お別れの手紙
中村ハル
お別れの手紙
便箋から、フォークとナイフを使って文字を剥がす。
大切に綴られた文字は美味しい。
内容によって、また綴った時の気持ちによって、甘く、辛く、ほろ苦い。その濃さも、淡かったり激情であったり、時には劇薬にも似て、寝込むこともある。
繊細な文字の場合には、極々小さな金の楊枝を使って紙からそっと剥がす。
ジャンクフードみたいに、爪の先で引っ掻いて摘まみ上げ、はしたなく口に運ぶものもある。
味わい方は、それぞれだ。手紙によって、綴る人によって、また時には受け手によって、文字の味は変わるのだから。書かれたばかりの新しいうちは淡泊で素っ気なくとも、時間が経過して、絶妙な味わいに変化するものもある。
引き出しの奥や箪笥の中に、または美しい缶に封じられて、大切にしまわれた手紙たち。はたまた、古書店の、古い封書や葉書をまとめて入れた箱の中で熟成されたもの。机の奥で忘れ去られたまま時間が過ぎてしまった手紙。
ウイスキーのように芳醇な、角の取れてまろやかになった文字列を口に含む。
自分に宛てたものではない手紙たちの気楽さもまた、箱入りのチョコレイトのように甘美である。
だがやはり、自分のためだけに大切に綴られた手紙は、何ものにも代え難い。
今日も白い皿の上に、手紙を一通。
そうして、Rはうっとりとため息をついた。
美しい便箋。
シンプルな白い紙ではあるが、それは薄く軽く、そしてふわりとしている。
インクは少し灰色を帯びた、冬の夜のようなブルーブラック。
取り立てて美しい筆跡ではないが、四角四面に緊張し、右に上がった払いの長い文字は、受け取り手が読みやすいように丁寧に記されている。前歯を立てれば、きんとした冷たさを感じるか、それともほろろと柔らかに崩れるのか。
赤い舌先で、下唇をなぞる。
はっと我に返り、誰にも見られているはずがないのに姿勢を正して、こほんと咳払いをした。磨き上げた銀のフォークとナイフを、綺麗に塗った爪の先で触れてから取り上げる。
封筒の端を薄く削り取って、まずは一口。
Rは顔を僅かにしかめた。
自分のためによく選び抜かれた封筒だと思ったのに、これは、ありものを使ったやっつけ仕事だ。
女の匂いがする。
ため息をついて、グラスの水で飲み下した。
今日のワインは、1970年ものの葉書を使った赤と迷ったのだが、手紙の味だけを堪能したかったので、水にした。口の中に残る人工的な香水の匂いに、今からでも栓を抜こうかと、出してあったボトルに視線を投げた。
手紙の差出人は、男だ。
手紙にしたためられているのは、別れの言葉。
お別れの手紙を味わう。そのためだけに付き合った男だった。
泣き顔がさぞ、美しかろう。その顔でしたためる手紙はさぞかし美味しかろう。そう思って声をかけた。
Rはいつも交際を求める際に、少なくとも月に一度は、必ず手紙を寄こすように約束を取り付ける。それは交友関係でも同じことだった。
面倒くさがる人も多いが、彼女の親友は遠い異国の地から、思い出したように手紙を送ってくる。持つべきものは友である。
大抵は手紙が面倒臭くなって、男たちも友人も去っていく。
だが、また捕まえれば済む話だ。幸い、Rは美しかった。
そして、手紙のことさえ除けば、人当たりもよく、人に好かれるたちだった。
だが、手紙をくれるかどうかだけで相手を選ぶその一点が、他の全ての美点を台無しにしていた。そこに、愛はないのだ。
あるのは手紙への愛だけ。
だからどうってことはない。冷めた目付きで皿に寝そべる封筒を見下ろした時、電子音がした。
Rはたちあがって、チェストの上に放り出しておいたスマートフォンを手に取る。
一通のメールが届いたところだった。
手早くメールを開く。
電子メールはぴりぴりとしたスナックの味がする。
差出人のアドレスを指でなぞり、Rは唇を寄せた。
スマホを斜めにすると、するりと文字列はガラス面を滑って落ちてくる。
安っぽくて気のない、硬くごりりとした文字列を咀嚼した。その瞳が、うっとりと収縮する。唇が、ほうっと、薄く吐息を零す。
たかだか数行の電子メールだというのに。
Rは満足げに目を細めると、皿の上の手紙をゴミ箱に滑り落として、ソファに沈み込んだ。
真っ白なテーブル、山盛りの手紙が乗った白い皿。
ワイングラスと、ナイフとフォーク。
Rは他人の愛を食べて暮らしている。
だが、どれを食べても、満たされない日々が続いた。
どれだけの愛の言葉を綴った手紙も、煮えたぎった恨みを込めた便箋も、軽やかな好意を記した葉書も、なにを食べても味がしない。
