後編
お気に入りのブランドの店で散々迷って、結局新しいカバンを買う。
あちこち見て回って、佳織の買い物にも付き合って。
今夜の食事をどうしようか、女二人できゃっきゃと騒ぐ。
でも、騒いでいる間も私はちらちらと、鳴らないスマホを気にしている。
充電用のケーブル、買った方がいいのかな。
電池が切れる前に一度着信があれば、それだけでいいんだけど。
お昼に入ったパスタの店で、とうとうその時が来た。
ジェノバソースの緑色をくるくる巻いていたら、とうとう、かばんの中から音がした。
慌てて取り出して、本当に心底がっかり。
メールの送り主はお母さんで、文面もこれ以上ないくらいシンプル。お誕生日おめでとう、たまには帰って顔を見せてね。たったこれだけ。
口の中に溢れていたシーフードの味が、一気になくなっていく。
代わりにしょっぱい涙が目に溜まってきて、泣くもんかとこらえて、でもじわじわ出てくる感覚にとうとう負けてハンカチを取り出して拭いて、拭いたらまた溢れてきて、悔しくて、悲しくて、でも堪えて。
「どうしたの、メール誰から?」
「おかあさんから」
佳織はフォークを置いて、手をそっと伸ばしてきた。向かいから伸ばされたその手は私まで届かない。どこに落ち着こうか迷っている指先が揺れて、ああ私は今慰められようとしているんだなと思ったら、自分がとても可哀想な気分になってきてますます涙が出てきた。
鼻を啜る音、震える肩、力いっぱい閉じた唇。
なんて悲しい誕生日。
「ちょっと」って席を立って、洗面所でしばらくグスグスと泣いた。
化粧を直さなきゃ。
湿ったハンカチを握りしめて個室から出ると、ちょうど佳織が洗面所へ入って来た。自分のと私の荷物を持って、レシートをぴらぴらと振って見せる。
「今日は私のおごり」
お礼を言って、すっかりまだらになった顔を直していく。
頭が真っ白のまま、適当に化粧を直して、お店を出た。
しばらく歩いたところにあったカフェの前で佳織が立ち止まって、アイスコーヒーを二つ買ってくれて、近くにあった小さな広場のベンチに並んで座る。
たくさんの人が目の前を通り過ぎていく。
私たちと同じように女同士もいれば、カップルもいる。時には家族連れがベビーカーを押しながら通り過ぎていって、誰も彼も本当に腹立たしい程に楽しそうに見えた。
「ナンパでもする?」
驚いて佳織の方を向くと、呆れたような顔で小さく笑っている。
「ナンパなんかしないよ」
「世の中の人間はみんな不幸になれ、みたいな顔してたからさ」
「えっ」
慌ててベンチにコーヒーを置いて、顔をぺちぺちと叩く。そんな私を、佳織はまた笑う。
「ずっと悠君一筋で来たじゃない、歩美は」
出会ってから九年、付き合い始めて八年、一緒に暮らし始めて、七年。
「悠君が、すべての男の『当たり前』じゃないんだよ」
佳織は広場の先、花壇の隣に立っている男の人を指差して続けた。
「あそこに立ってる人、カッコいいよね。背も高いし、服もセンスいい。季節にあったコーディネートしてるよね。ああいうの出来る人っていいと思う。男って割と細かいところ気にしないじゃない。サンダルにちょっと長めの靴下履いて、その上にハーフパンツ選んじゃったりとか。夏なのに、半袖だからって枯れた色の厚い生地の服着たりとかね」
そういうの悠もやるなあって、私は思う。家着だからって、上下ともに真っ赤な服を着ていたりとか。せっかく新しく買った流行りの服を着たのに、真っ白い男子中学生みたいな靴下を履いて台無しにしていたりとか。
「多分さあ、誕生日にはサプライズで花束とか送ってくるよ、あの人は。そういうマメな男なんじゃないかな。あっちに立ってるちょっと若い子は、クリスマスの為に一生懸命バイトとかしちゃうタイプに見える」
この広場は待ち合わせ場所になっているのか、携帯を握りしめて立っている人がちらほらといた。佳織の指差した黄色いポロシャツの男の子が急に笑顔を浮かべて、私はどきっとする。
笑顔が向けられている先から長い髪を揺らした女の子が現れて、二人は手を繋いで去って行く。
あんな頃が私たちにもあったはずだった。
噛みしめる私の前を、大きなお腹の女性が通り過ぎていく。
思わず、かばんを引き寄せて抱きしめた。
中に入ってるスマホはまだ鳴らない。メールはお母さんから来たっきりで、着信を知らせるランプは光っていない。
「あそこの人もいいねえ」
黄色いポロシャツ君が去って、代わりに現れたスーツの男性を佳織は指差している。
「スマートで、スーツなのに全然暑苦しくないね。あの腕時計もいいな、よく見えないけど高そう」
腕にきらりと輝くゴールド。確かにあの出で立ちから考えると、その辺で数千円くらいで売られている腕時計ではないだろう。
でも、きっとあの腕時計には通信機能なんてついてない。
昨日の夜渡された通信機は、二つセットでいくらだったんだろう?
