【9:前線へ】

 およそ最悪の寝覚めだった。

 薄暗い天幕を見上げてここはどこだと混乱し、落ち着くにつれ昨日のことが思い出され、ついでに今日からの仕事のことが頭に浮かんで、レフノールはもう一度毛布を被りたくなった。


 寝不足で今一つはっきりとしない頭を振り、のろのろと簡易寝台から起き上がる。

 昨夜あのあと、どうにか時間を作って食事を胃に押し込み、分隊長たちに状況を飲み込ませて今日からの予定を伝え、書くべきものを書き上げた。

 結局床に就けたのは夜半を過ぎていたように思う。

 その甲斐あってと言うべきか、ひとまず片付けねばならない仕事は片付いていた。


 とはいえ、今日は半日以上をかけて前線の砦へ――ノールブルムへ向かわねばならない。

 着いたら着いたでおそらくは休む間もなく先遣隊の指揮官に状況を報告し、張り付いているという少尉を連れて帰るための談判をせねばならない。

 嫌味のひとつも覚悟せねばならないだろう。前線の指揮官にとって、補給が滞るという報告は、それが可能性に過ぎないものであっても、決して歓迎されるものではない。


 レフノールは軍靴に足を突っ込み、さほど広くもない天幕の私室部分を横切って、中仕切りから執務室の側を覗く。

 天幕の入口近くに水の張られた桶と手桶が置かれていた。ベイラムが気を利かせたのだろう。

 レフノールとしても、せめて身支度だけは整えておかねばと思っていたところだったから、こういった気遣いは有難いものだった。

 会ったら礼を言わねばと思いながら、手早く身体を拭き、衣服と大外套を身につける。

 顔を洗い、固く絞った大ぶりの手巾で拭って、ようやくはっきりと目が覚めた。


 天幕から外に出ると、いくつか浮かぶ雲の合間から日の光が差している。

 朝晩こそ少々冷えるが、昼は暑くなく寒くもなし、というところだ。

 この季節、幸いなことに、当分はこういった天気が続くはずだった。


 野営している牧草地では、既に幾人かの兵士たちが忙しく立ち働いている。

 気付いた兵士たちが敬礼する。レフノールもいちいち答礼した。

 あちこちと動き回る兵たちの中央で、ベイラムが睨みを利かせている。

 いちいち細かい指示を出すわけではないが、必要なときには短く何かを命じている様子だった。


「おはよう、曹長、なにか問題は?」


「おはようございます、中尉殿。

 問題は特にございません」


 声をかけたレフノールに、姿勢を正したベイラムが敬礼する。


「よろしい、今日の予定は伝えたとおりだ。

 第2・第3分隊長とノールブルムへ向かい、諸々の状況を報告する。

 戻りは明日の夕方、あちらの少尉と第2分隊長を連れて帰ってくる」


 頷いて答礼し、レフノールは今日明日の予定を告げた。

 とは言っても、昨夜伝えたとおりの話ではあるから、確認以上の意味はない。


「荷の準備はできとります。

 荷駄に積むのにあと四半刻、というところで。

 そちらは出発の刻限に合わせてやらせます」


 ベイラムの言葉に、そのあたりは任せる、とレフノールが頷く。

 細かな荷の扱いや積み方についてまで口を出す気はないし、またレフノールに口を出せるような知識があるわけでもない。

 気の利く下士官がいるのであれば、任せてしまった方がよほどお互いのためになるのだった。


「お食事はいつでも」


「ありがとう、天幕へ運んでくれ。

 ああそれと、汲んでおいてくれた水な、あれは助かったよ」


「ありがたくあります、中尉殿」


 当り障りのない会話を終えて、レフノールは天幕へと戻る。

 輜重の荷はベイラムに任せておけばよいが、レフノール自身の荷作りもしておかねばならない。

 とは言え、持参するのは身の回りの品と報告書、それに筆記用具と日録程度のものだ。


 荷作りを済ませると、程なく朝食が届けられた。

 黒パンにチーズ、野菜と干し肉の入ったスープ、ドライフルーツが少々。

 前線の食事としては悪くない。湯気の立つ食事は、兵たちの士気の維持にも役に立つことだろう。

 寸刻で食べ終え、当番の兵を呼んで空になった器を渡す。


「俺の分の荷は天幕の入口のところへ置いておく。それを片付けたら取りに来てくれ」


「はい、中尉殿」


