隣の席の榎本さんは絶対ウチのこと好きだから!

音愛トオル

隣の席の榎本さんは絶対ウチのこと好きだから!

 ウチが今ノートに書いているのは数学の証明でもなければ、前の時間の古文の現代語訳でも次の時間の生物の予習でもない。言い換えればそれは証明と言ってもいいかもしれない――ウチ、逢沢巡あいざわめぐるがQ.E.Dしたいのは目下ある人の本心だった。

 1、授業中よく目が合う。黒板に集中しろと友達には言われたけど視線を感じるのだから仕方ないよね。

 2、よく教科書を忘れてくるから、頻繁にウチが見せている。机をくっつけるのはその時だけだもんね。

 3、普段はおとなしいのにウチと話す時だけすごい嬉しそう。まだ秋は先だというのに心なしかほっぺたが紅葉しているような気がする。

 そしてその4。


「あっ、ご、ごめんなさい。いやっ、じゃなくて――えと、ありがとう」

「う、うん。気にしないで大丈夫だよ榎本えのもとさん!」


 隣の席の彼女の名前は榎本穂音ほの。1年生の時から同じクラスだったが、隣の席は2年になって初めて。静かな子だな、髪綺麗だな、前髪あげたらどんな感じかな。ウチの印象はこんな感じ。

 その榎本さんの消しゴムをある日、たまたま拾ったことがあった。だいぶ緩くなっていたのか、落ちた拍子にケースが外れてしまった消しゴム。底に「1-2」(ウチたちの去年のクラスだ)と律儀に書いてあり、ウチは消しゴムの側面に「榎本」とか「穂音」とかを期待した。


――逢沢さん。


「み、見た……?」

「ん?何が?」


 しっかり見てしまった……その4。

 榎本さんは、「消しゴムに好きな人の名前を書く」、例のおまじないをしていたのだ。以上1から4により、多分、そう、きっと、間に推量のあらゆる副詞を挟んでから、ウチは言った。


「いや、だからさ――隣の席の榎本さんは絶対ウチのこと好きだから!」


 もちろん、心の中での叫びだった。


 次の日の小テストが散々な有様だったのは、まあ言うまでもないね。



※※※



 頼れる友人、のせちゃんこと一ノ瀬蘭いちのせらん曰く。


「……好きだな」

「だだ、だよね!?」


 ウチは肩に垂れたサイドテールをくしくししながら、のせちゃんに身を乗り出した。場所は3つ離れたクラス。ウチと榎本さんのクラスとは階も違うし、身振り手振りの割に声は限りなく潜めていたから誰かに聞かれる心配もなし。

