第10話 『アレテー』
「ギリシャ語に『アレテー』という言葉がある。日本語では徳とか卓越性とかって訳される」
絵美は突拍子もない話の展開に戸惑いを隠せないようだが、聞く姿勢は崩さずにいてくれる。
「『アレテー』とはどのようなものか。『アレテー』はそのもののはたらきを優れたものにする性質だ。そして、そのもののはたらきとはそのものの存在する目的や役割を果たす活動のことだ。例を挙げよう。ナイフは何かを切るためのもの、競走馬は速く走るためのもの、ピアニストは演奏するためのもの。それぞれに『アレテー』が備われば、ナイフはよく切れ、競走馬は速く走り、ピアニストは立派な演奏をする。『アレテー』とは何か目的のための存在に、上手く目的を果たさせる特性だ。簡単に言うと『アレテー』が備わるものはよいものだ。ここまでははいいか?」
「……目的がないものには『アレテー』はないってことですか?」
「そうだね。『いい』についての話を思い出してくれ。目的によって『いい』が異なるように、『アレテー』も目的によって異なる。切るためのナイフであれば『アレテー』はよく切れることだけど、芸術品としてのナイフの『アレテー』は装飾が美しいことだ。競走馬の『アレテー』は速く走ることだけど、レースを引退して乗馬になればお客さんを安全に乗せることが『アレテー』になるだろう。『アレテー』は必ず目的とセットのものであるから、目的がなければ『アレテー』も存在しない」
「わかりました」
「次、『アレテー』が備わるとはどういうことか。ナイフはメンテナンスのことなんかを無視すれば、よく切れるナイフとして作られるだろう。競走馬は速く走るために生まれるものの、速く走れるようになるにはトレーニングが不可欠だ。速く走るためのトレーニングを積んだ結果、速く走る性質を備える。ピアニストの場合は、生まれつきピアニストである人間なんていない。比喩として生まれついてのピアニストなんて表現することはあるかもしれないけど。それはさておき、ピアニストになりたいと思って演奏の練習して、繰り返し演奏することが習慣となり、当たり前のように優れた演奏をできるようになってようやく『本物』のピアニストとして舞台に立てる。このように『アレテー』の備わる過程には違いがある。けど、別の点では共通することもある。『アレテー』はその卓越性を実際に発揮しなければ『アレテー』が備わっているとは言えないという点だ」
言葉を区切ってから絵美を一瞥する。理解に苦しんでいる様子はない。
さっき「いい方法」について検討したのがプラスに作用しているのだろう。
「例えばよく切れるナイフとして作られたものが、一度も物を切ることなく朽ち果てたならば、それはよく切れるように作られたナイフとは言えてもよく切れるナイフとは言えないだろう。わかりにくいな。ええと、ピアニストの話にしよう。その人は練習の段階では一流ピアニストに勝るとも劣らない卓越した演奏ができる。しかし、決して舞台に立つことはない。この人を『本物』のピアニストと言えるか、……いや、言えない。そうだろ?」
「……ピアニストとしての役割を果たしてないから、はたらきを優れたものにする性質が備わってるとは言えません」
「そういうこと。じゃあ別件、二人のピアニストの話。一人は毎週末に演奏会を開く。年に一度くらい一流の演奏をするけど、他はびた一文払いたくないような酷いものだ。もう一人の腕前は常に一流だ。この人も毎週客の前で演奏してる。でも、年に一度かそれより少ないくらいの頻度で少し演奏をとちってしまうこともないわけではない。この二人のうちピアニストの『アレテー』を備えてるのは?」
「……演奏の質の最大値は同等だけど、安定感に違いがあるんですね。ピアニストであれば安定して優れた演奏をすることも、その役割に含まれるんじゃないかと思います。だから後者だけが『アレテー』を備えてます」
「目の付け所がいいね。ごくまれにホームランを打つことがある打者がホームランバッターと呼ばれないように、まぐれ当たりがあるだけでは『アレテー』を備えてるとは言えない。『アレテー』は安定して信頼できる性向だ。これを踏まえて、『アレテー』の備え方の話。最初に挙げたピアニストに再登場してもらう。この人はピアニストになりたいと思って、何度も何度も繰り返し演奏をして、演奏をすることが習慣になる。この習慣は日々の決まり事として演奏するという意味も含みうるが、主眼を置くのは別だ。それは演奏すべきとき、ピアノの前に座ったときに特別意識をすることなしでも体が動いて演奏できるということだ。つまり、演奏が習慣になったということは、演奏を習得し慣熟して、自然に当たり前のようにできるようになったことを意味する。このようにして優れた演奏ができる性向が備わることが、ピアニストの『アレテー』が備わるということだ」
「すみません。習慣になるって部分がよくわかりません」
「そうか。俺がピアノを弾けないから上手く説明できてなかったのかな。なら、自転車にしよう。自転車に乗るときは、倒れないようバランスを取りながらまたがり、ペダルをこいでハンドルでコントロールして進む。自転車の操作だけ考えればいいわけじゃなく、視覚や聴覚を用いて周囲の状況を把握することも必要だ。初めて自転車に乗ったときはこれらの一つ一つの動作を意識的に行ってたと思う。でも何度も自転車に乗って慣れてくれば、細かいことなんて考えない。一つ一つの動作は無意識なのに意識してたときと比べてスムーズに自転車に乗ってる。つまり、事前に反復された学習によって、いわゆる体で覚えた状態になることを習慣になると言ってるんだ」
「わかりやすくなりました」
「よし。この習慣になってるものが将来も安定して発揮される性質として、あるいは今後も持続的に同様の活動させる性質として信頼できるものになると性向と呼ばれる。言い換えると、性向とはいつものその人であればどのような活動をするか予測可能にさせ、その予測を裏切られるようなことがあればその人らしくないと言われうるもの。つまり、性向とはその人らしさのことだ」
「その人らしさ……。一流のピアニストが舞台で大失敗したら、らしくないと言われるように、ということですね」
「その通り。この性向が卓越したものであれば『アレテー』だ」
「悪い性向は『アレテー』ではないからですね」
「それで問題ないよ。これで『アレテー』が備わるってことがわかってもらえたかな。そして『アレテー』が備わっていれば、それを発揮することがその人らしさを発揮することでもある。これも同意してもらえるね?」
「はい、大丈夫です」
道具立てが終わったかな。絵美が話についてきてくれるかだけが心配だったが、杞憂だったようだ。
気付かれないように小さく息をはく。まだ疲れてはいられない。ようやくここから本番が始められるのだから。
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