(七)
やがて幸松は、成人して保科正之と名乗り高遠藩を継いだ。
世のなかの変転はめまぐるしい。
大坂の陣で豊臣家がほろび、駿府の大御所も身罷った。
正之が十九歳のとき。
見性院の死の間際まで念願した秀忠と正之の対面が、ついに千代田城西ノ丸において叶うことになった。
正之は、高遠から江戸までのながい道中、父と会ったらまずどのような話をしようかなどと、心おどらせながら馬に揺られた。
がしかし、秀忠の態度はひどくそっけないもので、見性院がのぞんだ父子の名乗りあいはおろか言葉をかわすこともなかった。
結局これが二人のあいだにあった最初で最後の面会となった。
さまざまな感情が去来しては荒ぶる己の胸に、正之は言いきかせた。
「あのお方にはあのお方なりの、私のような凡夫にはわからぬご事情や、ご思慮がおありなのだろう。そうだ、きっとそうに違いない、そういうことなのだ……」
その落胆は深かったが、いっぽうでよい出会いもあった。
はからずも自分には異母弟がいたのだと知った三代将軍の
従四位下に叙し、桜田門内に二千六百坪のあたらしい屋敷をあたえた。英明実直な素質を見ぬき、幕政に参画させ頼みにしてくれた。
ちなみに従四位下といえば、生前の武田信玄とおなじ位階であるからただごとではない。
正之も家光の期待にこたえようと懸命にはたらいた。将軍の日光参拝に供奉し、三十万の兵をともなった大上洛では先遣としておもむき、諸方面への折衝にあたった。さらに家光の参内にしたがって
いよいよ徳川の政権は、晴れて磐石なものとなった。
重き役割をなしとげるたび、正之の所領も膨らんで行った。
高遠藩三万石から山形藩二十万石へ、そして会津藩二十三万石へ。
はじまりが三万石の小藩だったので転封のたび人手不足に悩まされはしたが、武田、最上、蘆名、蒲生の遺臣、はたまた江戸や西国の浪人まで、優秀な人材を広くとりたてた。
いずれもかつて仕えた主家が没落し、忸怩たる思いで流浪のときをすごしてきた者ばかりだ。胸にひめた思いはつよく深い。
だが悪くいえば寄せあつめの即席家中である。ときに家臣同士のつまらぬいさかいもありはしたが、鎌倉や室町の世からつづいてきた家中とくらべれば上下の風とおしがよく身軽だ。新参者であろうと分けへだてなく能力重視で起用され、正之自身がそうであったように家中は進取の気風であふれた。
あまたの情熱が積み重なり、ついに会津松平家は、御家門の名に恥じぬ雄藩の内実と格式を備えるようになった。
臨終の際にあった家光は、正之を近くによびよせると、強く手を握りしめて言った。
「肥後よ、わが弟よ、徳川宗家をたのみおく」
最後まで存在を認めてくれなかった父秀忠の冷たい横顔を思えば、正之にとってこれほど嬉しい言葉はなかった。
弟と呼んでくれた。
徳川の家をたのむとまで言ってくれた。
今生にはないことだと諦めたはずだった。こんなに有り難いことがあるだろうか。
血肉をわけた人が己を弟と呼んでくれて、その人を心から兄と呼べる。
余人から将軍の子として仰ぎみられ、地位や所領を得たかったわけではない。
願いはただひとつ。
己は家族から望まれてこの世に生まれでた存在であると、確かめたかったのだ。
そしてそれと繋がる先に、きっと己の天命があるはずだ――と。
懐中深くにおさめた見性院の形見である黄金に手を置き、兄の手を強く握り返した。
「はい、兄上……わが兄上! しかと承りました」
正之は後年、
冒頭にはこうある。
一、大君ノ義、一心ニ大切ニ忠勤ヲ存スベシ。
列国ノ例ヲモッテ自ラ処スベカラズ。
若シ二心ヲ抱カバ、即チ我ガ子孫ニアラズ。
面々決シテ従フベカラズ。
大君とは徳川将軍と宗家のことであり、列国とは諸藩のことである。
すなわち、宗家のために一心に忠勤せよ、ほかの藩の真似をしてはならぬ、もし二心をもつ当主がでたら、それはわが子孫ではないから、家臣面々は従ってはならぬと戒めている。
会津武士の会津武士たる魂の原点が、これより発した。
【家康の孫と信玄の娘――了】
家康の孫と信玄の娘 葉城野新八 @sangaimatsuyoshinao
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