欲しいのは「同情」ではなく「配慮」であることがよくわかるエッセイ。

以前テレビで「聴覚障害者が多く生まれる地域」(外国です)のことを取り扱っていました。

そこでは聴覚障害者は特別扱いなどされず普通に過ごしていました。
その地域の健常者はみんな手話を知っていて、口で話すのと同じように聴覚障害者とコミュニケーションをとっていました。

そんな地域にある日「聴覚障害者に人工内耳の手術をしてあげるボランティア」の人たちが来たものの「なんでそんなものをつける必要があるんだ」と、今のままで十分コミュニケーションが取れるのに「口で話すコミュニケーションにこだわる」意味がわからないと反発していたのです。

もしかしたら健常者の方の中には「せっかくボランティアの人が助けてあげようとしているのに」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私はむしろ「これまで『障害者』であっても対等に地域に溶け込んで過ごしてこられた」事実が素晴らしいと思います。

確かに人工内耳は聴覚障害者を助けてくれるものとして優秀かもしれないけれどそれを「全員が必要とするわけではない」というのは当然のことだと思います。

人工内耳をつける選択もつけない選択も両方ありで、ボランティアが一方的に「親切の押し売り」をして「ありがたがれ」というのは違うと思うのです(ボランティアそのものは良い活動だと思うし否定しているわけではありません。ただ、喜ぶ人たちばかりではないというのも事実です)。

何が言いたいかというと「聴覚障害者が人工内耳を『必要ない』と言い切れたあの地域こそが障害者の望んでいる理想の姿なのではないか」ということです。

まあ、身体障害は精神障害とは全然違うので支援の仕方も難しいのですが。
長々と書いた割にわかりにくくてすみません。
ですが「同情」より「理解ある支援」が必要だと訴えているこのエッセイを健常者の方には是非一度だけでも目を通してほしいと思います。

必読エッセイです。