第2話 烏の羽は虚空へと

 教室の下。僕と茉桜は背の低い植木が生い茂っている所をガサガサと探していた。

「あの……あとは僕が探しますから」

「二人の方が早いでしょ? ……それにしても、あれ以来とらなくなったわね。満点」

「……あれはたまたまで……」

「……たまたま……ね」

 本当にたまたまだ。ただ、運が悪い出来事が重なって起こってしまった不運な事故。

 テストを受けている時に寝てしまい、起きたら残り10分しかなかったので焦って全て回答してしまったのだ。

「中学の1年生か2年生くらいまでは優秀だったじゃない」

「……よく知ってますね」

「……ええ。学校一緒だったからね」

「そうでしたか……」

「まあいいわ。で、本当のところはどうなの?」

「……あれは本当にたまたまです。……一般的な頭ですよ」

 ぐいと覗き込んだ茉桜の視線から逃れるように、顔を草むらに向ける。

「へえ。じゃあ、問題」

「……問題……ですか?」

「うん。私、あなたほどじゃないけど頭はいいから」

「……僕は一般的で……」

「本当に一般的か確かめさせてもらうわ」

 茉桜は植木と道路の境となっているコンクリートに座り込むと、問題を考えているのか人差し指を天に立ててくるくると回す。

「江戸時代の一代目将軍は――分かるわよね。じゃあ、二代目は?」

「……秀忠です」

「正解。じゃあ、三代目は?」

「……わからないです」

「む……さっきよりは簡単だと思うんだけど。正解は家光よ」

「……そうですか」

 どこか訝しげに、瞳を薄めてこちらを見る茉桜。

「……四代目は?」

「徳川家綱です」

「……」

 答えると、茉桜は腕を組んでうーんと唸る。

「じゃあ、五代目は?」

「……わからないです」

「…………ねえ」

「……はい」

 じとっとした目でこちらを見る茉桜。

「あなた、交互に答えてるでしょ」

「……たまたまですよ」

「普通、順番に覚えるものじゃない?」

「……えっと、僕は偶数が好きなので、偶数で覚えているんですよ」

「嘘。そんな変な覚え方しないわよ。じゃあ一代目は言える?」

 一代目は分かると茉桜は言っていた。

「徳川家康です」

「そうよね。有名だものね。じゃあ、どうして同じくらい有名な、五代目の綱吉は覚えていないの?」

「……有名……なんですか……」

「生類憐れみの令。知ってるでしょ? 四代目なんて、授業で取り扱っていないじゃない。私だって、何をした人かわからないわよ」

「そうですか……」

「本当は、全部知っているんじゃないの?」

「いえ……」

 続けてじっと注がれる視線に、僕は顔を横に向けた。

 と、どこからかガヤガヤとした話し声が聞こえてくる。

「あの本、もう見つけたかな」

「落ちたときにガサガサって音がしたから、茂みの中に隠れてるでしょ。見つかんないって」

「っ……!」

 息を飲むような音が僕の側、茉桜から聞こえてくる。

「もう行かないと。探してあげられなくてごめんなさい」

 そう早口でまくしたてると、茉桜は昇降口とは反対側へと走っていく。姿が校舎の影に隠れると同時に、昇降口からぞろぞろと人が流れてくる。

 その一人、ウェーブのかかった茶髪の女生徒が僕を見つけると。

「何ボーッとしちゃってんの? 諦めたの?」

「……いえ」

「ほら、早く見つけないと雨が降ってくるかもしれないよ?」

「……はい」

 僕が生徒たちに背を向け茂みに向かうと。

「おおっと、ここに誰かの鍵が……」

「さて、誰のだろうなぁ」

 カチャカチャと音を鳴らす人たちを背に、僕はガサガサと茂みをかき分け――

「おいっ! 無視すんなよ」

 ぐいっと肩を引かれ、僕はそちらを見ると、鍵を左右に揺らす男子生徒が。その側で、ポケットに手を入れてニヤッと笑う、背の高い男子生徒が口を開いた。

「この鍵、誰のだ?」

「……えと、僕のです」

「返してほしいか?」

「…………」

 この鍵がないと、親に用意してもらわないといけなくなる。そう考えると、僕の肌に白いものが駆け上がっていく感覚を覚えた。

 家にも帰れなくなってしまうし。

「……はい」

「じゃ、渡してやるからこっち来い」

 僕は花壇のコンクリートを跨ぎそれを受け取ろうと――

「ほれ、取ってこい!」

 手が鍵をつかむ前に、鍵が男子生徒によって背後へ投げられる。

