【8:先任下士官の信頼】
レフノールが天幕に戻って一息ついた頃には、もう日が落ちていた。
昼過ぎから多くのことをこなしてきたが、やらねばならないことはまだたっぷりとある。
ノールブルムと軍団本部へ出す報告を書かねばならない。
戦死者の遺族に手紙を書かねばならない。
忘れないうちに記録を取っておかねばならない――おそらく、いま記録を先送りにしたら、作ったばかりの日録を開くことは二度とない。
それに明日は朝からノールブルムへ出向いてそこにいる部隊の指揮官に状況を伝えねばならない。
いつ終わるとも知れぬ仕事の山が、レフノールの眼前に積まれていた。
正直なところ、寝台へ身体を投げ出して毛布でも被ってしまいたかった。
そうするだけの踏ん切りもつかず、ランプに火を入れてのろのろとペンを取ったところで天幕の外からベイラムの呼ぶ声がした。
いま出る、と答えて立ち上がる。
「第1分隊戻りました、中尉殿」
外に出たレフノールに、敬礼したベイラムが言った。
隣に軍曹が立ち、同じように敬礼している。たしかにベイラムの言う通り、年齢はベイラムよりも少なからず若いようだった。
人相もこの曹長ほど凶悪ではないな、といささか失礼な感想を飲み込んで、レフノールが答礼する。
「ご苦労。貴官が第1分隊長か」
「フェルドマン軍曹であります、中尉殿」
「アルバロフ中尉だ、軍曹。
小隊長と副長が戦死されたため、隊を預かっている。
充員の要請はすぐにも送るが、まあ当面はこのままだろう。
任務も特に変わるところはない。貴官や貴官の部下も、今まで通りよろしく頼む。
今日は荷を解いたら兵と人足は休んでよい。
夕食後に分隊長と先任曹長に集合をかけるのでそのつもりでいるように。
何か質問はあるか?」
「ございません、中尉殿!」
よろしい、と頷くと、軍曹はもう一度敬礼して走り去った。
「俺と貴官、それに分隊長4人、ノールブルムから引っ張ってくる少尉がひとり。
それで当面、ここをどうにか回さねばならん。分隊長に問題のある奴はいるか?」
軍曹の背中に視線を向けたまま、レフノールが尋ねる。
おりません、とベイラムが答えた。
「もともと輜重の下士官は、兵と人足とをまとめて束ねねばなりません。
能力が低くては務まらんのです」
「なるほどな」
納得のいく話ではあった。
同じ理由で、兵站科では通例より高めの階級の将校が部隊に配属されることを、レフノールは思い出していた。
その階級と経験と能力を仕事以外の方面に振るとああなるのか、と部隊の帳簿のことを考える。
首をひとつ振って、レフノールは嫌な連想を頭から振り払った。ここは話題を変えた方がいい、と思いながら、天幕の入口を親指で指す。失礼いたします、とベイラムが応じた。
「そんなものしかなくて悪いが」
天幕に入ったレフノールは、椅子代わりの木箱に、まあ座れ、とベイラムを座らせる。
レフノール自身は、奥から折り畳みの椅子を持ってきて腰かけた。
「――それで、食事の話なんだが、ここでも将校と下士官兵の食事は別なのか」
「はい、中尉殿、ここは後方の扱いです」
将校と下士官や兵は、軍において、文字通り別の人種として扱われる。
食事の場所ひとつとっても、駐屯地にあっては将校用の食堂に下士官や兵が入ってくることはないし、その逆もまた然りだった。
当然、供されるものも全く異なる。
例外は前線で作戦行動中の部隊で、そこでは将校も下士官兵も同じものを食べることになっている。
「前線の扱いでいい。食事は統一してくれ。
将校は俺しかいないのだし、俺一人のために別の食事を用意するなど馬鹿げてる」
「よろしいのですか」
「ああ構わない。
ただでさえ面倒事が多いんだ。俺は将校用の食事は好きだが、それでなきゃ食えないというわけじゃない。
まして死人怪我人が出て人手が足りなくなっている部隊だからな、将校の見栄に兵を付き合わせる必要もないだろう」
「今日の分は――」
「ああ、もう作った分までどうこうは言わんよ。有難く頂くさ。明日からだな」
「ノールブルムの少尉殿が戻られたら」
「その少尉は、俺が構わんと言っても規則を通そうとするような奴かね」
レフノールの問いに、ベイラムは少し考えてから、そういった方ではないように思います、と応じた。
「ならば決まりだ。
食事に関しては、ここは前線の扱いとしよう」
「かしこまりました、中尉殿」
「せっかくうるさい上官もおらんのだ。同じ苦労なら、せめて好きにやるさ」
どの道この先、下士官や兵には苦労をかけることになる。
欠員もそうだが、自分が慣れないせいも大いにあるだろう。何しろすべてが初めてで、前任者もいないときている。
無理をせざるを得ないときのためにこそ、下士官と兵の余力はなるべく多く確保しておきたかった。
細かいところからでも、無駄な労力と見た部分は省いていかねばならない、とレフノールは考えている。
「――ところで、昼の襲撃の件について、少し詳しく聞かせてくれ。戦死者の遺族に手紙のひとつも出さねばならん」
頷いたベイラムが当時の状況と併せて、戦死した兵の人柄や事績を語る。
目立ちはしないが面倒見の良い3年目の志願兵ということであるらしかった。
「初年兵に声をかけて立ち回らせていたと聞いております」
「有能でいい奴から死ぬというのは本当だな」
ため息とともにレフノールが吐き出す。
戦死した兵は、奇襲を受けて混乱した戦場にあっても、自分の面倒だけを見ていれば死ぬことはなかったかもしれない。
だが、そうであれば、別の、より経験の足らない兵が死んでいただろう。
意識してか習慣としてか、死んだ兵はそれを看過できなかった、ということになる。
「そうとばかりも言えませんが」
「そうだった」
お互いに、前隊長と前副長のことが念頭にある。
「いい奴もろくでもない奴も、有能な奴も無能な奴も分け隔てなく、か」
死だけは万人に平等だ、などと言ったのは誰だったか。
もう少し選んでくれてもいいのだが。
「いい連中が先に死んで、ろくでもない奴だけ残るよりは、幾分ましかと」
「違いない――まあ、こうして無駄口を叩けるのも生きている人間の特権だ。
やはり貴様には死んでもらっては困るな、曹長」
「ありがたくありますが、そこはお互い様というやつですな、中尉殿」
遠慮のない返答だった。
どうやらこの半日で、レフノールはこの曹長の信頼を得ることができたらしい。
それは上官と部下としての信頼というよりも戦友のそれであり、もう少し言葉を選ばずに言えば共犯者としてのそれであるのかもしれないが、どんなものであれ信頼であることに変わりはない。
この先しばらく隊を切り回す要になるであろう先任下士官の信頼は、着任したばかりの指揮官であるレフノールが最優先で求めたいものであり、求めただけでは得られないものでもあった。
「明日からも当面はいろいろと厳しいだろうからな、貴様も休めるときに休んでおけ」
「中尉殿は」
「残念ながら」
ふ、と息をひとつついて、レフノールは肩をすくめた。
「書かねばならないものがまだまだ残っている。食事の後には分隊長にいろいろと話さねばならんし。
まあ、俺は歩哨に立つわけでなし、自分の仕事を片付けたら寝るさ。
悪いが明日の朝、飯の時間までに起きていなければ起こしてくれ」
「かしこまりました、中尉殿」
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