急に掌で顔を掴まれ、ぐぐっと後ろに押し付けられてのけぞるような形で調理台の上へと乗せられる。

 父親の体でさらに調理台に押し付けられると、顔を締め付けていた手を離し、僕の右手首を力強く掴んだ。

 骨が軋むような痛みに耐える暇もなく、まな板の上に叩きつけられる。

「ぁぁっ……うぁぁぁっ……」

 いたいのはいやだ。

「悪いのはお前なんだぞ? ちゃんと親の言うことは聞かないとな。俺もこんなことしたくない。けど、育児参加しないとだからな。ひっ、ひひひっ」

 ぎょろっとひん剥かれた目が俺の手を捉えたかと思うと、包丁が振りかぶられる。僕はただ呻くことしかできなくて。

「ぁぁ……ぁあぅぁぅ……」

 いたいのは……いたいのは……もう……

 と、刃先が白いもやに覆いつくされ――

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