そういえばあれを、私はどうしたんだっけ。
苦い思いでかばんの中をのぞくと、分厚い腕時計は底の方でしょんぼりとしていた。
「なにそれ」
「昨日話したでしょ、悠が嬉しそうに渡してきた、トランシーバー」
子供っぽい人だもんね、と佳織は呟く。
そうだね、と私は頷く。
そういうところも好きだったはずなんだけど。
下らないことでけらけら笑う、あの明るい顔が好きだったはずなんだけど。
でも仕事の時は真面目で、そんなギャップに惹かれたはずだったんだけど。
「どうする?」
佳織に問われて、私はベンチに置いていたアイスコーヒーに手を伸ばした。たくさん入っていた氷はすべて溶けて、カップ越しに感じるはずの冷たさはもうなくなっている。
「待ってるだけじゃなにも変わらないんじゃないかな」
また、唇がぐにゃっと歪んだ。泣きたい気持ちを堪えた、不細工で哀れな顔になっているんだろう。
そんなこと、言われたくない。
そんなの、考えたくない。
そんな現実、見たくない。
はあっと強く息を吐き出して、涙を無理やりひっこめていく。
そんな現実逃避を、ずっと続けてきたんだ。
学校を卒業して、会社に入って、働きながら、何度結婚式に招待されただろう。
先輩、同級生、いつの間にか後輩、田舎で暮らしている妹。
「次は歩美の番だね」って、いつの間に言われなくなったんだろう?
式から帰ってきてから何度、悠に「素敵だった」と話しただろう。
買った祝儀袋の枚数は、どのくらい? 赤ちゃんの誕生祝だって、もう何回用意した?
みんなと同じような幸せが欲しい。
私がそう思ってるんだと、悠にわかって欲しかった。
感じ取って、与えて欲しかった。
でも、それじゃ駄目だったんだ。
思わせぶりなだけじゃ通じない。
本当はそんなこと、とっくにわかっていたのに。
夕方になって、私は自分のアパートの前に立っていた。
ディナーも奢るよと言ってくれた佳織にお礼だけして、帰ってきた。
築五年の、こじゃれた外装のアパート。一緒に暮らし始めて二年経って、契約の更新をどうしようか迷った時にちょうど見つけて、高い敷金を払って住み始めた。
あの時の私ははっきりと「新婚気分」だった。
付き合い始めて四年、一緒に暮らして二年。お互い就職も出来て、貯金も少しずつだけどちゃんとして、朝はお弁当を作って、二人分の洗濯をして、夜は愛を確かめ合って。
そんな日々を過ごしたんだから当然、ステップアップがあるものだと思っていた。結婚情報誌を部屋の隅にさりげなく置いておけば、それに気が付いた悠がサプライズで花束なり指輪なりを用意してくれて、何処かタイミングのいい記念の日にプロポーズしてくるものだと思っていた。
可愛らしい乙女心に、今は失笑しか出て来ない。
世の中のすべての男が、そんな風に気が利いている訳じゃないんだ。ドラマの見過ぎ、漫画の読み過ぎ、そんな気障な外国人みたいな真似、日本の男には出来ないって考えるべきだった。
二階の一番奥にある、二人の家のドアの前に立って、私は昨日受け取った腕時計の文字盤を開けるとスイッチを入れた。
「こちら永原歩美。外山悠二、応答せよ」
何度か同じ呼びかけを続けていると、ぷつっと小さな音が聞こえた。そして続く、能天気なこんな声。
『こちら外山! 永原隊員、無断外泊の理由を述べよ!』
これまでに何度もやらされた上官と部下ごっこ。感情を抑えた口調に笑いが漏れる。本当に情けない気分だけど、私も気持ちを抑えてこう答えた。
「外山隊長が私の誕生日を忘れて、くっそくだらない通信機で遊ぶことを強要してきたからです!」
ドアの向こうで、がたんと音がした。悠はすぐそこ、玄関に立っているらしい。
