信条破綻(短編)

凩芥子

『信条破綻』

 私がそのアパートに到着した時、アラカワと名乗るその男はリビングの真ん中でベランダの方に向かって呆然と突っ立っていた。ベランダへと出るための窓は開け放たれ、外から入ってくる風でカーテンが揺れていた。外はまだ明るいのに日当たりが悪いせいで日光が入り込む隙を一切与えていないことがこの部屋をより陰鬱なものにしていた。私が廊下をゆっくりと歩くとフローリングがかすかに軋んだ。その音がこの空間に時間という概念を与えているかのようで、音が上がるたびに私の心拍数は上がっていった。彼はゆっくりと私の方に振り向き、

 「合鍵を渡しておいて正解でしたね。」

と静かに言った。


 ひと月ほど前、私は喫茶ルーブルという小さな店でアラカワと初めて対面した。前日の夜に私のもとに一件の仕事の依頼が来て、依頼主の名前には『アラカワ』とだけ記載されていた。送られてくる依頼には本名がそのまま記載されていることがほぼないので特に気にも留めなかった。メールの仕事内容に興味を持ったのは間違いないが、喫茶店で待ち合わせたのは単に仕事の依頼について話すことが目的なのではない。それはいわゆる『ポリシー』というようなもので、私は仕事を任されたらまず最初に依頼主と直接会うことにしているのだ。


 喫茶ルーブルに予定より早く着いたのでコーヒーを注文し、窓から雨に濡れる街とその雨の間をそそくさと行きかう人々に目を向けていた。喫茶店のドアが開き、一人の男が入ってきたのが目に入った。長身細身で髪の毛はクルクルとパーマのかかったような見た目で、あごに無精ひげを生やし、黒いレインコートは雨でぐっしょりと濡れていた。間違いない。アラカワだ。直感でそう思った。


 アラカワは席に着くや否や気さくな雰囲気で流暢に私に自己紹介をし、やってきたウェイターにポークチョップを注文した。よほど喉が渇いていたのか目の前に出された水の入ったコップを一気に飲み干すと、ようやく落ち着いた様子で話し始めた。「僕ね、版画家なんですよ。あんまり聞きませんよね。版画ってわかりますか。木を彫刻刀で彫っていって作品にするんです。小学校とかでやりませんでした?」

と言葉を並べられ、幼少期のことを思い返していると彼はそのまま話を続けた。

「まあ版画家なんて言っても作品で飯を食えているわけじゃないから堂々と言えたもんじゃないのかもしれないけど…。でもどうしても表現したいものがあって、残したいものがある。そしてそれを色んな人に伝えたい。だから心だけはいつでも一人前のアーティストなんです!」

急に彼が大きい声を出したのでさっき注文をとったウェイターがこっそり視線をこっちに向けたのを肌で感じずにはいられなかった。

「でかいことを言っているように聞こえるかもしれないけど、そういう思いがあるからこそ自分の作品は我が子のようなものなんです。他人にぞんざいに扱われることだけは絶対に許せないんです。絶対に。」

じっと私の眼を見るアラカワに、それが今回私に依頼した理由ですかと訊くと彼は息を呑み、そしてゆっくりと頷いた。


 アラカワは到着したポークチョップを食べながら彼の身に起こった出来事を説明した。美術大学在学中に出会って以来付き合いのある友人がアラカワの作品を自宅から勝手に盗んでは自作のものとして動画投稿サイトに紹介動画をアップロードしていたのだ。動画で使われた作品はすぐさま元の場所に戻されていたため、五年もの間アラカワは全く気付かずに作品を作り続けていた。気づいた時には友人のサイトは登録者数六十万人にも膨れ上がっていた。

「あなたに依頼するまで奴に対して訴訟を起こすこととか不法侵入者として奴を警察に突き出すこととかいろいろ考えました。でもそれじゃあダメなんですよ。作品としての価値を剥奪された我が子たちは殺されたも同然で、自分のできることの範疇では復讐できないと思うんです。」

そう強く言った後、アラカワはじっと目の前のパセリとケチャップの残った皿を見つめながら私にしか聞こえないように  

「だからあなたに殺してほしいんですよ。」

と言った。


 後日、アラカワから一通の封筒が届き、中にはアラカワの住むアパートの合鍵が入っていた。殺害計画はいたってシンプルで、まずアラカワが作品を完成させたことをそれとなく友人に伝える。アラカワが仕事に行っている日中、私がアパートの近くで張り込みをし、友人が盗みに入ったところを合鍵で入って殺害するというものだった。この手の殺しは何度か経験があるから大したことはない。これも『ポリシー』なのだが、現場をできる限り汚したくないから化学薬品による有毒ガス、もしくは炭火で一酸化炭素中毒を引き起こすかで始末するようにしている。遺体から出た血や体液が残ったり付着すると後々厄介になるのだ。


 計画実行を一週間後にひかえたその日、雨ばかりが続いていたこの街を久しぶりに太陽が照らし、アスファルトから気持ちの悪い湿気が顔を出していた。昼を少し過ぎたころ、アラカワから使い捨ての携帯電話に着信が入り、今からうちに来てくれとだけ告げられた。切羽詰まった雰囲気もなかったのでさほど急ぐこともなく彼のアパートに向かった。


 陰鬱な空気をまとったリビングで私を見るアラカワ。脱力したその表情からは安堵すらうかがえる。よく見てみるとパーマのかかった彼の髪に凝固した血液がべったり付着していた。その光景は私にあの時のケチャップのついたパセリを鮮明に思い出させた。誰に求められることのないこれからただ廃棄されるだけの存在。パセリはポークチョップを引き立てるだけの存在でしかなかったというのか。アラカワはゆっくりと視線をベランダの方に戻し、そしてまたゆっくりと右側にあるダイニングテーブルの方に歩みを進めた。


 リビングに入ってくるときはダイニングテーブルの陰になっていて気づかなかったが、一人の男があおむけで倒れているのに私はその時気づいた。その男は天井を見つめたまま眉間から大量の血を流して絶命している。眉間に刺さっているのはナイフではなく彫刻刀だと私は確信した。

「本当はあなたに頼みたかったんですが、偶然奴と鉢合わせましてね、今までのことを問いただしたんですが、しらばっくれるどころか開き直り始めたんですよ。お前の作品の価値は俺がいちばん分かってるんだ、作品の良さを広めてもらえるんだから感謝しろとかなんとかぬかしやがりまして。気づいたらやっちゃってました。すみません。これから警察に自首しにいきます。報酬はもちろん変わらずお支払いしますから安心してください。」

と一息に言い、全身から力が抜けたかのようにアラカワはその場に座り込んだ。


 これも私の『ポリシー』というやつなのだが、完遂していない仕事の報酬を受け取ることは絶対にない。

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