車輪ナスの再発明
みなもとうず
車輪ナスの再発明
野田菜吉は、いつもと変わらない朝の通勤路を歩いていた。完璧に円形に整えられた街路樹が、等間隔で並んでいる。その木々の間から、朝日が幾何学的な光の帯となって地面に落ちていた。
「またか」と野田はため息をついた。
彼の目に映ったのは、歩道の隙間から顔を出した一本の雑草だった。しかし、それは普通の雑草ではない。奇妙にも歪な形の車輪ナスが、その雑草の先端でよろめきながら実っていた。
完璧な円を追求して遺伝子操作された車輪ナスが世に出てから、もう10年が経つ。当初は画期的な発明として持て囃されたものの、今では当たり前の光景となっていた。スーパーの棚に並ぶ車輪ナスは、まるでコンパスで描いたかのような完璧な円をしている。
だからこそ、この歪な車輪ナスは野田の目を引いた。
不完全で、どこか愛らしい。
「おっと」
うっかり立ち止まっていた野田は、後ろから来た通行人にぶつかりそうになった。
「すみません」と謝る野田に、通行人は無表情で頷くだけだった。その手には、円形のスマートフォン。画面には完璧な円の絵文字が並んでいる。
野田は再び歩き出しながら、ポケットの中の社員証を握りしめた。
それもまた、完璧な円形だった。
***
フューチャーフーズの社屋は、巨大な車輪ナスを模した球体だった。野田は自動ドアをくぐり、円形のエレベーターに乗り込んだ。
「おはようございます、野田さん」
甲高い声に振り向くと、新入社員の神保淳が立っていた。その目は異様な輝きを放っている。
「ああ、おはよう」野田は気乗りしない様子で答えた。
「野田さん、今日のプレゼンを楽しみにしていてください! きっと会社の歴史を変える提案になりますよ」
神保の興奮した様子に、野田は眉をひそめた。「へえ、そりゃ楽しみだ」
皮肉を込めたその言葉が、神保の耳には届いていないようだった。
エレベーターを降り、野田は自分のデスクに向かった。円形のデスク。円形のパソコン。円形のコーヒーカップ。
「完璧すぎて、どこか間違ってる気がするんだよなあ」
つぶやきながらパソコンの電源を入れると、円形の起動画面が現れた。
野田がメールをチェックしていると、社内チャットが鳴った。円形の通知ウィンドウには「全体会議 10時~ 円卓会議室にて」と表示されている。
「またか」
ため息まじりに立ち上がった野田の耳に、どこからともなく聞こえてくる軋み音。まるで古い車輪が回るような音だ。彼は思わず耳を澄ました。音の正体は、隣のデスクで社員が回している円形のストレス解消グッズだった。
会議室に向かう途中、野田は篠原綾とすれ違った。
「おはようございます、野田さん。今日の会議、楽しみですね」
篠原の口元には、どこか意味ありげな笑みが浮かんでいる。野田は首をかしげながら会議室に入った。
円卓会議室——その名の通り、巨大な円卓を中心に置いた部屋だ。社員たちが次々と円形の椅子に腰掛けていく。野田は、神保と篠原の間の席に座った。
定刻になると、田中社長が入室してきた。その丸々とした体型は、まるで人間車輪ナスのようだった。
「では、会議を始めます」
社長の言葉とともに、天井から円形のプロジェクタースクリーンが降りてきた。
「神保君、君から始めてくれたまえ」
神保が勢いよく立ち上がった。その目は、狂信的な光を放っている。
「はい! 皆様、我が社の車輪ナスに足りないものは何でしょうか?」
会議室が静まり返る。
「それは……より完璧な円さです!」
神保はそう叫ぶと、ポケットから何かを取り出した。手のひらサイズの球体だ。
「これがその答えです。『超完璧車輪ナス』! 現在の車輪ナスの円周率πの精度をさらに100桁上げました。この精度なら、量子レベルでも完璧な円を保てるはずです!」
野田は思わず目を見開いた。「まさか、あんなもの作れるわけ……」
だが、神保の情熱的なプレゼンは続く。
「さらに! この超完璧車輪ナスには、驚くべき特性があります。なんと、重力を無視して宙に浮くのです!」
神保が手を放すと、球体はふわりと宙に浮かんだ。会議室がどよめく。
田中社長が身を乗り出す。「おお、素晴らしい! これは革命的だ!」
野田は呆れながら、隣の篠原を見た。何か言いたげな表情をしている。
