【37:戦の始末】

 北側の防柵へ小走りで駆け寄ろうとしたレフノールは、3歩目で足を止めた。足から肩に伝わる振動が、耐え難い痛みを呼び起こしていた。そろそろとした歩調に切り替えて2歩進み、そこから耐えられるぎりぎりまで歩調を上げる。なるべく足を上げない奇妙な早足が、苦痛と速度の妥協点になった。


「中尉」


 防柵の前線からは少し離れた場所にいたコンラートが、レフノールの姿を認めた。

 防柵では兵たちが槍を構えてはいるものの、戦闘が続いている様子はない。


「引き上げたのか?」


「ホブゴブリンの群れを射撃と魔力矢マナ・ボルトで倒したのを機に。

 つい先ほど、生き残った連中が射程外に出ました」


 杖を握り、うっすらと笑みを浮かべたコンラートが応じる。


「ゴーレムは片方が破壊、私の魔力ももう品切れです」


 付け加えた言葉に、レフノールは思わず魔術師の顔を見上げた。


「もう奴らが来ないことでも祈っておいてください」


「――そう願おう」


「まあ、あちらはあちらで切り札を出して失敗したはずです。

 自暴自棄になってもう一勝負、ということでなければ――」


「連中、撤収してくよ!」


 櫓の上から、ヴェロニカの声が割り込んだ。

 半瞬遅れて、防柵に並んだ兵たちの間から歓声が上がる。

 歓声はそのまま、拠点全体に広がっていった。


「いい仕事だった、コンラート。

 追加報酬は弾むよ」


 その様子を確かめてひとつ息をついたレフノールが言う。


「できるだけ?」


「できるだけ」


 にやりと笑ったコンラートに、レフノールも笑って頷き返した。


「だがまあ、報酬の話はもう少し後だな。

 ここの始末をつけにゃならん」


 損害を把握し、必要な手当をして、次の襲撃に備える。

 逃げ損ねた妖魔どもを片付け、兵たちを休ませて、一通りのことが済んだならばまた次の仕事が待っている。


「ご苦労なことですね」


 笑みを含んだ口調でコンラートが言った。


「君らも早めに休んでおいてくれ。

 もし次があれば、また働いてもらうことになる」


「そうさせてもらいましょう――アデール!」


 歩み寄ってきた赤毛の女戦士の名を呼んで、コンラートは片手を上げた。

 笑みを浮かべたアーデライドが同じように片手を上げて手を打ち合わせる。

 ぱん、と乾いた音が響いた。


「コンラート、怪我は?」


「ありませんよ。アデールも……大丈夫そうですね。

 中尉が休んでおけと」


 ん、と頷いたアーデライドが、櫓の上へ視線を向けた。


「ヴェロニカ!」


 はあい、と振り返ったヴェロニカが手を振ってみせる。


「降りといで、休むよ」


 するすると櫓から降りてきたヴェロニカがまず気にしたのは、仲間のことだった。


「リオンは? 無事?」


「無事だよ。

 しばらくは手が空かないだろうとは思うが」


 答えたレフノールに、そう、とヴェロニカが頷く。

 なぜか心配そうな表情だったのが、レフノールの心に引っ掛かった。


「聞いたとおりだ。しばらくは休んでいてくれ。

 何もないことを祈ってるが、万が一何かあったら呼ぶ」


 わかった、と答えた冒険者たちは、天幕のある一画へ足を向けた。

 その背中を見送る間もなく、レフノールは門の方へと向かう。


 ひとつの難題はとりあえずのところ片付いた。しかし、それは仕事の終わりを意味しない。

 レフノールにとってはむしろ、戦いの前と後こそが本来の仕事の時間なのだった。


※ ※ ※ ※ ※


 門の傍らまで来ると、ベイラムが姿勢を正して出迎えた。

 手には槍がある。兵たちを叱咤しながら、自らも槍を振るって戦闘に加わっていたに違いなかった。


「ご苦労」


 短く労ったレフノールに、先任下士官は黙ったままにやりと笑って敬礼した。


