第9話 『絵にも描けない美しさ』 前

「『絵にも描けない美しさ』って意味だろ?」

「え? ええと……竜宮城、ですか?」


 唐突な話に当惑している様子だ。予想通りの展開に口端が緩む。

 大丈夫、これから納得するまで説得するから。


「それは絵画に落とし込むことができない程度に美しさが甚だしいってだけだろう。絵美の場合はそれだけじゃなく、絵画に落とし込もうとしたらその本質を損ねてしまうものだ。それをもたらすのは洗練された所作だ。式典の際の形式ばった仰々しいものではなく、日常に溶け込んでいてさりげない。見過ごしてしまいそうなほど自然で当たり前にあって、気付けば目を見張るほどの確かな美を感じる。その美は淀みのない流れで、瞬間を切り抜こうとすればその核心は失われる。俺は『絵にも描けない美しさ』が絵美の秀でた本性を表していると思うよ」


 所作の美しさは熟練の技術によるものだ。決して生まれながらに備わるものではないし、一朝一夕で身に付くものでもない。絵美が自覚的に練習を重ねて会得したものだ。

 そして、出会って間もない俺から褒め称えられても、素直に受け入れやすいものだと思う。あるいはよく知らない俺でも気付けるほどに美しいことは、更なる称賛の材料になるかもしれない。

 何より美しさの中核は、所作の美しさそのものではなくその根源にあるのだ。これを称賛できずして、何が哲学愛好者か。


「……あの、私、そんなことありません」


 否定の言葉を放つ絵美は、悲痛な面持ちで俯いた。

 簡単にいかないとは思っていたが、ここまで後ろ向きな反応が返ってくるとは。問題の根深さを再認識する。


「どうして? 理由を説明してくれないと納得できない。俺は絵美を美しいと感じたよ」

「……敦君がそう言ってくれるのはありがたいことですが、私のは母の真似事に過ぎなくて。本物と比べたら敦君はがっかりすると思います」


 意図的なものか定かではないが、「本物」という言い回しは「絵」との対比をうかがわせる。優れた「本物」の真似である「絵」は、まがい物で偽物で劣った物ということなのだろう。

 「絵」の悪しき解釈を避けようとして、結局それにぶち当たるとは因果なものだ。いや、おかげで絵美の病原の一つが見つかったのだから、万事塞翁が馬かな。


「絵美のお袋さんが本物なのか?」

「……そうです。母は幼い頃から稽古事で礼儀作法を身に付けていて、私はそんな母に憧れて真似をしているだけです」

「絵美は誰かから習ったわけじゃないんだ?」

「はい」

「じゃあなおさら絵美はすごいじゃないか」

「え?」


 はっとするように顔を上げた絵美と目が合う。俺は余裕たっぷりの笑顔でそれを受け止めた。


「誰かから習ったのであれば、できるまで強制的な訓練で仕込まれたってこともありえる。悪く言えば、動物に芸を仕込むように。でも絵美は自分の意志で美しい所作を身に付けることを選択して、諦めることなく練習を続けたから体得できた。君の美の真髄は君自身のたゆまぬ努力によって生まれたことにある。正式な訓練を受けたかどうかはその美しさに影響しないよ」

「……でも、母の所作は本当に美しくて、母のようになろうとしても全然及ばなくて。母と比較すれば私が劣ってることは一目瞭然です」


 頑なな言葉は、自分自身に言い聞かせているようにも思える。

 自分の名前を好ましく思っていないのだから、家族もしくは家族関係に不調を抱えていることは想定していた。肉親に対して劣等感を抱くのは、俺たちくらいの年頃にはよくあることかもしれない。

 しかし、絵美のそれは明らかに行き過ぎだ。どうしてそこまで自分を貶めるのだろうか?


「絵美の方が劣ってるって誰かに言われたことがあるのか?」

「……そんなことありません。皆さん優しいですから。でも、一目でわかることです」

「なるほど。それは絵美が美しくないってわかるってこと? お袋さんのと比べたら、俺が感じた絵美の美しさなんて錯覚ってこと?」

「それは……」


 口ごもる絵美から確信を得る。母親よりも劣ることを訴え続けているが、自身の美しさを明確には否定していない。

 だから、やはり絵美にとって自身の本質は「美しい絵」なのだろう。

 「美しい」ものではあるが、「本物」には見劣りするもの。あるいは「美しい」けれど、「本物」ではないから価値がないもの。

 残念ながらそこは逃げ場にならない。俺には絵美が「本物」だと示す準備があるのだから。


「絵美とお袋さんを比較して絵美が劣ってたとしても、絵美は美しいよ。それはお袋さんが世界で最も所作が美しい人でなかったとしても、美しいのと同様だ。俺が絵美にテストの成績で負けてるからといって、学力的劣等生ではないのと同じようにね。違うか?」


 わざと絵美が拒みにくくなる言い方を選ぶ。絵美の弱みに付け込む弁論家の手口だ。

 それでも今からは弁論家の口で、哲学者の言葉を語ろう。


「……いいえ、違いません」

「だろ。それを認めてもらえるなら、俺は絵美が『本物』であると、君に信じさせてみせるよ」

「そんなこと――」

「俺は絵美が信じてくれると、信じてるから」


 人差し指を自分の口に当てて悪戯っぽく笑う。

 絵美は気勢をそがれたように口をつぐんだ。

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