「では、篠原さん。君の企画は?」
篠原がゆっくりと立ち上がった。
「私からは、まったく逆の提案をさせていただきます」
彼女は、紙袋から奇妙な形の野菜を取り出した。歪で不格好、どこが車輪ナスなのか判別しがたい。
「これが『不完全車輪ナス』です」
会議室が再び静まり返る。
「完璧を追求するあまり、私たちは大切なものを忘れていませんか? 不完全さこそが、個性であり魅力なのです。この不完全車輪ナスは、一つとして同じ形のものがありません。世界に一つだけの、あなただけの車輪ナスなのです」
野田は思わず、朝見かけた歪な車輪ナスを思い出していた。
篠原は続ける。「そして、この不完全さゆえの特殊能力もあるのです」
彼女がそう言うや否や、手の中の不完全車輪ナスが突然、ピクリと動いた。次の瞬間、ビョコンと跳ねて、テーブルの上を歩き始めたのだ。
「な、なんだこれは!」誰かが叫ぶ。
会議室は騒然となった。神保の超完璧車輪ナスは宙に浮かび、篠原の不完全車輪ナスはテーブルの上を歩き回っている。
その光景を、野田はぽかんと見つめていた。「何がなんだか……」
田中社長が立ち上がり、両手を広げた。
「すばらしい! 両方とも画期的な発明だ。よし、決めた。両方の開発を進めよう!」
神保と篠原が顔を見合わせる。予想外の展開に、どちらも戸惑っているようだ。
野田はため息をついた。これから先、どんな騒動が待っているのか想像もつかない。彼は静かに立ち上がり、円形の時計を見た。
「お昼の時間です。私は食堂に行ってきます」
誰も彼の言葉に気付かない。会議室では、浮遊する車輪ナスと歩く車輪ナスを囲んで、興奮した議論が続いていた。
野田は肩をすくめ、円形のドアをくぐって部屋を出た。廊下には、どこか懐かしい軋み音が響いていた。
野田が食堂から戻ってくると、オフィスは既に別世界と化していた。
廊下には、宙に浮かぶ超完璧車輪ナスが列をなして漂っている。まるで未来的な提灯のようだ。その隙間を縫うように、不完全車輪ナスが床を這いずり回っていた。
「おいおい、冗談じゃないぞ」
野田は呆れながら、自分のデスクに向かった。が、その椅子の上には既に不完全車輪ナスが鎮座していた。野田が近づくと、ナスは突如立ち上がり、びょこびょこと机の上に逃げていった。
「だから言ったんだ。こんなものを作るから……」
ため息をつきながら椅子に座った野田の耳に、どこからともなく悲鳴が聞こえてきた。
「きゃっ!」
声のする方を見ると、経理部の佐々木さんが、超完璧車輪ナスに囲まれていた。ナスたちは彼女の周りをゆっくりと旋回している。
「た、助けて! 私、円盤恐怖症なの!」
佐々木さんは震える声で叫んだ。が、誰も彼女を助けようとしない。皆、自分の周りの奇妙なナスたちに夢中だったのだ。
野田は静かに立ち上がり、佐々木さんに近づいた。「落ち着いて。ただのナスですよ」
彼が手を伸ばすと、不思議なことに超完璧車輪ナスたちは一斉に離れていった。
「あ、ありがとうございます……」佐々木さんはほっとした表情を浮かべた。
その時、社内放送が鳴り響いた。
「緊急会議です。全社員は直ちに円卓会議室に集合してください」
田中社長の声だった。
人々が続々と会議室に向かう中、野田はゆっくりと歩を進めた。廊下では、超完璧車輪ナスが人々の頭上を漂い、不完全車輪ナスが足元をうろついている。まるでSF映画のワンシーンのようだ。
会議室に入ると、そこはさらなる混沌の渦中だった。
神保は興奮した様子で、浮遊する超完璧車輪ナスの周りをぐるぐると回っている。「見てください! これこそ究極の完璧な形なんです!」
一方、篠原は床を歩き回る不完全車輪ナスを追いかけ回していた。「ほら、この個性的な動き! 消費者の心をつかむに違いありません!」
田中社長は、その中央で途方に暮れたような表情を浮かべていた。「み、皆さん、落ち着いてください。我々は今、歴史的な瞬間に立ち会っているのです」
野田は、部屋の隅に寄りかかりながら、この光景を眺めていた。「歴史的な狂気の瞬間、というところかな」
そのとき、予想もしなかった事態が起きた。
天井付近を漂っていた超完璧車輪ナスの一つが、突如として落下し始めたのだ。
「あっ!」神保が叫ぶ。
落下するナスは、ちょうど床を歩いていた不完全車輪ナスの真上にあった。
