第8話 『名は体を表す』

「よかったんですか?」


 琴音が図書室から出るや否や、絵美が問いかけてくる。


「ああ。琴音が『お安い御用』って言ったら、もう譲らないから」

「……何か特別な意味があるんですか?」


 察しがいいな。


「そう。新聞については区切りがついたし、聞いとく?」

「お願いします」

「確か小学二年生のとき、自分の名前の由来を家族に聞いてくるって授業があってね。俺は氏名、安居敦の名字と名前の合わせ技で意味があったんだよね。でも琴音は母親の再婚で名字が変わったから、安居琴音で何か意味が込められてるわけないだろ?」

「……琴音さんがそれを気にしたんですか?」

「その通り」


 実際は気にするなんて次元ではなかった。記憶に残っている中で五指に入るくらいの勢いで大泣きした。


「で、安居琴音で何かできないかなって俺が必死に考えたわけ。結果、『安い事ね』で『お安い御用』ってのを何とか絞り出したんだ」

「敦君との繋がりを示す名字を使って、敦君が意味を見出してくれたから、琴音さんにとって特別なんですね」

「だね。そして、『名は体を表す』って考えから、琴音は機会を見つけては『お安い御用』って言って、誰かの手助けをするようになったんだ」

「……よくわかりました。敦君、過保護そうなのに琴音さんに用事を任せていた理由も」

「俺が言い出しっぺだから、止められないよね。まあ、危険なことは絶対させないから大丈夫」


 琴音も馬鹿ではないから、自分の手に負えないことまで背負いこむことはない。

 それに、上手くできるかあいまいなことに関しては俺に相談するように言ってあるから、トラブルも防げている。


「流石ですね。では、敦君の名前の由来って何ですか?」

「俺はマルクス・アウレリウス・アントニヌス」

「ローマ皇帝ですか?」

「そう、俺の爺さんがファンでさ。孫に著作をプレゼントするくらいにね」


 鞄から文庫本を取り出して見せる。岩波文庫の青帯だ。


「普段から持ち歩いてるんですか?」

「お守り代わりに。爺さんからもらった本そのものは結構ぼろくなっちゃったから、これは二代目だけど」

「かなり読み込んでるんですね。どんな本なんですか?」

「ストア派の哲学に基づいて、哲学的思索をしたり自分自身を叱咤したり。ローマ皇帝の著作を期待すると、エンタメ性に欠けて退屈かもしれないけれど、ローマ皇帝として生きた一人の人間の手記と見れば、大層趣深い著作だと思うよ。俺がその趣深さを感じられるようになるには、本が代替わりするほど読み込む必要があったけど」

「大事な本なんですね」

「そうだね」


 哲学とは四年ほどの付き合いになるがその間の経験の結果、俺の信念体系はストア派から離れてる部分が多い。

 それでも四年前にこの本で初めて哲学に触れたから今の俺があるのは間違いない。


「それでローマ皇帝と敦君はどこで繋がるんですか?」

「『後漢書』の大秦国王の安敦がマルクス・アウレリウス・アントニヌスだから。安居敦を略したら安敦になるだろ?」

「あっ、確かに見覚えがあります。……でも著作を渡すくらいですから、ただファンだからって理由じゃないですよね?」

「と思いたいけど、残念ながら真意を聞く前に、本人は亡くなってるもんでね」

「すみません」

「構わないよ。俺から爺さんの話をしたんだから」


 亡くなった人の話をすると、このように謝罪されることがある。どのような反応を選ぶのが適切かはわからないが、それが謝ることとは思わない。

 もし謝るべき人がいるならば、対応に困るような話をして負担をかけたこちらの方だと思う。心の底から申し訳なさそうな表情の絵美を見て、改めてそう思った。

 それでも、俺は絵美に痛みを強いることを選択した。己の目的を果たすために。

 その先に彼女の幸福があると信じて。


「まあ、爺さんが何を考えてたかわからないけど、皇帝になることを望んでいたわけじゃないはずだ。皇帝になって欲しいなら、もっと皇帝に魅力を感じさせるような人物と本を選ぶだろうから」


