金木犀

紫陽花 雨希

金木犀

 ふ、と金木犀の香りが鼻をかすめた。その香りは私の記憶の中の遠い遠い場所を一瞬だけ思い出させて、そして、消えてしまった。

 朝の、満員電車の中だった。気が遠くなってしまったせいで停車時の揺れに耐えられず、勢いよく隣の人にぶつかってしまう。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 夢中で何度も頭を下げていると、ぽわーんとした声が降ってきた。

「あれ、モナミちゃんじゃん。久しぶり」

 顔を上げる。頭一つ分高いところに、懐かしい人の顔があった。

「もしかして……イズミ君?」

「もしかしてってなんだよー。俺、そんなに顔変わった?」

 彼が冗談めかして笑うので、私もくすっと吹き出す。

「変わってないよ。百年前から、全然」

「なあ、今日は仕事終わってから一緒に過ごさん?」

「良いね」

「おっと、俺、ここで降りないと。じゃあ、また後で」

 人混みに彼の姿が呑まれて、見えなくなる。


 ……あれ?

 私、誰と話してたんだっけ。

 頭が鈍く痛む。デジャヴのような、白昼夢を見ていたような、奇妙な感覚がじっとりと脳裏に貼り付いている。

 最近、仕事が忙しすぎて、疲れているのだろう。

 明日は久しぶりの休日だ。のんびりしよう。

 私は深くため息をついて、吊革を握り直した。


 昼休み、ビルとビルの間にある小さな正方形の公園のベンチでお弁当を開いていた。ガラス張りの壁は秋の少し寂しげな光を反射してきらきらと儚く輝き、一面に植えられた臙脂やピンクの秋桜がふわふわと風に揺れている。季節の花が咲くここは、私にとっての安らぎの場所だ。

 昨日の残り物である野菜炒めを口に運んだとき、ふっと金木犀が香った。こんな都会のどこに咲いているのだろうと思って顔を上げると、たまたま隣に老紳士が腰掛けた。土色の背広を着て杖をついた彼は私の方を見て、にっこりと優しげに微笑む。

「モナミさん、久しぶりですね」

「松下先生! お元気でしたか?」

「元気でしたよ。隠居してからは読書にふけっていました。君は尋常小学校の生徒だった頃から読書好きでしたね。最近はどんなものを読んでらっしゃるんですか?」

 私は決まりが悪くて、もじもじとうつむいた。

「仕事が忙しくて……」

「モナミさん」

 先生の言葉に引っ張られるように顔を上げる。先生は目尻を下げて、いたわるように私を見ていた。

「仕事に精を出すのは良いことです。でも、自分は大切にしなくちゃいけませんよ」

「はい」

「良い返事ですね」

 先生は満足そうにうなずくと、よっこらしょと立ち上がった。

「それでは、また」

 腰の曲がった小さな背中が、雑踏の中にまぎれて見えなくなる。


 ハッと我に帰った。慌てて腕時計を見ると、休み時間が終わる五分前だった。

 今、誰かと話していたような気がするが、何も思い出せない。もやもやとした感覚は、眠りから覚めて夢が遠のいてゆくときに似ていた。

 やっぱり、ストレスで相当まいっているようだ。今日も残業は避けられないだろうが、できるだけ早く上がろうと心に決めた。


 郊外の住宅街は、既にほとんどの家の灯りが消えて、墨汁を流したような道路に街灯の白く冷ややかな光が伸びていた。肌寒さが惨めさを増すようで、胸の前で腕を組んで足早に自宅を目指す。

 私たちの住んでいるアパートの二階の角部屋は、オレンジ色の温かな光をたたえていた。ほっとして、歩調をゆるめて階段を上る。

「ただいま!」

「おかえり」

 部屋の奥から、甘い香りが流れてくる。

「またクッキー焼いてたの?」

「そうそう」

 私は自室で部屋着に着替えてから、ダイニングに入った。同居人であるチカが、台所に立ってオーブンをのぞきこんでいる。家賃の節約や家事の分担のために、幼馴染みである私たちは大学生の頃からルームシェアをしている。

「夕飯温めるから、ちょっと待って」

 はーい、と返事をして、私も台所に入る。ちょうど、チンとオーブンが鳴った。

「焼けた、焼けた」

 チカが扉を開けて、きれいに並んだクッキーを取り出す。花型のクッキーの真ん中に、ジャムが乗っていた。淡い黄色やオレンジ色の星屑のようなものがたくさん、透明な砂糖に封じ込められている。