全ては舌の上を滑って、闇雲に腹の底で澱になって淀むだけ。
Rの視線は、ずっとスマートホンに注がれている。
手紙から文字を剥がす間も見ているものだから、ナイフの先が皿を引っ掻き、厭な音を立てた。フォークの先で突き回した文字はばらばらに崩れて滲み、皿を汚している。
ぴりり、とスマートフォンが鳴る度に慌てて手を伸ばして、年代物の葉書と切手で作られたワインを床にぶちまけたことよりも、差出人が数少ない友人だったことに盛大にしょげた。
あの人からの、メールがこない。
ただそのことが、Rをひどく打ちのめした。
男はRのことをよく知っていた。
先日、Rが封筒の端だけ囓って、開けもせずにゴミ箱に捨てた手紙を出した憐れな人の友人だったからだ。またその友人たちの幾人かも、Rの空腹を満たすだけの役割だった。
Rの噂は友達内に広まっていた。
恋人も友人も手紙のために、次々と乗りかえていく。
食事と娯楽と嗜好のために捨てていく。
口に合わなくなった食材に見向きもしないRとは違って、人は友人を恋人を大切にするのだと、Rは知らなかった。
だから、どれほどRが美貌と微笑みとうわべだけの優しさで誘おうとも、いまさら男が靡くはずもない。
ましてや、打ちひしがれている友人を見かねてなんとかRとの話の場を設けようと出したメールにも、返事の一つも返ってこないのだ。
Rは愛しい男からのメールを禄に読みもせず、味わい、恍惚となっていただけだったから、酒場で甘い呼びかけと共に肩に置いた手をひどく冷たく振り払われて、茫然とした。
何がいけなかったのか、誰も教えてはくれなかった。
Rは自分にできることをした。
町中を歩き回り、いちばん上等な便箋と封筒を買い求め、インクを選び、手紙をしたため、読み直してそれを破り捨て、また便箋を選ぶところからやり直した。
幾度も幾度も、書いては破り、選んでは自信を失い、迷った挙げ句に切手を貼って、何日も小さな鞄の底に入れたまま、投函できずにいた。
ようやくのことで投函した手紙には、返事が来なかった。
いつの間にか、籠に盛ってあったダイレクトメールは、食べ尽くしてしまった。
抽斗に残っていた美しく真摯な手紙たちを久しぶりに口にすると、その優しい口触りと腹の底を温める味に思わず涙が零れた。
少しずつ、少しずつ、大切に手紙を食べた。
最後の一通を食べ終えた時、Rはシンプルな白い葉書に短い詫びの言葉を綴って、月夜の晩に投函した。
真っ白なテーブル。何もない白い皿。
空のワイングラスと、ナイフとフォーク。
食べるべき手紙も愛も、もうなかった。
白い皿に乗せられた、一通の手紙。
ナイフとフォークを使って、紙から文字をそっと剥がす。
選ばれた紙、探された文字、整えられたインク。極上の味。
大事にとっておいた、あなたからの手紙。
一文字、一行を、剥がして食べる。
男からの最初で最後の手紙からは、Rからの謝罪を受け入れるという簡素な安堵と、ほんの僅かな優しさが胸の奥に滲んだ。
これが最後の一文字。
夢中で食べてしまった。
最後まで取っておこうと思ったのに、いつまでも残していては腐ってしまう。
Rは皿の上を見た。
月夜に送った手紙に返ってきた短い返事は、少しずつ大切に食べてきたが、あっという間になくなってしまう。
古書店で買い込んできた古い手紙も、先日食べ尽くしてしまった。
Rは最後の一欠片の文字を、そっとフォークで掬い上げた。
私は飢える。
死んでしまう。
あなたからの手紙。これが、最後の、手紙。
Rは呟いて、それを食む。
少しずつ、ゆっくりと咀嚼する。
手紙のためだけに付き合った人たちが、ぐるぐると頭の中を、胸の底を掻き混ぜる。
手紙のためだけに彼らに微笑んだのに、手紙はどれもRへの愛と滋養に満ちていた。
Rは最後の一口を飲み下す。
空っぽのテーブル。
空っぽの私。
「私はもう、金輪際、何も食べない」
これが最後の食事。
もう、他の誰かの言葉など、欲しくはなかった。男の言葉で腹を満たし、このまま、死んでしまいたかった。
もう、何も欲しくない。
あなたの言葉以外はなにも。
これが最後の手紙。
これが、最期の晩餐。
報いを受けたの。
「さよなら、あなた」
Rの涙はワイングラスを満たして溢れ、空っぽの皿にぱたぱたと落ちた。
真っ白なテーブル。何もない白い皿。
ワイングラスとナイフとフォーク。
誰もいない部屋の床には、崩れた愛の言葉たちが散っていた。
お別れの手紙 中村ハル @halnakamura
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