 僅かにガサという音が背後に聞こえ、僕はそれを追うために再度振り返った。

 コンクリートを跨ぐ中、男子生徒の腹に響くような低い嗤い声と、耳につんざくような高い女生徒の見下したような笑い声を背に受けていた。

「ほら、もっと奥の……方だっ!」

 声と共に、腰に衝撃を受け僕は前へとつんのめり、先の尖った枝が眼前に迫る。

 僕はとっさに腕で顔を守ると、直後に腕に鋭い痛みが襲う。

「だっさ……!」

 その女生徒の低い声を皮切りに、またしても笑い声がこの空間を覆い包み込む。

 と、不意に背中を引っ張られ浮遊感に心臓が不安定を感じる中、半回転させられる。

 胸ぐらを掴み顔をずいっと寄せた、背の高い顔の整った男子生徒は。

「お前……ただまぐれで満点を取ったとか、ふざけてんじゃねぇぞ。あれ以来手を抜きやがって……俺はある程度勉強に関しても天才だからわかんだよ。他人が勉強の才能を持っているかどうか。お前、授業で誰かが当てられて、答えを間違えたときに先生が正答言う前に顔をそらしてるだろ。つまり答えを知ってるってことだ。お前はその才能を隠して、裏で間違えたやつを笑ってんだろ? 俺が98点とか97点とか取るのを、程度が低いとか思って見下してんだろ?」

 細く開かれた瞳と、腹の底から漏らすような低い声に、僕は目をそらして呟く。

「……いえ」

「……ちっ……その、無関心みたいな面がムカつくんだよっ!」

 掴まれた胸ぐらを押され、背にチクチクとした痛みを受ける。が、男子生徒は押す手を緩めずゆっくりと僕を植木に押し付けていく。

 深く植木に押し付けられ、一本の幹が背に当たる。

 その幹は折れることなく、チクチクとした痛みは刺すような痛みに変わっていき。

「……うっ……」

「はははっ! そうだよ、もっと顔を歪めろっ! お前の、何されても無表情な顔が嫌いなんだよっ!」

「…………ぃたっ……」

 刺すような痛みが、だんだんと熱を持って――

「ね、ねえ……腕に……血が……や、やめた方が、いいんじゃない?」

「ああっ!?」

「ひっ……! ほら、問題になったら面倒でしょ? こんなやつのために退学とか停学とか、おかしいし」

「……っ。つまらねぇ」

 男子生徒がつかんだ胸ぐらを手放すと、僕はガサガサと植木の中に落ちていった。

 ふと、僕の腕に浮かんだ赤いものが目に入る。

 その赤い雫は、重力に引かれて腕を伝っていく。

「……そろそろ授業か。戻ろうぜ」

「う……うん。あの、さっきは別に佐藤くんのことを邪魔しようとか……」

「ああ、分かってる。俺もちょっと頭に血が上ってたから、止めてくれて助かった」

 足音が遠ざかっていく音を聞きながら、その雫が地面へと落ちて――

「…………っ…………!」

 また。もやが頭を覆い締め付け、重力を失った体がふわりと浮かぶ歪な感覚。視界は真っ白に埋め尽くされ、前後の感覚すら失う。

 体に触れていた草木の感覚がなくなり、外界との接点を断とうとする。

 しかし、それと同時に、腕や背に感じていた熱い痛みも薄れていく。

 案外、この現象は悪いものではないのかもしれない。

 僕はそのもやに、ふわふわとした感覚に、体を委ねていく。

 視界を覆い尽くした真っ白なもやは、その侵食を伸ばしていき――




「……ここ……は?」

 視界に入り込んできたのは、白だった。真っ白な天井に、真っ白なカーテン。 

 そして真っ白な毛布を退けて起き上がると。

「……っ」

 背に小さいが鋭い痛みを感じ、視界をそちらに向けようとした。その前に腕に包帯が巻かれていることに気づく。

 また傷がついた。これから数日は新しい傷をかばいながら過ごすのだろうが、きっとそれも習慣となっていくのだろう。

 と、机に一冊の本と鍵が置いてあるのに気がつく。

「……これは、図書館の本……どうして……?」

 呟き鍵にカチャリと触れると、僅かに土埃を感じた。

「あ、起きた?」

 と、カーテン越しに誰かの声が聞こえ、シャーっとカーテンが開かれる。

 パステルカラーの毛糸で編まれた服を見にまとった先生らしき女性が現れ。

「あなた、ある女子生徒に運び込まれたんですよ? 誰かってのは秘密にしてって言われているから言わないけど。ふふっ。青春してますね。……それはそれとして、保健の先生として言わせてもらいますけど、私どころかその女子生徒にも背負えちゃうくらい軽いですよ。もっと食べた方がいい」

