K先生

千織

ノンフィクション寄りの物語

僕は予備校の先生が好きだった。


古文の先生は勢いがある漫才師みたいで。

生物の先生はアフリカでフィールドワークしてたし。

英語の先生は翻訳の仕事をしていて。

政経の先生は売れっ子漫画家みたいにたくさんの参考書の締め切りに追われてヒーヒー言ってた。

数学の先生はあまり面白い人じゃなかったけど、最後の講義では僕たちのために自分で歌を作って、ギターを弾きながら歌ってくれた優しい人だった。


でも一番印象に残ってるのは、現代文の先生だ。

すごい、地味な先生。

今だになぜその先生が気になるのかはわからないけど、なぜか”自分に影響を与えたのはこの人なのかなぁ”と思っていた。



♢♢♢



社会人になり、僕は塾で先生を育成し、先生を手配する立場になった。


僕より先に働いていた年配の先生がいた。

彼女は地味だった。

が、彼女が担当した生徒はみんな彼女を好きだった。


僕は子どもと接するときの彼女を観察した。

彼女が僕にどう接するのかも観察した。

彼女と接すると自分がどんな気持ちになるのかを観察した。


子どもは、”嫌な大人を我慢すること”に慣れている。


そんな状態では成績は伸びない。

”なんか嫌だ”という子どもの訴えを聞いて、それがどういう意味なのか僕は嗅ぎ分けて、言語化して、先生の方を直していかなくてはならない。


だからいつも、僕は自分の感覚をもっとも多感な年頃、”中学生”に持っていけるようにしていた。

力づくで動かせる小学生ではなく、妥協しながらも大人を利用する高校生ではなく。

自分がありながら自力は難しく、暴力的だったり妙に純粋だったり、だらしなかったり正義感が強かったり。

行動力も上がり、性差も際立ってくる危うい年齢。

それが中学。


僕は、中学生の自分に彼女が担当としてついたら頑張れるだろうか、という視点で彼女を見ていた。



なるほど、彼女は信頼できる。

彼女は、子どもの観察を謙虚に行う。

伸びる可能性のあることは何でも利用する。

やりとりは、雑談から指導までその子のためという目的の一点に紐づいている。

だから一回一回の授業内容の密度が高い。


指導内容自体は当然優れている。

見通しと実状が合っている。


僕は本人とも、親とも面談する。

本人の自己認識、親が感じていること、講師の観察、この三点を結んだ像がある程度合っていれば、指導の方向性は間違っていない。



僕は講師の絶対評価表を作った。

立場上、評価者となった礼儀として。


彼女がそれだけの力のある先生であることを知っているのは、関係した家族と僕だけ。

さらにその優れた力をスキルとして分解して見れるのは現場では僕一人だけということになる。

彼女の指導者としての人生を、少しでも見える形にしたかった。


おおよそ、彼女がどんな先生かわかったあたりに、彼女に訊いた。


「自分が先生をやるにあたって、影響を受けた先生はいますか?」


彼女は言った。


「私の先生は、子どもたちです」


かっこ良かった。

とても。


でも、僕はこの言葉から得た感動を評価には含めない。


先生の評価は、子どもがすべきだからだ。

次に親。

僕は、その評価にどんな価値があるかを改めて解説しているだけだ。


僕と彼女との間には、常に”子ども”がいたが、それで良かった。

同じ志がある人がそばにいるというだけで、十分だった。

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