 のせちゃんは緩くウェーブのかかった癖っ毛のボブカットで、そのふわふわな小動物みたいな雰囲気が可愛い。性格は全然小動物じゃないけど。

 中学校の頃からの親友だ。


「1年の時から?」

「ううん。1年生の時はたまに話すかなって感じだった」

「ふうん。で、肝心のあんたはどうなの?」


 机に半身をぐい、とのっけた状態のウチの肩をちょこちょこ触るのせちゃんの指をぴん、と弾きながらウチは考える。そう、そこが問題――いや問題じゃない、悩みなのだ。

 今までのウチはあまりにも、榎本穂音さんのことを知らなかった。


「それが聞いてよ」

「聞いてるぞ」

「……榎本さんまじで可愛いの」

「――はぁ」


 コイツ分かってないな。

 いや、のせちゃんにとっては榎本さんは半ば架空の存在と言ってもいい状態。ここはウチがのせちゃんにじっくりと話さないとね。

 ウチは「いい?」と椅子を引き直し、腕組をして、かけてもない眼鏡をくい、と上げるふりをした。


「まず榎本さんは声が可愛い。去年はそんなに意識してなかったけど、澄んだ湖のほとりで優しく歌う深窓の姫とかそんな感じ」

「おお、すげえ」

「そして髪が綺麗。腰くらいまであるのにさらっさらだしめっちゃいい匂いする」

「おお、匂い」

「あ、直接嗅いだんじゃないよ!?風で、ね?おほん、そしてあと、目が合うと顔が赤くなって前髪をくしくししたり、ガチガチだけど柔らかい感じに笑ってくれるし」

「おお、やべえ」


 コイツてきとーだなさては。


「分かった、じゃあとっておきだけど――体育の時、榎本さんって実は前髪分けてるんだけど。これはつい昨日知ったヤツね……目が、すっごい可愛い」

「おお、一気に」

「……一気に?」


 のせちゃんは紙パックのジュースを吸い吸い、ウチの話を頬杖付きながら聞いていたが、最後の最後で姿勢を正した。どうやら分かってくれたみたいだね。

 そう思っていたウチは、次の瞬間頭が真っ白になった。


「いや、あんたの口から『澄んだ湖の』とか出ると思わないじゃん。って人を」

「え?」

「文学的にするんだな~って思ってたら」

「え?」

「最後の最後で語彙力が可愛いに持ってかれて」

「え?」

語彙力減るよな~って」

「え?」

「思って、その現象が同時に見れたから感心してた」


 のせちゃんがなんか言ってるけど、ウチは理解が追いつかなかった。どうしてか急に乾いてきた喉を潤すために「おいそれ私のジュース」いったん紙パックで水分補給をした。頭の回転も足りない気がして「おいそれ私のデザート」なんかそこにあった苺もほおばった。

 甘かった。


「……いや、榎本さんがウチのこと好きでは、という話をしてたんだけど」

「うん。だから、もう隣の席になって2か月くらいでしょ。その間にあんたも好きになってたんじゃない?」

「――そう見える?」

「まあかなり。あんたの数学ネタに付き合うなら相似よりも合同に近いかな」

「まんまじゃん」


 ウチは頭を抱えた。みるみるうちに身体が熱くなってきて、のせちゃんに見られるのも恥ずかしいからウチは「おいここ私の机」机に突っ伏した。

 突っ伏して、足をじたばたする。いてっとか聞こえた気がしたけどまあいいよ今は。声にならない声がくぐもってウチの顔に反射する。ぺちぺちと、脳内で擬音が響く。

 唇がぷるぷる震えて、なんか変な汗も出て。


 ようやく顔を上げられたころには、昼休み終了の予鈴が鳴っていた。


「……収まった?」

「……うん」

「ほら、これで拭きな。色々ついてる」

「……うん」

「ジュース残りいる?」

「飲みかけはいらない」

「あんたね……。ほら、授業始まるから行きな。話ならまた聞くから」

「――ねえウチ、次の時間どんな顔して授業受ければいいと思う!?」


 のせちゃんに背中を押されながら教室の出口までとてとて歩いて来たウチは、別れ際、たまらずそう聞いていた。ウチの表情がよっぽど迫真だったからか、のせちゃんはいつになく真剣な顔だ。

 そうかと思ったら、急に噴き出した。


「え、な、なに!?なんか変?」

「ごめんごめん。違うよ。大丈夫、巡はめっちゃ可愛いから」

「あ……あ、ありがと」


 ほら行った行った、とのせちゃんに肩を掴まれてくるりと回転させられたウチは、半ば無理やり教室の外へと放り出された。その刹那、耳元でのせちゃんの囁きが聞こえて、だから、ウチはその勢いのまま走って教室に戻った。

 こんなの、初めてだ。

 榎本さんともっと話したい。色んなことを知りたい。友達――よりも、たぶん、ウチは。


「がんばれ、か」


 教室がある階に着いて、ウチは走るのをやめた。

 一歩一歩を踏みしめるように、教室に戻る――榎本さんの隣に。


「ひゅむっ」


 のせちゃんのばか。

 ほんの50分前までなんともなかったのに、なんか、榎本さんを見るとめっちゃどきどきするようになっちゃったじゃんか。



※※※



 昼休み後の5限の授業は、ウチなりの採点ではギリギリ赤点回避だ。

 まず、担当の先生の目くばせと日直の挨拶が終わってすぐあと、椅子を引く時にさりげなく榎本さんを覗き見たら(昼休みより前にはそんなことしなかったけど)、


「あ」

「あっ」


 視線がぶつかった。

 榎本さんは慌てて逸らし、ウチは中腰のまま数秒座れなかった。


「ん?逢沢どうした?何かあったのか?」

「あっ、いや!なんでも!」


 がたがたどすん。

 ウチのおかげで昼食後の授業の空気はだいぶ砕けた雰囲気になった。けれどウチはその真逆。ある事実(だと思う)を前に、ノートどころか教科書すら鞄から出せなかった。

 榎本さんのあの慌て様、いつも目が合った時とだいぶ異なる。ひょっとして、榎本さんは挨拶の時の度にウチをちらと見ていたのだろうか。それで、今日のこの時間になって初めて目が合って、「ずっと見てた」ことを知られて恥ずかしくて……?