 僕は礼とも頷きともとれるように頭を下げる。もっと食べたいのはやまやまなんだけど。

「その本と鍵も、あなたを運び込んだあとにその女子生徒が持ってきたんです。まだ体調が優れないようなら、寝てるか本でも読んでいてください。先生はちょっと職員室に寄ってきますので」

 そういうとシャーっとカーテンを閉め、この部屋を出ていった。

 空調が低い音を鳴らしている中、僕は本を手に取った。



 チャイムが鳴りしばらくして、保健室の外が騒がしくなる。バッグが擦れる音や、吹奏楽部のスネアドラムを叩く音が聞こえてきた。

 僕は帰ろうかと栞を本に挟んだが、このまま外に出るとクラスメイトと出くわしてしまう。そう考え、栞を再度取り読み始めた。

 やがて校庭に規則正しい足音や掛け声、管楽器の音が学校内を包み込み、僕は栞を挟んだ。

 僕はカーテンを開けると、こちらに顔を向けた先生に。

「……ありがとうございました」

「もう体調は良くなった?」

「えっと……はい、お陰さまで……」 

「そうだ、あなたを連れてきた子なんだけどね。秘密って言われてたけど――」

 と、先生の言葉を遮るように、がらがらと扉が開かれ。

「先生。言わないでって言ったじゃないですか」

「ふふっ……ごめんなさい。でも、あなたがここに来たら意味ないですね」

「本当はそこの廊下でばったり、はっ。……何でもないです」

「あら、じゃああとはお二人でどうぞ」

「……さ、行きましょう」

 突然現れた女子生徒は、僕の手を引く。側に寄った彼女の頭には黒猫の髪止めがゆらりとゆれ、こちらをじっと見つめていた。

 保健室の扉を後ろ手に閉めると、キョロキョロと周囲を確認し手を離す。

「……あの、僕を運び込んでくれたのって、あなたですか?」

「え、ええ……まあ、そうよ」

「すみません、ありがとうございました」

「ううん。それよりも、その腕、大丈夫かしら?」

 彼女の視線を追うと、包帯が巻かれた僕の腕が。

「……特には……」

「さっきは急にいなくなってごめんなさい。ちょっと急用があって」 

「……?」

「用事が終わって君のところに戻ってきたら倒れてたから……ごめんなさい」

「……? ……まあ、そうですか……」

 それきり言葉が途切れ、窓の影が伸びるような斜陽が差し込み、吹奏楽部の放課後の音だけが流れる。

「えっと……すみません。時間を取らせてしまって。僕は帰ります」

「あっ……うん。そうよね…………ごめんなさい。私がいれば、怪我をしなくて済んだかもしれない……」

「……いえ、悪いのは勝手に倒れた僕ですから」

「…………それでも、ごめんなさい」

 ペコリと僕に頭を下げる彼女に、僕は少しだけ、ほんの少しだけ、ぎゅっと閉ざされていた心が緩んだような気がした。

 だから。僕は少し彼女に興味が湧いた。

「……頭を上げてください」

 おずおずと、申し訳なさそうに頭を上げる彼女に、僕は僅かの期待を込めて口を開いた。

「あの、名前を教えてもらってもいいですか? 助けてくれた人の、名前を――」

 僕は言葉を、彼女の顔を見て止めた。

 ああ……思えば、いつもそうだった。

 もしかしてと期待して、裏切られて、でもやっぱり期待してしまって。

 止めようと思えば思うほど、望んでしまう。

 彼女は僕を、信じられないとでも言うように開かれた目で見つめ、口をわなわなと震わせて。

 彼女はバッと背を向けて走り出した。

 角を曲がった時に僅かに残った、遊んだ烏羽色の髪の毛が、やけに脳裏に残った。

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