【36:死闘】
――どこで間違った。俺はどこで。
恐怖と焦燥、そして後悔から来る嘔吐感に耐えながら、今は役に立たないあれこれがレフノールの頭の中を回る。
「隊長殿!」
レフノールを現実の側に引き戻したのは、凶相の曹長の大声だった。
しっかりしろと自分を叱り飛ばしたのだ、とレフノールは理解した。
「耳元で怒鳴るな、聞こえている」
顔をしかめて苦言を呈しながら、レフノールはベイラムの背を叩いた。
口には出せない感謝のしるしだった。
「ご命令を!」
その意味を理解したベイラムが、戦場のただなかで背筋を伸ばし、不敵な笑みを浮かべて言う。
「療兵、戦闘用意!
隊長が陣頭指揮を執る!」
半瞬に満たないほんのわずかな間だけ視線を交わしたレフノールが、後方へ向けて怒鳴った。
「曹長、ここは任せる。
コンラートとヴェロニカと協力して防御。櫓に上げた装填は下ろして防戦に参加させろ」
「はっ!」
まったく礼則のとおりに、ベイラムが踵を合わせて敬礼した。
「少尉、アーデライド、君らは後方だ! 悪いが俺に付き合ってもらう! 急げ!」
口々に了解の意を示した2人が駆け寄ってくる。
レフノールは黙って頷き、行くぞ、と親指で後方を指した。
もとよりそう広い場所ではない。走ればほんのわずかな間でしかなかった。
「隊長、あれを!」
監視に残した兵が、川面を指して叫んでいる。
見ると、狼騎兵が、もう川の半ばまで迫っていた。
その数は10以上。同時に突入されたならば、にわか仕立ての防御部隊など、知れ切った結末が待っているとしか思えなかった。
「槍構え! 入ってきた奴から片付ける!」
兵たちに号令するレフノールの傍らで、リディアがクロスボウを構えて引き金を引いた。
半瞬遅れて水音が響く。頭を射抜かれた魔狼が倒れ、水に落ちたコボルドがゆっくりと流されていった。
「――急げ!」
一瞬言葉を失った兵たちを叱るように、レフノールが声を張る。
「狼騎兵と1対1で戦おうなどと思うな!
囲んで動きを止めることを第一に考えろ!」
あっという間に川を渡り切った狼騎兵が、切り立った河岸を駆け上る。
北側よりも幾分低い、人の背丈ほどの防柵は、狼騎兵を防ぐ役には立たなかった。
駆け上った勢いのままに大きく跳躍した魔狼たちが柵の内側に着地すると同時に、乱戦が始まる。
5人を一組に槍を構えていた療兵たちは、普段の任とは真逆のことをしているにも関わらず勇敢だった。可能な限り相手を囲み、横や後ろから魔狼を突いて動きを止め、騎乗しているコボルドともども仕留めてゆく。
無論、すべてがうまくいくわけではない。
突進する魔狼の勢いに押されて囲みを破られることもあれば、コボルドの振り回す手斧を受けて怪我を負う者もいる。形勢が悪いところへはアーデライドが駆けつけて的確な援護をしてはいたものの、全ての穴を塞げているわけではない。
「隊長、こちらに!」
戦況を見守りながら兵に指示を飛ばしていたレフノールの耳を、こんなときでも澄んでよく通る声が打つ。背中合わせに立つリディアの声だった。
振り向いたレフノールの視線の先で、兵たちが苦境に陥っている。たまたま飛び込むタイミングが遅れたらしい狼騎兵2騎が、囲みの外側から兵を襲ったようだった。
「少尉、続け!」
短く命じて走り出したレフノールの後ろで、ほんの半瞬迷ったリディアがクロスボウのレバーを起こした。流れるような所作で太矢を取り出して留め金に挟み、片膝をついた膝射の姿勢でクロスボウを構える。
一呼吸で狙いを定め、引き金を絞った。
ばたばたと走るレフノールの耳元で、短く鋭く、風を切る音がした。向かう先で、太矢を受けたコボルドが、悲鳴も上げずに地面へと落ちる。コボルドを乗せていた魔狼も、それに引きずられるように大きく姿勢を崩した。
大きな隙を見せた魔狼に、身体ごとぶつかるような勢いで、レフノールが剣を突き込む。
脇腹のあたりに剣が刺さったのは、ほとんど偶然と言ってよい。苦痛に身をよじった魔狼の動きと、武器を手放すまいと剣を握りしめて体重をかけたレフノールの動きが、結果として魔狼の腹を大きく切り裂いた。生暖かい液体と、生存のために必要ないくつかの器官が腹からこぼれ、口から血を吐いた魔狼が倒れて動かなくなる。
おびただしい量の返り血を浴びて顔をしかめたレフノールの眼前に、手斧を振り上げた狼騎兵の姿があった。
反射的に腕を上げたレフノールの耳を、激しい金属音が打つ。
「隊長!」
手斧の一撃を、間に割り込んだリディアが、剣でどうにか受け流していた。
助かった、というレフノールの安堵を、別の恐怖が上書きするように塗り潰す。
リディアはただひとりで狼騎兵と対峙していた。
くそ、と心の中で何かを罵りながら、レフノールは剣を握りなおした。