 哲人皇帝を目指して欲しい可能性は完全に消せないけれど、無視する。そもそも、爺さんは俺を皇帝にしようだなんて無茶を考えているようには見えなかった。


「それで哲学と向き合うことに決めたんだ。そうすれば爺さんの真意がわかるかもしれないし、あるいは哲学とともに生きること自体が爺さんの望みかもしれないからね」

「……だから敦君は、今の敦君なんですね」

「そうだね。爺さんがくれたものに恥じることがないように努めてるよ」


 努めているものの、実際のところ上手くできてはいない。

 今だってこうして絵美と対話する中で、自身の適性が真理を探究する哲学者ではなく、他者に自分の主張を押し付ける弁論家(ソフィスト)にあることを痛感する。

 いや、自分に言い訳しなければ説得することさえできないのだから、弁論家だってまともにこなせないな。内心で自嘲する。

 内省状態から意識を浮上させると、物言いたげな絵美の視線に気付いた。


「どうかした? 言いたいことがあるなら言っちゃいなよ」

「……少し気になったんですが、『名は体を表す』ことを意識してるのに何か特別な理由があるんですか?」

「特別こだわってるわけじゃないけど。どうして絵美は気になるんだ?」

「ええと、その人がどのような人物かわからない段階で名付けるんですから、名前が実体に即していなくても当然のことだと思うんですが?」

「一理ある。少し持論を語らせてもらうね。普通は何か物事やその営みが先にあって、それに名前を付けるんだと思う。つまり先に光があったから、光あれと言える」

「……『創世記』ですね」


 存在論も聖書も無視して持論をぶち上げる。


「でも絵美の言う通り、人への名付けはその順序が逆になる。先に名前が付けられて、後からどのような人物か定まる。けれども、『名は体を表す』ことを期待してると思う」

「どうしてそう思うんですか?」

「さっきも言ったけど、俺は何か営みがあってから名前が付くと考えてる。で、『名前負け』という言葉がある。名前が立派なのに、実質が伴わないことを揶揄する言葉だ。これは立派な名前に期待してたのに裏切られたという営みがあったから、『名前負け』という言葉が生まれたんだと思う。つまり『名は体を表す』ことを期待してたから『名前負け』という言葉が生まれたんだ」

「それって『名前負け』してることが多かったって意味でもあるのでは?」

「あはは、正解。だからと言って『名前負け』を当然のことにしちゃいけない。だって、名付け親が『名は体を表す』ことを期待するのはそれ自体に価値があるからじゃなくて、『名は体を表す』ことがその名前の持ち主の幸福に繋がると信じてるからだ。そこに込められた祈りを否定するわけにはいかない、っていうのが俺の考えね」


 俺が自らの不出来を自覚しながらも、哲学を諦めない理由の一つでもある。


「……祈り」


 絵美は俺の言葉を繰り返して呟いた。初めて聞いた言葉の響きを確かめるように。

 会話しながら気付いていたが、名前に対する捉え方が絵美と大きく違ったのだろう。

 それはつまり――。


「絵美は『名は体を表す』ことを否定したいのか? それとも、自分の名前が嫌いなのか?」

「それは……」


 絵美は自分の名前が実体を表していないと思っているのか、それとも自分の名前が実体を表している現実を否定したいのか。

 どちらの問いも実質的には同じ問いだ。絵美は自分が「遠藤絵美」であることを否定したいのか、ということだ。

 絵美が名付け親に対して反感を抱いていることもありえるが、答えに窮して俯く姿を見るに、きっと俺の想像は当たっている。

 そうであるならば、今すべきことはその考えを叩き潰すことだ。絵美は誇りを持って生きなけらばならないのだから。


 「絵美」という名前は単純に考えれば「美しい絵」を意味しているのだろう。情報が不足しているから確実性に欠くが、その線で考える。

 絵美が否定したいのは「美しい」か「絵」か、あるいは両方か。


 絵美の容姿が素材からして「美しい」ことは、一般的な感性の持ち主であれば誰もが同意するだろう。

 身だしなみも整っていて、「美しい」と見られる努力も欠いていない。

 しかし、美醜の判断には好みが関わってくるから、全ての人にとって絵美の容姿が最も「美しい」とは限らない。

 身近なところに悠永がいるし、兄のひいき目は否定できないが琴音の方が「美しい」と評する人間もいるだろう。

 絵美自身がどのように感じているか知らないのだから、自分の容姿が「美しい」と思えずコンプレックスを抱いている可能性は否定できない。


 芸術に関しては見る専だから詳しくはないが、シンプルに「絵」とは絵画のことだと考えよう。

 絵画は、写真と比べて写実性に劣り、動画と比べて一瞬しか切り取れず、自然と比べて人工である。どれもが芸術性の源泉になりうるが、否定的に見るためにも使われる。

 悪さをしているのは「絵」だろうな。「絵」であることはいくらでも悪く解釈できそうだ。それならば、俺も大いに利用させてもらうまでだ。


 さて、それじゃあ褒め殺し大会を始めよう。


「俺は好きだよ。絵美の名前」

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