 きびきびと答えて去る兵を見送り、荷物をもう一度確かめて天幕の入口に置いた。


 ふと周囲を見回すと、疎林の際に兵士とは異なる人影がある。

 昨日仕事を頼んだ4人組の冒険者だった。

 彼らもこれから仕事に出るということだろう。小さく手を挙げて挨拶を送ってくる。

 レフノールも、軽く手を挙げて挨拶を返した。


 そうこうするうちに、出発の準備が整った。

 レフノールは用意された馬に跨っている。乗馬はお世辞にも得意とは言えなかったが、将校は騎乗が通例だ。


「隊列は第2分隊を前、第3分隊を後ろに配置する。ノルダール軍曹は先頭を、ヘイルズ軍曹は後尾を、それぞれ頼む。

 昨日の一件もある、警戒を怠らないよう」


 2人の分隊長に指示する。分隊長たちは敬礼して持ち場へと散った。

 レフノール自身は隊列の中ほどに陣取る。

 ややあって、配置についたノルダール軍曹が振り返った。

 いいぞ、とレフノールは軍曹に頷いてみせる。


「輜重隊、前へ、進めっ!」


 踵を合わせて背筋を伸ばしたノルダール軍曹が大音声を発する。

 荷を積んだ輜重隊は、ゆっくりと前進を開始した。



※ ※ ※ ※ ※



 ノールブルムへ着いたのは夕刻近くなってからだった。


 道中では半刻ごとに小休止し、昼には大休止して昼食を摂った。とはいえ、朝のように湯気の立つものを食べられたわけではない。

 火を熾して炊事をして、というのは、余程時間がなければできることではなかった。

 行軍中の糧食として配られている固く焼き締められたビスケットを幾枚か。

 齧りながら、せめてもう少し何かあってもいいかもしれないな、とレフノールは考えた。

 贅沢が許されるわけではないが、楽しみはあった方がいい。昼食で気分が変わるとなれば、長時間の行軍にも耐えやすくはなる。


 ともあれ、昼食を挟んで隊列の前後を入れ替え、午前と合わせて3刻ほども行軍しただろうか。

 概ね通常通りの歩調であったから、今朝出発したラーゼンからノールブルムまでは半日行程と少々、ということになる。

 軍用の地図と地誌の記載もそれを裏付けていた。


 砦の営門には2人の兵士が立哨していた。


「お役目ご苦労。兵站小隊、隊長代理のアルバロフ中尉だ。

 物資の補給と、こちらの隊長殿への御報告がある」


 はっ、と兵士たちが敬礼し、門を開ける。1人が門の内側へ走り出した。


「物資はあちらの倉庫へ、願います。隊長のところへはすぐにご案内いたします」


 残った1人が倉庫の並ぶ一帯を手で示す。


「ああ、先に倉庫の方を見ておきたい。案内は倉庫へ送ってくれ。

 それと、うちの少尉がここに来ている筈だが、どこにいるかは解るか?」


「いいえ、中尉殿、自分は存じませんが、倉庫か、司令部の将校執務室かと」


「なるほど、ありがとう」


 いずれにせよ、倉庫に行けば会えるか案内されるということだった。

 教えられたとおりに倉庫へ向かい、馬を降りる。


「ノルダール軍曹、ヘイルズ軍曹、荷については任せる。

 こちらに来ている少尉の指示があればそれに従うように。

 俺は案内が来たら先遣隊長殿に報告を入れてくる」


「はっ」


「了解いたしました」


 敬礼した軍曹たちが早速兵に声をかけ、荷捌きに取りかかった。

 レフノールは、駆け寄ってきた兵に、こいつを頼む、と手綱を渡す。

 別の1人に鞍へ固定していた私物入りの鞄を預け、身軽になったレフノールはあたりを見回した。


 しっかりとした造りの壁で囲まれた砦は正方形で、4つの頂点がおおむね東西南北を向いている。

 囲壁の内側には兵舎と倉庫や厩舎が連なり、その更に内側に小さな療院と工房。

 そして中央に、ここだけは2階建ての建物がある。通例どおりならそこが司令部だ。

 砦の4つの辺の中央に門があり、砦を十字に区切る形で通路が設けられている――大きな通路の交点近くに司令部がある、という形だった。


 レフノールが今いるのは南東側から入って司令部手前の倉庫の近辺。

 荷の積み下ろしのためだろう、ちょっとした広場のようになっている。

 王国の軍が駐留するための拠点としては一般的な形だが、大きさはかなり小さい――1辺の長さにして半分ほど。


 通常このような砦を利用するのは4個大隊規模の軍団だが、ここに入るのは最大でも1個大隊強の分遣隊だ。

