(六)
こうして秀忠の側近たちが賭けた起死回生の奇策はみごとに当たった。
幸松は、誰もが目を見はるほど健気な気性をそなえ、すくすくと育った。
筆をもてば伸びやかな字を書くし、木剣を振れば良い音を響かせる。
源平合戦を読み聞かせてやれば、正座をしてじっと黙って聞いている。戦の話を喜ぶでもなく、恐がるでもなく、黙って傾聴する
幸松が七歳のとき。
おだやかな日々のなかでふと、見性院は想った。
あれは懐かしき
固い結束をほこった武田家臣団と、その中央にあった父の威風堂々たる面影が脳裏をよぎる。
お転婆だった幼き見性院は、追いかけてくる女中たちを振り切って大広間の真ん中へ飛びだした。大勢の家臣団がいっせいにこちらのほうを見て、しばしの間のあと、ワッと笑った。
少し困ったような顔をした若き父が、膝のうえに招いてくれる。見性院は臆することなく座り、家臣団の顔を見渡した。
家臣たちが手を叩いて愉快げに言う。
『ややっ、これはたいへん、姫さまは女大将になるやも知れませぬな』
『これこれ皆の者、無礼であろう、こちらにおわす可愛らしき御大将にご挨拶をせぬか』
『ははーっ』
見性院が父の真似をして誇らしげに頷いて応じるから、家臣たちが次々と笑いころげた。
すると末席から筋骨隆々たる若武者が、四肢でおどりでた。
『ひひーん、ぶるるぅ! さぁ、我らの可愛い御大将、この荒馬の
見性院はさっそく飛び乗ると、源四郎号の腹を蹴った。
『かかれぇー!』
勢いよくとびだした源四郎号の背にまたがり、大広間のなかを何周もした。
ほうぼうから掛け声と笑い声の渦が沸き起こり、さっきまで割れて紛糾していた軍議の深刻な空気は、どこかへと去ってしまった。
翌日の朝、見性院は母や姉とともに色とりどりの、北へ向かう勇壮な出陣の列を見送ったものだ。
ずしりとした重みをともなう、不思議な熱を胸奥に覚えた。それに手をそえ、首を横にふり、自分をたしなめる。
(いかぬ。かような女子ばかりの屋敷のなかで成人まですごしたら、幸松のためにはならない。幸松は武家の男子。栄達をのぞむからこそ手放し、誰かしかるべき武人に託さねばなるまい――)
誰が適任であろうかとよくよく考えたすえ、武田家遺臣の
徳川とも縁があって文武にひいでた忠義者の正光ならば、きっと幸松を正しく導いてくれるに違いない。そう思い究めた。
そして見送りの日。
数名の家臣に付き添われ、何度も振り向きながらお静とともにゆく幸松の小さな背を、見性院は見えなくなるまで門前から見送った。
(これでよい。これでよかったのだ。私の役目は終わったのだ――)
追いたくなる脚を叩き、己にそう言い聞かせた。
(でもやはり――)
なんとしたことだろうか。自ら決めたはずだったのに、翌日にはさびしくなってしまった。
会いたい思いが日ごとつのり、保科家へ何通も文を送った。
「何と、今日も見性院様からの文が届いたのか。いやはや、これは一体どうしたものか……」
果てなくつみかさなる文の山をみて、正光は腕組みして苦笑し、唸るばかりだった。
幸松九歳のとき、待ちにまった再会が江戸で叶った。
幸松から高遠での暮らしぶりについてひとしきり聞いた見性院は、やはり己の見立てに間違いは無かったのだと、やっと安心をした。
それから懐に手を入れると、しまってあった円い黄金一枚を取りだし、幸松の小さな両手に握らせた。その目にうっすらと涙をうかべ、ゆっくりと語りきかせる。
「よいですか、幸松。黄金は世に数々あれども、これは仔細ある特別な黄金です。私が若きころより、いつも懐中深くおさめ、持ちきたったものなのですよ」
それは他でもなく、懐かしきふるさと甲斐の山からとれた黄金。
見性院が輿入れをするときに父の信玄から授けられたものだ。いつも優しかった父の温もりと、見性院の涙が染みこんでいる。これを己の形見として、あわれな運命に翻弄される幸松の行く末にどこまでもつきそい、守ってやりたい気持ちをこめたのだ。
二年後。
見性院は七十七歳で亡くなった。
大往生であったといえる。
幸松に出会っていなければ、ここまで生きられなかったかも知れない。ついつい少しでも長くその行く末を見たい、また会いたいという欲が出てしまい、みっともない皺だらけの老婆になってしまった。
見性院は死の床にあってもなお幸松のことを思う。
天たかく、骨と皮だけになってしまった腕をのばし、
「幸松どの、お父うえさまとお名乗りとあいなり、あな、めでたき、めでたき御ことなり……ご覧あれ、父上、母上、ああ姉上と兄上まで……ご覧あれ、どうぞご覧あれ、あれなるは幸松どのです……甲斐武田家がお育てした幸松どのです」
うわごとでつぶやき、穏やかに微笑んでいたという。
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