「少尉は?」


「あちらに。ご無事です」


 つい、と視線だけを向けてベイラムが応じる。

 その視線の先で、銀髪の少尉が、無事を喜び合う兵たちを少し引いた位置から眺めていた。


「曹長、被害を取りまとめてくれ。

 それから、怪我をしていない連中は最低限の見張りを残して休ませろ。

 怪我人は療兵のところへ運んでやれ」


「はっ」


 ベイラムが敬礼で答え、早速配下の兵を呼んで仕事にかかる。

 レフノールは曹長に背を向けて、少尉のもとへ足を向けた。


「少尉」


 レフノールの声に振り向いたリディアが、剣を立てて敬礼した。


「無事そうだな。何よりだ」


 少なからず安堵したレフノールの言葉に、リディアがこわばった笑みを浮かべる。


「――あの」


 その視線が、手許に――剣を握ったままの手に落ちた。


「離れないのです。手が」


 ああ、とレフノールが頷く。

 力を入れすぎて強張った指が、柄を握ったまま離れなくなっているのだった。


「こう、掌の側を上にして――そう」


 素直に差し出されたリディアの右手の指の、形のよい爪が白くなっている。


「怪我はないか?」


 小指から順に強張った指を一本ずつ剥がしながら、レフノールが尋ねる。

 細い指を剥がすのに、意外なほどの力が必要だった。


「――ありません」


 そうか、と呟くように応じたあたりで人差し指が柄から剥がれた。

 落ちそうになった剣の柄を右手で掴み、リディアに差し出す。


 黙ったまま剣を受け取ったリディアの目を、レフノールは正面から見つめた。


「指揮の代行、ご苦労だった。

 報告しろ、少尉」


 まだ少し震えている手で剣を鞘に戻し、リディアは、ふ、と息をついて顔を上げた。


「メイオール少尉はご命令のとおり、北側正面の防御戦闘を行いました。

 損害は重傷5名、軽傷12名。敵の攻撃は撃退しました」


「ご苦労だった、少尉。

 ――よくやった」


「――はい」


 背筋を伸ばして敬礼する銀髪の少尉の様子を見て、レフノールは休ませるべきだ、と思った。

 だが、状況がそれを許してはくれない。将校は2人だけで、もう片方の自分は負傷している。


「少尉、君に四半刻の休息を命じる」


「隊長は」


「俺はこいつを、」


 己の左肩を指しながら、レフノールは応じた。


「療兵に何とかしてもらおう。

 四半刻経ったらまたここで。ここをどうにか」


 言葉を切って、周囲を見回す。

 ところどころ破損した防柵と門。工兵にも療兵にも負傷者が数多い。

 妖魔どもの損害はそれをはるかに上回る。

 ざっと見ただけでも100内外の遺骸が、そこここに転がったままになっていた。


「片付けねばならん」


※ ※ ※ ※ ※


 療兵はレフノールを手早く手当してくれた。

 とはいえ、すぐに治るような傷ではない。


「肩の関節と肘の筋を傷めておられますな」


 大きな布と当て木がわりの短剣を使って左腕を首から吊るような形で固定した療兵は、レフノールの怪我をそう評した。


「魔狼の大牙はそのチェインメイルで止まっておりました」


 苦労してどうにか脱いだチェインメイルを指して、療兵が言う。

 牙がまともに刺さったままの状態で振り回されていたら、そこから腕がちぎれていても不思議はない。

 そうなっていればもう死んでいるか、命は助かっていても片腕を失って退役、ということになる。

 案外紙一重のところに死がある、と改めて実感して顔をしかめたレフノールに構わず、療兵は立ち上がった。


「一月ばかりそうしておられたなら治るでしょう。

 それまではなるべく動かさぬように願います」


※ ※ ※ ※ ※


 レフノールが周囲を見回すと、ベイラムが療兵の下士官と何やら話をしていた。