 常駐する人員は酒保業者まで含めても中隊規模に満たない程度だから、あまり大きくしても仕方がないということなのだろう。


 見回すうちに、幾人かの兵が走り寄ってきて荷下ろしを始めた。

 2人の軍曹が兵たちに指示を出し、ラバに着けられた荷鞍から荷物を取り外して種類ごとに仕分けを始める。

 荷の大半を占める食糧と飼葉、燃料の炭や薪、工房で使う消耗品、矢や薬草類。

 ちょっとした村の市で扱われる品々よりも量が多いかもしれない。


「中尉!」


 兵たちの働きぶりをぼんやりと眺めていたレフノールの背後から声がした。

 よく研がれた剣のような、澄んでいて硬く、よく通る美しい声だった。

 驚いて振り向いた視線の先に、銀髪の若い女性将校が立って敬礼している。


「お迎えもせず申し訳ありません、中尉。

 小官はリディア・メイオール、少尉であります。小隊長から先遣隊への随行を命じられております!」


 ――あの野郎、知ってて黙ってやがったな。


 レフノールは心の中でベイラムに毒づく。


「アルバロフ中尉だ。よろしく頼む、メイオール少尉。

 ――出迎えのことは気にしないでくれ、報せもせずに押し掛けたのはこちらだ。

 ところで、先遣隊の隊長殿にお会いしたい。報告すべき件がある。案内を頼めるか?」


 内心の動揺を表に出さないよう努力しながら、答礼してレフノールはそう応じた。

 先に言っておいてくれればあれほど驚かされることもなかったろうに、と今更なことを考える。


「はい、中尉、すぐにご案内いたします。

 中尉が隊長代理と伺っておりますが、大尉は――?」


 手を下ろした少尉――リディアが尋ねる。

 すらりとした長身だった。男としては丈が低めなレフノールよりも、やや視線が高い。

 歳はまだ若い。おそらく兵学院を出たて、どう高めに見積もっても任官してから数年、といったところに見えた。

 理知的に整った顔立ちのなかで、濃い藍色の目が不安そうに揺らいでいる。


「ああ」


 ――まあそれはそうだろう。


 レフノールは目の前の若い女性少尉に同情する気分になった。

 どこの誰とも知れない中尉がいきなり現れて隊長代理を名乗っている。

 よほど察しが悪くなければ、隊になにかあった――それも、隊長が指揮を執れなくなるほどの何かがあった、と推測はできるはずだ。


「隊長殿と副長殿はいずれも戦死された。昨日のことだ。

 そのようなわけで、小官がとりあえずのところ、隊長代理として指揮を執っている。

 報告というのもそのことだ、少尉」


「……戦死、です、か」


 衝撃が大きかったのだろう、軍で使われる独特の言い回し、いわゆる軍隊言葉が抜けてしまっている。


「驚くのは解る。俺も昨日はそうなったよ、少尉。

 着任早々、デュナン曹長に聞かされてな」


 意識して声のトーンを落とし、幾分くだけた口調で話しかける。


「兵站小隊の将校は俺と貴官の2人だけになってしまった。

 貴官は貴官で色々言いたいことがあるだろうし、俺も同様だが、なってしまったものはどうしようもない。先任下士官のデュナン曹長が色々と手を貸してくれてはいるが、しばらくは俺と貴官とで切り回さねばならん。

 これは上官としての命令でもあるが、戦友としての頼みでもある。力を貸してくれ」


「あっ……は、はい、中尉、よろしくご指導ください!」


 どうにか気を取り直したらしい少尉が、改めて敬礼する。


「指導してほしいのはどちらかと言えば俺だよ、少尉。

 兵站全般のことはともかくとして、この部隊のことはまだよくわからない。色々教えてくれ」


 内心少なからず安堵しながら、レフノールは答礼して軽口を返した。


「はい、喜んで、中尉。

 ひとまず何を――?」


 にこりと笑ったリディアが応じる。硬さの取れた笑顔は、最初の印象よりも更に若く見えた。


 ――たぶん、こちらこそが彼女本来の表情なのだろう。


「まずはここの隊長殿のところへ案内してくれ。

 今話したあれこれを報告せねば。ああ、報告の際には同席してもらいたい」


「はい、ご案内いたします、中尉!」

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