「マーマレード?」

「違うよ。金木犀のジャムなんだ」

「金木犀……」

 考え込んでしまいそうになった私の背中を彼女が押す。

「夕飯食べよ」

 今晩のメニューは秋鮭の塩焼きとしめじのお味噌汁、ほうれん草のおひたし、栗ご飯だった。ほうれん草は夏の間に冷凍していたものだ。小さなお皿に、できたてのクッキーも二枚のっていた。

「チカちゃんのご飯は美味しいなぁ」

「ありがと」

 彼女はちょっと首をすくめて、そっけなく言う。

 ご飯を食べ終わり、私はクッキーを一つつまんでしげしげと見る。確かに、さっき星屑に見えたものは小さな花の形をしていた。

「今日は、変なことがあったんだ。金木犀の香りがしたら、気が遠くなっちゃって。誰かと話してたような気がするんだけど」

 チカちゃんは黙り込んで、真剣な表情で顎に手を当てた。長い長い沈黙の後、おもむろに口を開く。

「金木犀の花言葉って知ってる?」

「真実の愛でしょ」

「それもあるけど」

 彼女の目がかげる。

「幽世……カクリヨだよ」


 ちょっと夜の散歩に行かないか、と誘ったのは私の方だった。部屋着の上に薄手のジャンパーをはおり、玄関のドアを開ける。冷たい風がびゅっと吹き込んで、鼻が冷たくなった。私はチカちゃんの温かい手を握って、夜へと踏み出す。

 私たちはしばらく黙ったまま、手を繋いで歩いていた。二人の息の音と足音が、澄んだ夜の空気に響きわたる。

「海行こ、海!」

「こんな時間に? まあ、良いけど」

 チカちゃんは呆れたような声を出したけれど、少しわくわくしていることが手から伝わって来た。彼女はいつも現実的で実用的であろうと努めているけれど、実は冒険が大好きである。普段は冷静なのに、ここぞと言うときにその冒険好きが顔を出すので、手痛い目に合うこともよくある。そんなときに一緒になって、「でも、楽しかったよねー」と自分たちを肯定するのが私は好きだ。

 坂を上りきると、急に、ぱっと視界が開けた。海だ。黒いタールが溜まったような海の真ん中にまん丸い月が一つ浮かんで、その月まで届くような白い光の道が真っ直ぐに海面に伸びていた。

 私たちは坂を駆け下りる。そして、砂浜に入る直前で足を止めた。

 波打ち際に、こちらに背を向けて誰かが立っていた。ふ、と金木犀が香った。ゆっくりと振り返った彼の腕の中には、一枝の金木犀があった。

「待ってたよ、モナミちゃん」

「イズミ君……ごめん、遅くなっちゃって」

 百年前、私たちは恋人同士だった。

 私の死の間際、彼は自分も必ず後を追うからと言った。死後の世界で一緒に楽しく過ごそうと、約束した。けれど、私は何故かここにいる。

「モナミちゃん、一緒に月の道をわたろう。あの道の先には、もう苦しむことも悲しむことも、喜ぶことも傷付くこともない、本当の幸せと安らぎがあるから。そこでは俺たちは混じり合って一つになって、誰が誰とも分からない円になる」

 イズミ君が、手を差し伸べる。その骨張った指先に、私は自分の指先で触れようとして……

「行っちゃうの? 私を置いて?」

 チカが、真っ青な顔で私の片手を握っている。私はうなずいた。

「ごめんね、チカ」

 手が離れる。私とイズミ君は手を取り合って、月の道を歩き出した。


 波の音が聞こえる。

 目を開けると、満天の星空が視界いっぱいに広がっていた。

 ハッとして起き上がり、自分が砂浜の上に寝そべっていたことを知った。両隣にはチカと、見知らぬ学生服の男の子が意識を失って倒れている。

「チカ、チカ、起きて!」

「まだ寝させて、ナオミ……」

「風邪引くって!」

 しぶしぶとチカが目を開け、ぎょっとしたように周りを見回した。

「え? なんで私たち海にいんの? ってか、そこの男の子、誰?」

 チカに揺さぶられ、男の子も目を覚ました。

「あれ、僕、なにしてたんだっけ」

 ぼんやりとした口調でこぼしてから、思い出したように体をぶるんと震わせる。

「さっむ!」

 男の子の胸の名札には、山田淳と書かれていた。

 私たちはよく分からないまま、それぞれの帰路に着いた。

 坂道を下る前、ふと気になって振り返った。今日は新月だ。海の上には、満天の星空がある。

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