 会話が畳まれるのを待ってベイラムを手招きする。


「こっちの被害はどうだ、曹長?」


 走り寄ってきたベイラムに、低い声で尋ねた。

 レフノールも、あまり芳しくない状況、ということは理解している。


「戦死2、重傷が6、軽傷が10ですな。

 北側が戦死1、重傷4、軽傷12。重傷者には命が危うい者も幾人か」


 ベイラムの報告に、レフノールは顔をしかめた。

 半数近くが何がしかの傷を負い、すぐには戦闘に復帰できない者も片手では足りない。戦死者も出ている。


「――そんなに死なせたか」


 部下から戦死者を出すのはやはり慣れない、とレフノールはため息をついた。


「概数300以上が相手です。隊長殿の備えがあったからこそ、かと」


「そうであればいいが」


 そうであっても、幾人もの戦死者を出したことに変わりはない。

 だが、大半を生き残らせたことも事実ではあった。物事の負の側面だけを眺めていては、いずれ心が壊れてしまう、ということもレフノールは知っている。


「戦死と重傷が合わせて13、軽傷が22か」


 あとで報告書をまとめなければ、と思いながらレフノールが言った。


「合わせて14です、隊長殿」


「……数が合わんぞ」


 眉根を寄せたレフノールに、ベイラムが苦笑してレフノールの左肩を指した。


「14人目はあなたですよ、隊長殿」


「あ」


 王国軍の決まりでは、「そのままでは戦闘に堪え得ない負傷者」を重傷者と数える。

 左腕を吊って全治一月のレフノールは、立派な重傷者ということになるのだった。


「部下第一、任務第一も結構ですが、もう少しご自身を労わっていただかねば」


 意外と言えば意外な苦言ではあった。


「貴官からそういう説教をされようとはな、曹長」


「迂闊に死んでいただいては下士官や兵が困るのですよ、隊長殿。

 特に、あなたのような将校ならば尚更。よろしいですな?」


 レフノールの口許が緩む。歴戦の下士官の尊敬と気遣いは、指揮官ならば誰もが求めてやまないもので、自分が今まさにそれを得られたと知ったからだった。


「心に刻もう、曹長」


 にやりと笑ってベイラムに言ったあとで、表情と口調を改める。


「兵はもう四半刻休ませろ。貴官はこれから小半刻休め。

 あとで兵を出して、あの死骸を片付けさせる。適当な場所を見繕って穴を掘らねば。

 コンラートのゴーレムを貸して貰えるよう、俺から話をしておく。

 工兵と輜重から動ける者を出して作業に当たらせろ」


「はっ」


「細かい部分は任せる」


「了解いたしました、隊長殿!」


※ ※ ※ ※ ※


 レフノールが重傷者の集められているという場所に出向くと、屈んでいたリオンがふらりと立ち上がった。整った顔が強張っている。レフノールが今まで見たことのない表情だった。


「水を少々、それと清潔な布をいただけますか」


 低くかすれた声でリオンが言った。その視線はレフノールを捉えていない。視線の先に、3人の重傷者が横たわっている。


 腕と足を途中から失った者がひとりずつ、腹に大きな傷を負った者がひとり。

 3人とも既に血を失いすぎているのだろう、呼吸をしてはいてもそれは弱々しいものでしかない。目を閉じたまま横たわる者もいれば、意思が感じられないうつろな目で宙を見ている者もいる。


 どう見ても、助かる見込みがあるようには思えなかった。


「――助けられる限りは、助けたのですが」


 リオンが言う。血を吐くような声だった。


 魔力も治癒能力も、無限ではない。己の魔力と力量、そして負傷の程度を鑑みて、奇跡を行使する対象を決めたに違いなかった。結果、奇跡によって命を取りとめた重傷者がいて、今そこで横たわり死を待つ者がいる。