「危ない!」今度は篠原が叫ぶ。
誰もが息を呑む中、二つのナスは激突した。
瞬間、まばゆい光が走った。
「な、なんだ!?」
野田は思わず目を覆った。光が収まると、そこには信じられない光景が広がっていた。
二つのナスが融合したのだ。できあがったのは、完璧すぎず不完全すぎない、どこか懐かしい形のナスだった。
「こ、これは……」神保が絶句する。
「まるで……」篠原も言葉を失う。
野田は思わずつぶやいた。「ただのナスじゃないか」
田中社長が震える声で言う。「こ、これこそ我々が求めていたものなのかもしれない……」
その瞬間、会議室中の超完璧車輪ナスと不完全車輪ナスが、まるで意思を持ったかのように動き出した。
「おい、まさか……」
野田の予感は的中した。ナスたちは次々と衝突し、融合し始めたのだ。
眩い光が会議室を覆う。
「くっ……」
野田が目を開けると、会議室は一面のナスに覆われていた。床も壁も天井も、すべてがナスでできているかのようだ。
「こりゃあ、とんでもないことになったな……」
野田はため息をつきながら、ナスだらけの床を踏みしめ、出口へと向かった。
野田は、ナスの海と化した会議室を後にした。廊下も同じ状況だ。壁という壁が、床という床が、天井という天井が、すべてナスで覆われている。
「まったく、車輪の再発明どころか、ナスの再発明じゃないか」
彼は呟きながら、足元のナスを踏み潰さないように気をつけて歩を進めた。
エレベーターに向かう途中、野田は立ち止まった。窓の外を見ると、会社の敷地全体がナスに覆われていくのが見えた。巨大な車輪ナスを模していた会社の建物は、今や巨大なただのナスと化していた。
「ふむ」
野田は腕時計を見た。まだ午後3時だ。
「こりゃあ、今日の仕事はお終いだな」
そう判断した野田は、ナスの海をかき分けてエレベーターにたどり着いた。が、エレベーターもナスで埋め尽くされていた。
「しょうがない、階段か」
20階分の階段を降りる間、野田の頭の中はナスでいっぱいだった。超完璧車輪ナス、不完全車輪ナス、そして元のナスに戻ってしまった大量のナス。
「結局のところ、何が言いたかったんだろうな、この騒ぎは」
1階に到着した野田は、なんとかナスの隙間を縫って正面玄関にたどり着いた。ドアを開けると、外の世界は変わらぬ日常が広がっていた。車輪ナスの街路樹、円形の道路標識、球形の街灯。
「ああ、相変わらずか」
野田はため息をついた。振り返ると、会社の建物は完全にナスに覆われ、ただの巨大なナスのオブジェと化していた。
「明日から通勤する場所がなくなっちまったな」
そう呟きながら、野田は帰路についた。
道すがら、彼は朝に見かけた歪な車輪ナスを探した。案の定、そのナスはまだそこにあった。雑草の隙間から顔を覗かせ、どこか誇らしげな様子さえ見せている。
野田は立ち止まり、そのナスをじっと見つめた。
「お前は、よくぞ生き残ったな」
彼は膝をつき、そっとそのナスに手を伸ばした。
「少し失礼」
野田は歪な車輪ナスをそっと摘み取った。手の中で、それはわずかに脈打っているようだった。
「完璧じゃないが、かといって不完全というわけでもない。ただ、ナスがナスらしくあるってことか」
彼はナスを袋に入れ、再び歩き出した。
家に着いた野田は、台所に向かった。まな板の上に歪な車輪ナスを置き、包丁を手に取る。
「さて、どんな味がするかな」
包丁が空を切る音が響く。
野田は切ったナスの一切れを口に運んだ。
「ん?」
彼の目が少し見開かれる。
「なるほど。意外と美味いじゃないか」
窓の外では、夕日が沈もうとしていた。その光は、キッチンに置かれた普通の円形の皿に反射して、歪な影を作っていた。
野田は、もう一切れのナスを口に運びながら、ふと思った。
「明日は何が起きるかな。車輪の再発明か、はたまた別の何かの再発明か」
彼は肩をすくめ、「まあ、どうでもいいか」と呟いた。
そうして彼は、完璧でも不完全でもない、ただのナスの味を楽しみながら、静かな夜を過ごしたのだった。
(終)
車輪ナスの再発明 みなもとうず @uzuminamoto
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