(い、いけない。なんか普段ならしない変な考察になってる)


 しかもそうだったら嬉しいかも、とは。


「……あ、逢沢さん」

「は、はいっ!?」

「あ、あの……大丈夫?体調、とか」

「――あっ、う、うん。大丈夫。ありがとね」

「そっか。良かった」


――あっずるい。


 ウチのせいで榎本さんに心配をさせてしまった罪悪感よりも、安堵から零した榎本さんの微笑みの可愛さが胸を衝く。掴まれて、惹きこまれる。

 え、榎本さんってこんなに可愛かったっけ……?


「あ、あの!」

「はいっ」

「きょ、教科書……いつも見せて貰って悪い、から。えと、もし、良かったら――み、見る?」

「教科書……」


 既に先生は黒板に今日の分の教科書のページを右上に書き、ポイントを解説し始めている。ウチは授業前にはいつも用意を済ませているので、未だに机の上が空っぽなのを見た榎本さんはウチが教科書を忘れていると思ったんだろう。

 それってウチのことをいつも見ているから分かったんだよな、と思うと嬉しさと恥ずかしさで頭が真っ白になりそうで、実際うまく回ってなかったから、


「じゃ、じゃあお願い。ありがと」

「う、うん」


 ウチは教科書を忘れたことにしていた。

 まずい、今のウチが机をくっつけて授業をしたら肩とか腕とか肘とかいろいろとか気になって授業どころではない。などと懊悩しているうちに机がくっつく音が聞こえ、間に教科書が広がる音が聞こえたから、ウチは諦めた。

 こうなったら、入学、いや、入試の日以来のまじめさを発揮するしかない。


「ありがとう」


 榎本さんの表情とか視線とか、いろいろイベントがあり得たはずのその時間、ウチは過去最大の集中力を発揮して授業を受けた。その結果、今までにないほど整ったノートが完成し、謎の達成感が胸を満たす。

 授業終了のチャイムが鳴ってもしばらく、達成感の余韻に浸っていると、


「の、ノート、すごいね」

「え?あ、と……え、榎本さんが教科書見せてくれたから、張り切っちゃった!な、なんて」

「……!……!?え、えと……ありが、とう?」


 意味不明の返事をしてしまったが、なんだか榎本さんは嬉しそうだったから、まあよし。机を離して、道具をしまって、もう一度榎本さんにお礼を言って、無事5限終了。

 授業態度は花丸だったが、いつもの落ち着きは0点、バランスを取って、ギリギリ赤点回避。

 いつもならスマホをいじったり軽く教科書をめくったりするウチは、いてもたってもいられなくて意味もなく席を立ち、廊下を歩いた。トイレに行くわけでもないから適当に廊下の端まで歩いて、階段を上って、降りて、何食わぬ顔で教室へと戻る。

 休み時間の廊下はごった返しているからこんな行動をしても誰にも咎められない。歩いているうちに熱も引いてきて、少しだけ冷静になれてきた。

 この調子なら、なんとか、授業は受けられるだろう。


「……でも」


 話すきっかけなんてなくて、せいぜい世間話くらいしかないウチと榎本さん。

 それでどうやって、距離を縮めればいいのだろう――


 そう思ったウチの芽生えたばかりの恋心が、さっそぐ揺らぐことになるとは、教室へ向かっている間は考えもしなかった。


「……え?」


 教室の扉を開けた瞬間に目に飛び込んできたある光景を見て、ウチは自分の愚かさを知った。

 そこには、、ウチの隣の隣の席の子を見る榎本さんの姿があった。その子の名前は確か遠藤朝陽えんどうあさひさん、よく思い返してみれば休み時間は榎本さんはよく遠藤さんと話している気がする。

 あれ?


