第3話 琴音

 図書室に足を踏み入れると室内はがらんとしていて、貸出カウンターに店番役の図書委員が一人いるだけだった。


「いらっしゃい、お兄ちゃん」


 愛らしい声で出迎えてくれた、愛くるしい図書委員は我が妹――安居琴音(やすいことね)――だ。


「邪魔するよ。朝に言った通りここで作業させてもらうから」

「どうせ誰も来ないから好きにしていいよ。絵美ちゃんもごゆっくりどうぞ」


 琴音が絵美にも声をかける。その響きに単なる顔見知り以上の親しみを感じる。


「ということで……って遠藤、どうした?」


 絵美が少し呆けたような顔で俺と琴音を見比べている。


「……安居さんのお兄さんって安居君だったんですか?」

「ん? お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ」

「なるほど。遠藤は琴音から『お兄ちゃん』の話を聞かされたことがあったんだな。でも『お兄ちゃん』の名前は聞かされてなかったから、同学年である俺と『お兄ちゃん』が結びつかなかったわけだ」

「そっかぁ。絵美ちゃん、お兄ちゃんがお兄ちゃんだよ」

「……はい」


 何か言いたげにしている絵美を目で制して、話題を切り替える。


「いつまでも立ち話をしていてもなんだし、さっさとやることやろうか。琴音、新聞委員会が過去に発行した新聞がどこにあるかわかる?」

「うん、わかるよ。私が持ってくるからお兄ちゃんたちは座って待ってて」

「助かる。じゃあ一昨年のと五年前のをお願い」

「オッケー、お安い御用だよ」

「すみません。ありがとうございます」

「大丈夫、任せて」


 返事が早いか琴音は小さな体躯を忙しく動かして、奥の方へと向かった。


「じゃあ適当に座っとこうか」


 入口の一番近く、四人掛けの机に陣取ることにした。

 少し遅れて、絵美が俺の向かいの席にゆったりと腰を下ろす。


「……ええと、すみませんでした」

「ん? 何のこと?」


 これまでの流れで言いたいことはあろうが、絵美が謝罪する理由はないはずだ。


「安居君は事前に準備をしていたのに、私は今日まで何もしてなくて。すみません」

「いやいや、謝ることないって。この間職員室に行ったときに今江さんが暇そうにしてたから、用事のついでに相談しただけだ。それに資料にできそうな新聞を知ってるのは去年暇つぶしに読んだことがあるから。可愛い妹が去年から図書委員をやってるんで、図書室に来る機会が何度かあってそのときにって感じ。委員会活動のためだけに特別何かをしたわけじゃないよ」


 言い訳ではなく純然たる事実だ。

 一人でこそこそ事前準備をするくらいなら、それを口実に絵美を誘っている。


「……そうですか。わかりました。でも、私が何も貢献できていないのは変わりありませんので。その……頑張らせてください」

「ああ、一緒に頑張ろう」


 変に効率よく話が進んだせいで、絵美に罪悪感を抱かせてしまった。反省。

 しかしながら、概ね俺の計画通り事を運んでいるから、俺ばかり働いているように思われてしまうのは防ぎ難いわけで。

 なるべく絵美が気楽にいられるように、気を配る必要があろう。それと気の置けない関係になるためにも、言葉を交わし互いのことを知っていこう。

 話のタネはいくらでもあるが、琴音が戻ってくるまでに済ませておきたいやつがある。


「そういえば遠藤と琴音は顔見知りだったんだな。去年同じクラスじゃなかっただろ?」

「はい。私が二組でしたから六組の安居さんと体育が合同で、よくペアになってもらってました」

「そのときに俺の話を聞かされたわけだ」

「はい、いえ、その……私が口下手なので安居さんから色々話しかけてくれたんです」


 絵美が言葉を濁す。この様子からして、話の大部分が俺に関するものだったのは間違いなかろう。


「なるほど。そこで『お兄ちゃん』って聞いていたから同学年とは思ってなかった。それにでかくてごつくて厳めしい俺と小さくて柔らかくて愛らしい琴音で外見が全く似ていないから、俺が琴音の『お兄ちゃん』だって気付けなかったんだろ」

「……はい」

「だよな。遠藤にお願いなんだけど、俺と琴音の見た目が似ていないって話、琴音の前では避けてもらえる?」

「わかりました。……ええと、もしかして……」

「ああ、小学校に入学する頃に俺の父親と琴音の母親が再婚してね」

「……そうですか」

「すまない。反応に困るよな。ただ、琴音はそこら辺の話されるの嫌がってね。遠藤は琴音と仲良くしてくれてるみたいだから、覚えておいてもらえるとありがたい」


 琴音は極度のブラコンだ。俺への好意が強いのはもちろんのこと、俺の妹であることに執着している。

 琴音にとって俺と血縁がないことは、俺とのつながりを否定するように感じられ受け入れづらいものらしい。

 故に、それを思い起こさせるようなことを嫌う。幼い頃は泣き出してしまうこともあったくらいだ。


「わかりました。大丈夫です。……お二人はお互いに想い合っていて、素敵ですね」


 わずかに絵美の頬が緩む。笑顔と呼べるかは微妙なところだが、言葉の裏を探ろうとも思わせない柔らかな表情だ。


「ありがとう。遠藤は優しいな。琴音が懐くのもよくわかる」

「そんな……別に私は……」


 絵美が顔を伏せる。照れくさくて伏せているのではない、みたいだ。そこまで重く受け止めず、さらりと聞き流すくらいでいいのに。

 絵美は自らを蔑むことが癖になっているようだ。それは謙虚を超えて卑下に至っていると思う。

 絵美がそのような態度ならば、俺にも考えがある。絵美が逃げられないように追い詰めて、褒め殺しにしてくれる。褒めて褒めて褒めまくってやる。卑下することが馬鹿らしくなるくらいに、自分の尊さを受け入れられるように。

