紙とインクと大人だった君

真木

紙とインクと大人だった君

 実家に帰っていつも思うのは、そろそろ掃除しなきゃなぁ、という自分への呆れ。

 実家の私の部屋は、壁一面の本棚を漫画が埋め尽くしている。電子書籍も普及したこの時代、紙とインクに固執する必要はないだろうにと思う。

「何読もっかな」

 でも毎年、片付けに着手する前に年末年始を漫画尽くしで過ごしてしまう。

 大人ってずるいの。そんなことを思ったとき、昔誰かがそんなことを言ったなと思った。

 小さな違和感を持ちながら、本棚に手を滑らせて一冊の漫画を手に取った。

 どうしてその漫画を手に取ったかは、気分としか言いようがない。他にお気に入りなんてたくさんあって、しかも長い間忘れていたような漫画だったから。

 それはもう何十年と連載している、古い少女漫画だった。私はそれを手に取ってページをめくる。

「……あのときの漫画か」

 古い漫画特有の湿っぽいページの匂いがあふれたとき、その本にまつわる苦い思い出が心に蘇っていた。




 私に漫画の趣味を与えてくれたのは、ふきちゃんと呼んでいた従姉だった。

 ふきちゃんは私より十歳年上で、大学に進学して一人暮らしを始めていた。子どもの頃の私は彼女の所蔵する大量の漫画を楽しみに、よく彼女のワンルームに入り浸った。

 漫画は小説の類よりインクの量が多いのか、いつもふきちゃんの部屋は古びた旅館のような匂いがしていた。

 ある日、私は何気なくふきちゃんにたずねた。

「ふきちゃん、大学を退学するんだって? ずるくない?」

 子どもの私には、学校をやめるという意味がわかっていなかった。そこに重大な事情があることなど、考えもしなかった。

 今思えばふきちゃんはとても優しい人で、おっとりと私に答えた。

「そうよぉ。大人ってずるいの」

「ずるーい。私も学校行きたくなーい」

 私はずるーいずるーいと繰り返して、ふきちゃんは笑いながら問いかけた。

「学校は嫌い?」

「楽しいこと少ないもん。いいよね、ふきちゃんは大人で」

 私はぶーたれながら言った。

「漫画だって、買うお金ないし」

「それだけど、好きなだけ漫画を持って行っていいよ」

「え?」

 私が問い返すと、ふきちゃんはうなずいて笑った。

「私、実家に帰ることになったから。こんなに漫画、持っていけないし」

「え、いいんだ?」

 現金にも喜色をあらわにする私に、ふきちゃんは呆れたりしなかった。

「うん。……これが小さな楽しいことになってくれれば、うれしいよ」

 ただどこかまぶしいような目で、ふきちゃんは私をみつめていた。

 ふきちゃんが病気だと知ったのは、漫画をたくさんもらって家に帰った、その後のことだった。



 ふきちゃんは入退院を繰り返して、それから二年が経った。

 私が中学校に上がった頃、ふきちゃんがもう長くないと聞いた。

 ふきちゃんの実家は遠かったから、その頃の私は小さい頃のようにふきちゃんの様子をよく知らなかった。けれど不穏な話に突き動かされるようにして、ある日私は一人でふきちゃんの入院する病院を訪ねた。

「……ふきちゃん」

 ベッドに横たわるふきちゃんは痛々しいくらいに痩せて、表情は何十年も年を取ったようだった。ちらと私を見た目も、以前のように微笑みにあふれてはいなかった。

「ありがとう。お見舞いに来てくれて」

 ふきちゃんはお礼を言ってくれたけど、私は震えてしばらく何も言えないでいた。

 長くないって、後どれくらい? そんな無遠慮な問いは、両親にさえ言えなかった。それくらいには、私は少し大人に近くなっていた。

「最近は、学校楽しい?」

 ふきちゃんの何気ない問いかけは、私の心に刺さった。他愛ない日常を送っている自分がふきちゃんの前に立っていていいのか、わからなかった。

 私は楽しいとも、楽しくないとも言えなかった。今は私の楽しみは、どうでもよかった。

「……何か買ってきてほしいものとかない?」

 私は押し殺したような声でふきちゃんにたずねた。

 ふきちゃんはベッドに身を沈めたまま、ううん、と細い声でつぶやく。

「ごめん……今は何にもできないんだ」

 私は思わず踵を返して、病室を飛び出していた。

 病院を出て、足早に書店に入った。漫画コーナーに入って、ふきちゃんが好きだった漫画を探した。

 お金なら、ちょっとはできた。いっぱい漫画をもらった分、いっぱい漫画を返してあげられればいい。

 でもそこに並んでいるのは、ふきちゃんがもう要らないと言ったものばかりだった。それにあんなに痩せて体力の落ちたふきちゃんでは、きっともう起き上がって漫画を読むことはできない。

 新しい漫画の立ち並ぶ本屋は、ふきちゃんの部屋のような紙とインクの匂いはしなかった。そこは無造作に本が置かれた、ただの箱の中だった。

 私は結局、ふきちゃんが昔くれた漫画の続きを丸ごと買った。

「こんなもの……買ったって、何ができるっていうの」

 でも私はそれを病院に持って行かなかった。ふきちゃんにも、もう一度会いに行くことができなかった。

 ふきちゃんは春が来る前に、永遠に私の届かないところに行ってしまったからだった。



 ふきちゃんの部屋を思いながら、今の私は紙とインクの匂いがこもった実家の自室で漫画を読む。

 きっとこれも小さな楽しみかなと、今は思う。

 あの日ふきちゃんに届けられなかった漫画は、長いこと休載していた。でも最近、続きが発売されたらしい。

 続きを読んでみようか。泣いちゃいそうな気もするけど、それだってふきちゃんの弔いの一つになればいい。

 大人ってずるいよね、ふきちゃん。……だから私、今年も漫画は片付けないよ。

 私は少しだけにじんだまなじりを拭った。毎年やって来る苦くて甘い気持ちを抱きしめながら、新しいページをめくった。

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紙とインクと大人だった君 真木 @narumi_mochiyama

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