(も、もしかして)


 ウチは、最悪の勘違いをしていたのではないだろうか……?


(榎本さんが見てたって、ウチじゃなくて――)


 その先を口にすることが、もはや怖いくらいに、ウチは既に、榎本さんのことを想っていたのだった。



※※※



 わたしは逢沢さんが席を立った隙に、朝陽ちゃんの元へ駆け出した。


「ど、どうしよう朝陽ちゃん!」


 わたしは自分の声が苦手だ。大きな声を出せなくてよく聞き返されるし、細くてぼそぼそ話して、逢沢さんはどう思っているんだろう。それにこのぼさぼさの髪。

 朝陽ちゃんとは小学校からの付き合いだから、わたしがちゃんと話せるのはいまや 朝陽ちゃんの前だけだ。


「おお、どったのほのりん」


 わたし、そんなに可愛くないのに――朝陽ちゃんのあだ名に似合う女の子にいつかなれるだろうか。


「え、えっとね。あ、逢沢さんが、なんか、いつもよりもわたしと話してるとき、嬉しそうな顔で」

「ええ、あの逢沢さんが?」

「そうなの!どうしよう朝陽ちゃん」


 わたしが逢沢さんのことが好きだと、朝陽ちゃんには伝えてある。朝陽ちゃんは色々と協力してくれて、「教科書持ってるのに見せて貰え計画」も朝陽ちゃん立案。

 おかげで数日に1度は逢沢さんと近づけて、幸せすぎて授業に集中できないんだけど。


「ね、ねえこれってもしかして」

「い、いやいや待って、待ってほのりん。気持ちは分かるけど、だって2人の接点って隣の席ってだけでしょ?まだあんまり話とかも出来てないし」

「……そっか」

「あっ、えと、違くてね。逢沢さんの今日の様子がどうあれ、そうだなあ……まずは、『隣の席の子』から『友達』を目指してみようよ」

「ともだち……って、どうすれば」


 朝陽ちゃんは何かをすらすらと書き、それをずい、とわたしに押し付けてきた。「それを逢沢さんに言ったらいいよ。ほら、もう席戻りな」


「え、ええっ?」


 わたしはよくわからないまま席に戻り、朝陽ちゃんがくれた紙をまじまじと見つめる。そこにはこう書いてあった。


『今日一緒に帰ろうって誘ってみたらどう?去年からクラスも同じで、席も隣なのにあんまり話したことないからとか言ってさ!』


 え、ええ……!?


(む、むりむりむり、むりだって朝陽ちゃん!)


 わたしは脳内で逢沢さんと並んで帰る様子を想像して、そのあまりにも幸福な光景に顔が真っ赤になって、口元が緩むのが分かった。でも、こんなことわたしに言えるとは思えない。