 幸福な人生に卑下は似つかわしくない。誇りを持って生きることこそ幸福な人生に相応しい。

 と言っても、人柄への称賛は素直に受けてもらえなさそうだ。そもそもほぼ初対面の相手からの言葉では説得力に欠けるだろう。

 しかし、それ以外を褒めるためにおべっかを使うのも趣味ではない。少しアクロバティックな手法しかなくても、やはり人柄を褒める以外の選択はないな。

 そう考えると、目標は定まった。後はそこに至るためになすべきことをなすだけだ。


「遠藤は優しいよ。はっきり言って琴音は無茶苦茶運動音痴でしょ? それなのに頻繁にペアを組んで、その上『お兄ちゃん』の話を延々と聞かされて、苦労したんじゃないか?」


 琴音は背が低い。百八十センチを超える俺とは頭一つ以上の差がある。背の順に並べば、小学生のときからずっと先頭だ。

 その上運動するセンスがない。趣味が料理と読書で、インドア万歳な生活をしているからスポーツで体を動かすことに慣れていない。

 さらに、第二次性徴を経て体つきが変わった後は、余計動作に不自由しているようだ。


「いえ、そんなことありません。その……私も運動が苦手なので」

「マジで? 全然そうは見えない」


 なるほど。そっちだったか。

 確かに琴音以上にメリハリの利いたボディラインは運動に不向きだろうが、立ち居振舞いは運動神経が鈍いように見えなかった。


「何に見えないの?」


 言いながら、琴音が過去の新聞がとじられたスクラップブックを机の上に置く。


「遠藤がスポーツできないようには見えないって話」

「わかる。なんか絵美ちゃんてシャキッとしてて動きがきれいだから意外だよね」

「だな」


 琴音も俺と同様、絵美は姿勢がよくて所作が洗練されていると感じているようだ。

 琴音に運動させれば、ちょこまかと動きはするものの効率よい動作とは程遠い。そこが小動物めいて愛らしく見えるところでもあるのだが。

 絵美は立っていても座っていても姿勢が美しい。歩くときも歩幅がしっかりしていてペースが遅いわけでもないのに、どこか余裕があって優雅だ。

 椅子に腰かけるときにスカートがしわにならないようにする仕草や、何気なく髪をかきあげる手の動きさえ、自然で流麗だ。

 絵美の所作の美しさに身体能力が貢献していないのなら、継続的な習練から生まれたものなのだろう。

 何かしらの習い事によるものかもしれないが、その作法が日常に浸透するほど習熟しているのは感嘆するほかない。


「でも、体育のときいつも私と一緒だったんだよ」

「聞いた。実際のところどんな感じなんだ?」

「類は友を呼ぶって感じ」


 琴音同様、身体能力も運動センスもないということか。


「よくわかった。まあそれがきっかけで仲良くなれたならよかったな」

「うん。あ、そうだ。絵美ちゃんにお願いがあるんだけど」

「えっ、はい、何でしょうか?」


 自分に話を振られると思っていなかったのか、絵美は目をぱちくりさせて驚いている。


「あのね、お兄ちゃんも私も安居君だし安居さんでしょ? わかりづらいから名前で呼んで欲しいな」

「それは……」

「名字呼びはよそよそしいなって思ってたから、ちょうどいい機会だし名前で呼んでよ」

「それはいいな。じゃあ俺も絵美って呼ぶよ」

「うん! それがいいよ」


 話の流れに便乗して俺も呼び方を改める。内心では既に絵美と呼んでいたけれど。


「ええと……琴音さん、でいいですか?」

「オッケー、絵美ちゃん。お兄ちゃんの方も」

「あの……その……」


 琴音の方はあっさりと呼べたのに、俺を呼ぶとなると言葉を詰まらせて俯いてしまう。よく見ると耳まで真っ赤になっている。

 微笑ましいものを見るような顔の琴音とアイコンタクトをとってから、絵美の言葉を待つ。


「すみません。男の子のことを名前で呼んだことがなくて……少し心の準備が」

「大丈夫だよ。お兄ちゃんはお兄ちゃんだから」


 琴音が絵美には伝わらない励ましの言葉をかける。あまり気負い過ぎるなという意味だろう。

 さらにいくらかの沈黙の後、絵美が意を決したように口を開いた。


「あっ、あ……つし、君」

「ああ、敦君だ。じゃあ、これからはそれでよろしくな、絵美」

「はい、……敦君」


 顔の赤みは引かないものの淀むことなく呼んでもらえた。


「やった! これで三人とも仲良しだね」

「だな。さて、そろそろ本題に入ろうか」

「そうだ、ちゃんと言われた通りの持ってきたよ」

「ありがとう」


 机の上のスクラップブックは、表紙に年度と新聞委員会とだけ書かれた簡素なものだ。

 琴音が机に置いたとき、指定通りの年度のものであることは確認できている。


「ありがとうございました。……琴音さん」

「えへへ、どういたしまして。じゃあ私は戻るから、何かあったら呼んでね」


 琴音は浮かれたような足取りでカウンターに戻っていく。

 絵美がその背中に「ありがとうございます」と言いながら軽く頭を下げた。

 琴音のおかげで、大分和らいだ雰囲気になったな。後でたっぷりお礼をしよう。


「ではでは始めようか、絵美」

「はい、よろしくお願いします。それで、……敦君の書きたいこと教えてもらえますか?」

「ああ。俺はインタビュー記事を書きたいんだ」

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