「今日で三十歳になりました。隊長、七年も一緒に暮らしてます! いい加減覚悟を決めて、結婚して下さい!」
ちっぽけな乙女のプライドをかなぐり捨てた、一世一代のプロポーズ。
心臓がばくばく鳴っている。
足元から、震えが頭のてっぺんへ向けて走り抜けて行く。
けれど、沈黙。
続く、静寂。
結局十分経って、応答なし。
「わかりました、隊長、これで……お別れです!」
腕時計に向かって怒鳴りつけて、ドアを開ける。中には慌てた表情の悠二がいて、私の顔を見て、多分既にもうおろおろしていたのだろうけど、ますますおろおろし始めた。
自分の通帳と印鑑と、何日か分の着替えを引っ張り出してトランクに詰めていく。
「歩美」
後ろからやっと声をかけてきた悠二に、私は鋭い視線を向けた。
今ならまだ間に合う。言って欲しい。私の求めている
願って、願って。願い続けて、五分。
結局、悠二の口からはなんの言葉も出て来ない。
「馬鹿!」
左腕にしていた腕時計を乱暴に外して、悠二の顔目掛けて思いっきり投げつけた。当たったかどうかは知らない。
トランクを掴んで、ドアを思い切り大きな音が立つように乱暴に閉めて、家を出た。
スーパーで大量にアルコールを買い込んで、結局私は佳織の家に戻っていた。
散々飲んで、愚痴って、くだ巻いて、最後はトイレで泣きながらげえげえ吐いた。
次の日お昼になってからようやく起き出して、借りたパソコンで物件を探し、良さそうな場所をチェックし、引っ越し業者も何処がいいか比較検討をした。
友人の部屋に図々しく居候を決め込んで、五日目の水曜日。
せめて夕食でも作ろうと献立を考えながら会社を出たら、悠二が立っていた。
駅前のカフェ。ふくれっつらの私の前には、くたびれた顔の悠二が座っている。
見たことのない神妙な顔つきでアイスコーヒーをちびちび啜って、しばらくの沈黙の後ようやく、こう切り出した。
「ごめん、誕生日、忘れてて」
本当に申し訳なさそうに、体を小さく縮めて、悠二は上目遣いで私を見ている。
「今、何処にいるの?」
「そんなの、知る必要ある?」
とげとげの私の声に、悠二は目を伏せる。でも、今度はあまり間を置かず、顔を上げて言った。
「あるよ。あるでしょ。……あると、思うけど」
あるかなあ、と私は呟いた。
私は悠二のなんなの? と、問いかける。
誕生日なんかすっかり忘れてて、何歳かなんて気にもしていない、家を飛び出して行ったというのに電話すらかけない相手って一体なんなの、と。
「……彼女でしょ」
顔色を伺うように話す「彼氏」に、私の答えは「そうだね」、だけ。
悠二はまたちょっとだけアイスコーヒーを飲んで、大きく息を吐き出した。
こんな風に、真正面からぶつかり合ってくるべきだったんだろう。
今更気が付いたけど、遅すぎるかな、と思う。
だけど心の片隅に、遅かったけど、気が付いて良かったなと思っている自分もいる。
散々飲んだくれて、文句言って、佳織に背中をさすってもらっている間に、たくさんのことを思い出していた。
出会った時、一緒に働いていたバイト先、告白された日、二人で旅した観光地、いろんな二人の「初めて」の色々。
そのたくさんの中で、あの時思ったことが、私の一番の本音なんじゃないかと思ったんだ。
惨めな気持ちで座っていたベンチ。たくさんの人が待ち合わせをしていたあの広場で見かけた、カッコいいスーツの男の人。
彼のつけてる高級な時計よりも、私は多分、くだらないおもちゃみたいな通信機の方が、好きなんだって。
だけどやっぱり、七年は長い。
「三十歳」はやっぱり重い。