 抗議の意味も込めて、わたしは朝陽ちゃんに目線を送った――


 ちょうど、逢沢さんが帰ってきた。


「……え?」


 わたしは数秒、朝陽ちゃんを見つめていたから、少し上から逢沢さんの声が聞こえてきて気が付いた。慌てて紙を隠し、スマホをたぷたぷする。


『朝陽ちゃん、こんなの無理だよ!』

『大丈夫だと思うけどなぁ。逢沢さん、ああ見えて意外と』

『……意外と、何?』

『まあ、誘ってみたら分かるよ、多分!頑張って!』

『ちょっと……!』


 わたしはスマホをしまい、いつの間にか隣の席に戻ってきていた逢沢さんの横顔を見つめる。いつか、隣の席からだけじゃなくて――

 いつまでも、このままではそれは叶わないんだろうな、きっと。席も、夏休み前には席替えするって先生が言ってたし、あと数週間だけだ。

 そうなったら、わたしとは住む世界が違う逢沢さんとの接点は、また、1年生の時みたいに――


『お互い頑張ろうね!』


 1年生、同じクラスになって、わたしは逢沢さんと近づけると思っていた。逢沢さんの素敵な所や好きなところはたくさん増えたけど、でも、会話だけが増えなかった。

 このままで、いいわけ、ない、よね。


「……よし」

『ありがとう朝陽ちゃん。言ってみる』

『お、よし、頑張れ。ここから見てるから』


 わたしは意を決して、その言葉を口にしようとした。


「ねえ、榎本さん」

「は、はいっ!?」


 その瞬間、逢沢さんがゆっくりと、身体ごとこちらを向いて話しかけてきてくれた。わたしは何が起こったか分からず、声を裏返してしまった。

 ああ、変に思われてないかな。


「あの、さ。もし、良かったらでいいんだけど」

「は、はい」


 なんだろう。珍しく今日は、逢沢さん教科書忘れてたし、次の日本史も忘れちゃったのか「今日、一緒に」――え、一緒に?

 続く言葉の後、わたしは自分がどう返事をしたか、覚えていない。


「一緒に帰らない?」



※※※



 ウチは浮かんだ案に全て、斜線を引いた。

 明日の朝から挨拶の後世間話をしてみる、とか、「教科書持ってるのに忘れちゃったふり」をやるとか。

 他にもいくつかあったきっかけづくりの、その全てに。


(榎本さん、遠藤さんのことをあんな風に見てた……今もスマホで、遠藤さんと話してるのかな?見たことない表情……)


 このままじゃ何も変わらないと思ったウチは、ええいままよと榎本さんを一緒に帰ろうと、誘ってみたのだ。断られたら明日の世間話に切り替えればいいし、まだ、ウチの始まったばかりの想いを諦めるのは早すぎるだろう。

 勢い任せのお誘いの返事は、榎本さんの顔を見れなかったのが悔やまれるけど、


「……えへへ。う、嬉しい。いっ、いき――ええと、あの。あれ?うん……は、はい!喜んで?ええと、か、帰ります!じゃなくて、い、一緒に……あ、そうだっ、えと、一緒に帰りませんかっ」


 というものだった。

 かなり動揺させてしまったようで、ウチは手をわたわたさせる榎本さんに少し近寄った。なんか、全然身体ごと目が合わないし。


「あ、ありがとう榎本さん。ご、ごめんね?無理はしなくていいから――」

「む、無理なんて!わたし、すごく嬉しい」

「あっ、そ、そっか……お、落ち着いた?」

「あぇ、えと……はい。すみません……」


 これは、OK、でいいんだろうか。

 少なくとも嬉しいと言ってくれたから、多分OKだ。

 帰る、帰る、榎本さんと一緒に――


「どぅえへへ」

「……?」


 想像したら変な笑いが出てしまった。

 でも、うん、よし。

 ちょっと今日は掃除を早めに片付けて一刻も早く榎本さんと帰るぞ。そのためだったら日本史のノートもまた完璧に取ってやろう。

 有頂天のウチのノートは果たして、再びの金賞だった。



――そして、放課後。


 ウチは榎本さんと並んで下校していた。



※※※



「今日はありがとね。急に誘ったのに」


 サイドテールをくしくし。


「あ、うん。えと、大丈夫」


 前髪をくしくし。

 

「……あの。なんで、逢沢さんはわたしなんかを誘ってくれたの?」

「え?なんでって」


――あなたが好きらしいからです。


「だって、わたし、あ、逢沢さんと違ってその、地味、だし……声も小さくて、話とかも面白くな、なくて」


 ウチは虚を突かれた。

 榎本さんはそんな風に思っていたのか。今も、スクールバッグを抱えて、自信なさげに歩いている。全然、楽しそうじゃない。

 教室での表情が、ない。


「だから、なんでわたしなんかを――」

「なんか、じゃないよ」

「え?」


 榎本さんがウチのことを本当に好きでいてくれているか、Q.E.Dは直接聞かない限り出来ないけど。でも、ウチのこの気持ちは断言できる。

 のせちゃんに言われた時は半信半疑だったし、初めての「恋」に舞い上がっていた部分がある。でも今なら言える。

 ウチは、


「ウチがね、榎本さんと一緒に帰りたかったの。優しくてまっすぐな声が好き。さらさらでめっちゃ綺麗な髪も。話なんか、ウチも面白くないよ。でもいいの。ウチは、教科書忘れたとか、見せてくれてありがとうとか、それだけでもちょっと楽しかった……1年生の時、あまり話せなかったからさ」