王都でも名の知れた工房で鍛えられたそれは、無茶な使い方をしたにもかかわらず折れず曲がらず、それどころか刃こぼれひとつしていなかった。贈ってくれた父に感謝しながら立ち上がる。
防戦一方のリディアを助けるべく、斜め後ろに回って剣を振る。コボルドの注意がレフノールに向いた隙に、リディアが体勢を立て直した。
そこへ、別の場所で狼騎兵を片付けたらしい兵が駆け寄ってきて参戦した。
「――隊長!」
ふ、と息をついたリディアが、レフノールに顔を向けた。
視線を合わせたレフノールの視界に、リディアの背後から飛びかかる別の魔狼の姿が見えた。
何を考える間もなく踏み込んで、リディアを押しのける。
必然的に、レフノールは、リディアと入れ替わるような形で、つい一瞬前まで彼女がいた場所に割り込んでいた。
「え」
押しのけられながらレフノールを見た藍色の目が、驚きに見開かれた。
「あ」
レフノールの左腕が、強い力で捉えられる。魔狼の牙が、上下から腕を挟みこんでいた。
「お?」
そのまま強い力で腕ごとぐんと振り回された。肩と肘のあたりでごきりと嫌な音がして、激しい痛みが走る。急に振り回す力が抜け、浮遊感がレフノールを捕える。放り出された、と理解して、レフノールは腕で頭を庇おうとした。左腕は思うように動かず、ただ痛みだけがある。
「ぐぇ」
中途半端な体勢のまま、レフノールは背中から地面に叩きつけられた。衝撃とともに肺の中の息が吐き出され、喉のあたりで奇妙な声になる。不幸中の幸いと言うべきか、投げられた距離も高さもさほどのものではなかったらしい。呻きながら上体を起こすと、聞き慣れた声が聞き慣れない怒声を上げていた。
「貴っ様ああああああああああああ!!」
リディアが魔狼に斬りかかっていた。レフノールから見ても明らかに冷静さを失っている。あの朝、小さな裏庭で見た流麗さはなく、細身であるのに力任せの剣筋だった。
落ち着け、と叫ぼうとしたが声が出ない。そもそも地面に叩きつけられた衝撃と痛みで、呼吸すらまともにはできていなかった。
押していたリディアが攻撃をいなされて体勢を崩す。その足を狙って魔狼の口が開き――横合いから振るわれた剣が、頭蓋ごとその口を叩き割った。
「ここはこいつで最後だよ、中尉」
癖の強い赤毛が揺れている。アーデライドだった。
まだ声の出せないレフノールが頷いて、北の門のほうを手で示す。
「人遣いが荒いことだね」
にやりと笑って頷くと、アーデライドはそのまま走り去った。
「た、隊長――療兵! 早く!」
代わって駆け寄ってきたリディアが叫ぶ。なぜそこまで慌てるのかと自分の身体を確かめて、レフノールは深く納得した。間近で魔狼の血を浴びた身体は血まみれで、手といい足といい血のついていない箇所はほとんどない。魔狼に咬まれて重傷と見えるのだろう。
走ってきた療兵の軍曹に、ようやく出せるようになった声で、俺はいい、と応じる。
「返り血だ。そこまでの怪我じゃない。
俺は後回しでいいから、怪我の酷い奴から順に診ろ。
あとあの神官、リオンに言ってな、できるようなら奇跡で助けられそうな奴を何とかしてもらえ」
は、と敬礼した軍曹が走り去った。
「――隊長」
血の気の失せた、どこか引き攣ったような顔のリディアが、レフノールの傍らに屈みこむ。
そうか彼女は初陣だったよな、と、レフノールは今更のように思い出した。
「死ぬような怪我じゃないよ、少尉」
「あの」
「おかげで助かった。だがな、少尉、悪いが君にはまだ仕事がある」
リディアの口許が引き結ばれる。
「このざまじゃ陣頭指揮は無理だ。
隊長が指揮を執れなくなったならば、少尉?」
ぎ、と奥歯を噛みしめた音が、聞こえたような気がした。
「メイオール少尉、隊長に代わって防戦の指揮を執ります!」
立ち上がり、背筋を伸ばしたリディアが宣言した。
うん、とレフノールが頷く。
「まずこっちが片付いたことを知らせてやれ。
後ろの心配がなくなれば安心して戦えるだろう。
それと、現場の細かい差配は曹長に任せておいていい。
君は全体を見て、足りない部分をどう補うか考えろ」
できるな、と念を押すように頷いてみせる。
「はい!」
駆け去るリディアを見送って、レフノールは深く息をついた。
左腕と背中がひどく痛い。鼻が慣れてしまったのか、全身に浴びた血の臭いはもう感じなかった。周囲からすれば血臭の塊のようになっているはずだ。
「――いい加減休みてえよな、畜生」
自分以外の誰にも聞こえない声で吐き捨てるように呟いて、だが、レフノールはまだ休むわけにはいかなかった。
右手を支えに立ち上がり、周囲を見回す。戦場の喧騒が、少しずつ引き始めていた。
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