 レフノールは理解した。リオンはその両者の間に、自ら線を引かねばならなかったのだ。


「すぐに用意させる」


 短く答えたレフノールは兵を手招きして、手短に用件を告げた。敬礼した兵が走り去る。

 寸刻後の死の運命が定まった者に、神官ができることはひとつしかない。

 リオンは生きる者と死ぬ者の間に線を引き、生きる者を助け、死ぬ者を送ろうとしている。


「他に俺にできることはあるか?」


 ちらりとレフノールを見やったリオンが、小さく笑った。


「一緒に声をかけてあげてください。

 周囲の声は、最後まで聞こえているといいます」


 わかった、と頷いたレフノールは、腹を抉られた兵のもとへ歩み寄った。

 ひざまずき、力なく投げ出された手を胸の上で組ませ、その上に己の右手を乗せる。

 口を開きかけて、レフノールは何を話すべきかわからなくなった。


 空虚な言葉で送りたくはなかったし、しっかりしろなどと気休めにすらならないことも言えない。

 考えている時間もなかった。目の前の兵にはもう、小半刻の時間すら、たぶん残されていない。


「よく――よく、やってくれた。

 君のおかげで、君と槍を並べた戦友は救われた」


 乱戦の中で誰が死に、誰が傷付き、誰が助かるかというのは、ほとんど運でしかない。

 この兵でなければ別の誰かが同じような傷を負っていたかもしれないし、それは自分だったかもしれない。そう思いながら、レフノールは言葉を繋ぐ。


「俺も、本隊の連中も、君や君の仲間に救われた。

 君を助けることができなくて済まないが――」


 唐突に、ラーゼンにいた老司祭の言葉が思い出された。


『守られて残された者が戦って命を落とした方々に対してできることはふたつしかありません』


 あの村にいた品のいい老司祭は、たしかにそう言っていた。


『祈ること、忘れないこと。そのふたつだけです』


「――今は、君のために祈らせてくれ。君と、君の仲間のことは忘れない。

 少なくとも、俺が死ぬまでの間は」


 リオンが、水を含ませた布で兵の唇をそっと湿らせた。


「慈悲深き天の父よ、どうかあなたのお導きを、あなたの子にお授けくださいますように。

 慈愛あまねき大地の母よ、どうかあなたのお許しを、あなたの子に――」


 臨終の祈りが始まる。

 声量は決して大きくはないが、不思議とよく通る声だった。


※ ※ ※ ※ ※


 小半刻ほどで全てが済んだあと、リオンは何も言わずに立ち上がり、人のいない方へと歩いていった。

 レフノールは声をかけられずに見送った。


「リオンはさ」


 唐突に後ろから聞こえた声に、レフノールはびくりと振り返る。

 ヴェロニカだった。


「こういうときはいつもああなるんだ。リオンのせいじゃないんだけどね」


 リオンの責任ではない。この場を指揮した自分の、あるいはこの状況を招いた大佐の責任だ。

 だがそうは言っても、自分で線を引いてしまったという事実は消えない。

 リオンは、その事実に打ちのめされているに違いなかった。


「そう毎度というような話でもないだろう?」


「そうね、これで3回目。

 アデールやコンラートは割り切ってるし、あたしはこんなだからいいんだけど、リオンはそうじゃないんだよね。それでもリオンは支えようとするんだよ」


 それがなぜなのかは、レフノールにも痛いほど理解できた。そうすべきだから、と当人が考えている。

 それ以外にない。そしてだからこそ、結果を自分一人で背負い込んでしまう。


「支える方にもさ」


 小さな声でヴェロニカが言い、切り株に座って俯くリオンのほうへ一歩二歩と歩きだし、振り向いて続けた。


「支えって必要だと思わない?」


 レフノールは黙って頷いた。まったくそのとおりだ、と思っている。


 じゃあね、と小さく笑ったヴェロニカは無造作な足取りでリオンに近付き、俯いた頭をいきなり撫でた。髪をかき混ぜるような、乱雑な撫で方だった。そのままリオンに何かを話しかけ、それに応じたリオンが顔を上げて腰をずらす。空いた場所に、ヴェロニカが腰を下ろした。

 寄り添って隣に座るヴェロニカが、リオンと何を話したのかはわからない。

 レフノールは、それが彼女の支え方なのだろう、と考えて、ふたりに背を向けた。


 仕事の頭に戻りかけたレフノールの脳裏に、あの少尉は、初陣だった少尉は大丈夫なのだろうか、という心配がよぎる。柄ではないと思ったが、どうにか支えてやりたかった。

 比べてしまえば自分より余程有能ではあっても、自分が上官で、そして先任なのだ。

 約束した四半刻はそろそろのはずだった。


※ ※ ※ ※ ※


 レフノールが門のそばへ足を運ぶと、リディアはもうそこで待っていた。


「済まない、待たせた。

 怪我はないか?」


 一度確認したことではあったが、敢えてもう一度尋ねる。

 戦いの直後で気が昂ったままでは、怪我をしていても気付かない、ということもままあるからだった。


「いいえ、わたしは無事ですが」


 言葉を切ったリディアが小さく笑う。

 どうした、とレフノールは怪訝そうな表情を浮かべた。


「――その恰好の隊長に心配されると」


「まあ、確かに、そうだな」


 まず自分の心配が必要なのかもしれなかった。


「ともかく無事で何よりだ。

 さっきも言ったが、ここをどうにかしなければ」


「はい」


 負傷者の手当てだけは済んだものの、まだやるべきことは多い。


「まず工兵連中に指示して、防柵と門の補修をさせよう。

 曹長には妖魔どもの死骸を、ひとまずここの外へ出すように言っておく。

 俺は――報告書だな。あとは手紙」


「手紙は、わたしも」


 いいのか、と見返したレフノールに、はい、とリディアが頷いた。


「それなら、門の近辺で戦っていた奴の分を頼む。必要なら曹長に状況を確認して。あの男なら把握しているはずだ。

 俺がまず1通書くから、君はそれを見て書けばいい」


「はい」


 よし、と頷いて、レフノールは声を張った。


「曹長!」


 駆けてきたベイラムに、レフノールは手短にいくつかの指示を出す。

 承りました、と駆け去るベイラムを見送って、行くぞ、と天幕の方へ足を向ける。

 はい、と敬礼したリディアがその後を追った。


※ ※ ※ ※ ※


 戦死者6名、重傷者8名、軽傷者22名。

 小さからぬ犠牲を払って、兵站部隊は拠点を守り抜いた。

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