「――あ、逢沢さん」


 ウチは立ち止まって、身体ごと榎本さんに向けた。

 今はまだ、「恋」の方は言えないけど。


「ウチと友達になって欲しいな――

「あ……」


 そう言って差し出したウチの手の、人差し指を、榎本さん――穂音ちゃんの五指が包んだ。


「よ、よろしくお願いします……


 顔を上げて、微笑んだ穂音ちゃん。前髪がかかった目元が、ふいに風にあおられてあらわになる。目じりから頬を伝った雫。

 ウチはそれを、指先で拭った。


「あ」


 どうして自分がそんなことをしたか分からなかったけれど、その瞬間に脳裏に閃いた記憶がその答えを告げていた。


――入試の日。

 緊張で震え、涙を浮かべていた見知らぬ女の子。

 自分も人のことを言えなかったくせに、頑張って大人ぶって、涙を拭って、笑いかけた。


『大丈夫。ウチもめっちゃ緊張してるから!1人じゃないよ……ってのも変、かな』


 驚いた顔をしたその子を見て、ちょっとやりすぎたかなと焦って、


『お互い頑張ろうね!』


 元気になってくれたら、とそう笑いかけた。


「……穂音ちゃん。今更変かもだけど。合格、おめでとう」

「――!め、巡ちゃん。覚えてて、くれてたの……?」

「今、思い出したんだよ。なんか、手が勝手に動いて。でも、そっか。とっくに出会ってたんだね、ウチら……あーあ、去年もっといっぱい話しかければよかったな」

「わ、わたし!わたし、ね、あの時は朝陽ちゃ――ええと、遠藤さん、幼馴染なの。遠藤さんと一緒の高校に行きたいのに、緊張で上手く出来なくて。でもあいざ……巡ちゃんが、励ましてくれたから」


 穂音ちゃんはぱっ、とウチの手を掴むと、ぐい、と引っ張って顔を寄せた。

 出会ってから一番近い距離に、心臓が跳ねる。


「だから、合格できたの。あの時――お礼が、言えなくて。だから、だからね……あの、ありがとう」

「――ウチもね、実は緊張やばくて。穂音ちゃんを見て、ああ皆同じなんだなって。だから、ウチもお礼。ありがと」


 早鐘を打つ鼓動、半歩だけ穂音ちゃんに近寄った足。

 触れた腕、肘、つま先。空気が止まって、音が遠のいて。

 え、何、ウチ、どうなるの……?


「あっ、その、だから……!」


 ひどく慌てた様子でウチの手を離し、5歩くらい飛びのいた穂音ちゃんが、てて、と2歩ほど近づいて、笑った。


「ともだちに、なれて、嬉しい」


 いつか友達が「恋人」になったらもっと。

 ウチは密かに、そうつけ加えた。


「それじゃあ、えと……帰ろっか。穂音ちゃん」

「う、うん……あい、えと、巡ちゃん」

「まだ慣れないね」

「そ、そうだね」


 ウチはこれからの日々に思いを馳せ、下校の時間の永遠を願い、明日の到来を待ち望んだ。



※※※



 友達になってからの榎本さん、改め穂音ちゃん。


「つ、机くっつけてもいい……?」

「あ!巡ちゃん!えへへ、おはよう!」

「め、巡ちゃん。あのね」


 目が合う頻度は増えて、逸らす回数が減り、顔を見合わせて笑いあう時間が増えた。おはようが増えて、話題が増えて、机の隙間が縮まった。

 声をかけると嬉しそうに微笑んで、ウチが素敵だと言ったからかは分からないけれど、髪型や声に少し自信が出たようで。以前よりも、可愛い一面が、増えて。


「巡ちゃん」


 隣の席の穂音ちゃんはきっと、ウチのことが好きでいてくれている。

 その好きが、人としてとか友達になりたくてとかじゃなくて、ああ、「恋」の方であって欲しい。


「どうしたの?」


 そして今は多分、隣の席の逢沢さんは榎本さんが好き、に変わってるな、と。

 名前を呼ばれただけで高鳴るこの胸に、ウチは苦笑したのだった。

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