今日が最後のチャンス。二人の将来が決まらないなら、もう終わりにした方がいい。
結婚してって言ったのに答えてもらえないような仲なんて、これ以上続ける意味なんて多分、ない。
「ホントにごめん。これ、遅くなったけど、誕生日プレゼント」
おそるおそる、悠二は小さな箱を取り出して、テーブルの上に置いた。
ぴこん、と眉が上がってしまう。
小さな箱には、綺麗な赤い包装紙が巻かれて、金色のリボンがかかっている。
一瞬、地球大まで膨らむ期待。でも、すぐにしぼんでぺしゃんこになった。
私の望んでいた物なら、こんな風にラッピングしないだろうと思うから。
それでもどこかに希望を感じつつ、私は無言のままリボンをほどいた。
デパートのシールをはがして、包装紙から出てきたのはやっぱり違う。この箱は、大きすぎる。
「ははっ」
プレゼントの中身は腕時計だった。おしゃれなピンクゴールドの盤面には、スワロフスキーのクリスタルがあしらわれている。バンドはピンク色の革製の物で、安っぽい印象はまったくない。多分、これまでに悠からもらったものの中で、段違いに高い物だと思う。
「アホかーっ!」
私が浮かべた笑顔にすっかり安心していた悠二は、この怒声に驚いて体をすくませた。
「ここは、指輪買ってくるところでしょうがーっ!」
お構いなしに叫ぶ私にビビっているのか、答える声はとても小さい。
「だって、サイズとかわかんないし」
気の利かない返事に、私はまた怒りを爆発させる。
「だったら一緒に買いに行こうとか言えばいいでしょうがーっ!」
これが七年間溜めてきたパワーの効果なのか。
「はいっ!」
全然、止められない。
「結婚する気があるのかないのか」
ばんっとテーブルに手をついて立ち上がり、こんなことまで聞いてしまう。
「そろそろハッキリ答えろや!」
「あります! はい、あります!」
悠二の返事も、ハキハキしたものになっている。
「本当だろうな!」
私もなんとなくノリで、軍隊風になってしまったりして。
「本当ですっ!」
悠二はとうとう立ち上がって、直立不動になって叫んだ。
「俺と、結婚して下さい!」
何故か、隣のテーブルにいたお姉さんが手を叩き始めて。
拍手の輪は、一気に店中に広がっていった。
二人で顔を真っ赤に染めて、逃げ出すようにして店を出る。
早足で一緒に道を歩いていたら、悠二が手を伸ばしてきて、私の右手を掴んだ。
これでお終い、許してやらないと思っていたはずなのに。怒りはあっさりと溶けて、消えていく。
進んで行った先にあった宝石店は閉店三十分前で、よく考えたら次の日にじっくり選べばいいのに、私たちはひどく急いで指輪を選んだ。そんなに高くもない、小さなダイヤのついたシンプルなデザインの指輪。箱にはいれないで、左手の薬指につけたまま店を出る。
佳織に「今日は家に帰るよ」とメールを送って、店を出たらまた手を繋いで。
ちらりと見上げた横顔はなんとなく、本当になんとなくなんだけど、今までよりも少しだけ大人っぽく見えたような気がした。
「頼りなくて気の利かない年下の彼」からは卒業してくれるんだと、信じてもいいのか。ほんの少し不安はあるけれど。
私の視線に気が付いて、悠が笑顔を向けてくる。
悠を子供っぽいなんて言えやしない。私も相当に単純だ。
久しぶりに笑顔を見られたってだけで、どうしようもなく幸せを感じちゃっている。
最低な誕生日だったけど。
こうして私は、「三十歳」になった。
Around 30 澤群キョウ @Tengallon422
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