Around 30

澤群キョウ

前編

「なんなのそれ、馬鹿じゃないの?」


 驚くほど冷たく響いた、自分の声。こんなにも冷え切った感情のない声を、生まれて初めて聞いたと思う。

 目の前で、ゆうも驚いた顔をして固まっていた。せっかく上機嫌で帰って来たところに思いっきり冷水を浴びせられた訳だから、これは仕方ないことだろうと思う。


 でも、私だけが悪いわけじゃない。

 だから、言い訳をさせて欲しい。


 私の名前は、永原ながはら 歩美ふみ。二十九歳。……明日が誕生日で、三十歳になる。

 目の前にいる男は、外山とやま 悠二ゆうじ。一緒に暮らしている「彼氏」で、二十七歳。


 付き合い始めてもう八年。

 一緒に暮らし始めて、もう七年。


 学生時代にバイト先で出会って、お互い田舎から出てきた一人暮らし同士で、アパートの契約更新をどうするか迷っている時に、じゃあ一緒に暮らしちゃおうか、なんて言って。

 それで、同棲を始めた。ちょっと子供っぽいところもあるけれど、可愛い顔で、いつでも明るい彼が私は好きだったから。一緒に暮らそうって言われた時には嬉しかったし、ワクワクしたものだった。大人になった気分だったし、バイトだって一気に楽しくなった。


 就職活動をしたり、社会人になって色々不慣れなことがあったりと、ぴりぴりした時期が何回もあったけど、なんとか乗り越えてきた。乗り越えて、八年も経った。


 明日はとうとう、三十歳の誕生日を迎える。

 一緒に暮らし始めたから、誕生日はこれまでに何回も迎えていたけど。

 ああ、とうとう、三十だあって、平静でいたかったのに、平静を装っていようと思っていたのに、気にしないでいるつもりだったのに、でも、どうしても頭の中には「30」という数字がビックリする程大きく、主張してきていた。


 これまでに何度も何度も諦めてきた。何度も心の奥の井戸に放り込んで、蓋をして見えないようにしてきた、アレ。乙女の夢。女の子の憧れの魔法の言葉。

 でも、ただの「諦めたてい」に過ぎなかった。

 むしろ見ないでいた分、それは心の中で大きく成長していたようで。


 だから今日のお昼に送られてきた彼からのメールの、「すごくいいもの買った!」という言葉に期待してしまっていた。それはてっきり、二人の仲が永遠になる為の「誓いの何らか」だと思っていたから。



「なんだよ、馬鹿って。酷くない?」

 彼が嬉々として見せてきたのは、腕時計だった。同じデザインで、色違いの二つの腕時計。安っぽいデジタル表示の時計は横のスイッチを押すと文字盤が開いて、トランシーバーになるらしい。

「こういうの子供の頃からずっと欲しくて、やっと見つけたんだけど」

 悠は頬を膨らませて、私に赤い方の腕時計を突き出してきた。

 もしかして。

 文字盤を開けたら、そこに私の求めているなにかがあるかもしれない?


 一縷の望みにかけて、それを受け取る。

「つけてみて!」

 悠は笑顔だ。嬉しそうに自分の腕に青い腕時計を巻いて、うきうきした様子で私を見ている。

 左腕の手首にベルトを巻いていく。本当に安っぽいゴムみたいな素材のバンドを巻いて、留める。やたらと大きくて分厚い腕時計。満面の笑みの悠をちらりと確認して、文字盤の横に取り付けられたボタンを押す。


 そこにはなんにもなかった。小さな穴がいくつも並んでいるスピーカーらしき部分があるだけで、私が望んでいるものなんてカケラもなかった。


「こちら外山です! 応答せよ、応答せよ!」

 悠は楽しげにこう繰り返しながら、部屋の外へと走っていく。


 力が抜けて、床にへたりこんでしまった。

 腕時計と部屋の向こうから、悠の声が二重に響いてくる。

 でも私はなにひとつ、応答なんてできなかった。

 仕事から帰ってきた時の状態のままのカバンを掴むと、家から飛び出した。




「ホントにただの時計っていうか、トランシーバーだったわけ」

 信じられないでしょ、とグラスをテーブルに叩き付ける私に、佳織かおりは顔をしかめている。


 家を飛び出して、早足で駅に向かう間に、アドレス帳に登録している友達にかたっぱしからメールを送った。誰か、今夜泊めてくれないかって。プラットホームのベンチに座ってコーヒーをすすること、七分。一番最初に返信をくれた佳織の部屋で、私はもう既に酔い始めている。

「わかってたでしょ? 悠君の『いいもの』が、あんたの期待してるようなものじゃないことくらい」

 ため息交じりの冷静な友人の声。学生の頃からの付き合いの佳織は、私についても、悠についてもよく知っている。これまでの私たちの歴史を、私の次によく知っている人物だ。多分、悠よりも知っているんじゃないかと思う。

「だからってさあ……」

 鼻水と、ため息と、涙。あんまり綺麗とはいえない分泌物と一緒に出てきた私の声もまた、我ながら可哀想に思える程みじめったらしいものだった。


 佳織の言う通り、わかっていた。誕生日プレゼントが当日に用意されていたのなんて、最初の三年だけ。あの頃はサプライズだなんだと、私の趣味とはまったく違う的外れな物ばかり贈られていたけれど、それでも嬉しかった。彼が私の為に考えて、一人でやってくれたんだから。


 二人の暮らし。

 恋人同士の記念日、誕生日とかクリスマスとか、付き合い始めて何年目、とか。新鮮な気持ちが薄れていくにつれ、少しずつ「大切」じゃなくなっていく。たまに贈り物を用意されても、趣味とは違うからって、ため息をついてしまったりした。彼の頬がつまらなさそうに膨らんで、私もセンスがないんじゃない? なんて嫌味を言ったりして。

 小さな喧嘩を数えきれない程してきた。


 でも、家に帰ればいる。私が、もしくは、悠が。そのうち小さな怒りなんてすっかり忘れて、元通りの生活に戻っていく。いちいち大喧嘩をする訳でもなく、謝る訳でもなく、仲直りをする訳でもなく――。


「もう三十だよ……?」

「私に言ってどうするのよ」

 佳織の声は冷静そのもの。同じ量のアルコールを飲んでいるはずなのに、いつも通りのクールな顔のままだ。


 そう、もう、三十なんだ。明日で。長い長い同棲生活を続けて、いつの間にかもう、三十歳なんだ。二十代は今日で終わり。時の流れは絶え間なく続いていて、二十九年と三百六十四日と二十三時間五十九分と、三十年の間にどれ程の差があるのかと言われれば、それはもうまったくもって「ない」んだけれど、それでも女にとって「三十」という言葉がどれ程重い物か!

「はいはい」

 私の熱い主張はたったの四文字で一蹴されてしまう。


 突っ伏した佳織の家のテーブルは、うちの物と違っていて綺麗だ。オシャレな北欧系のデザインのクロスがかかっていて、余計な物はひとつも置かれていない。飲みかけのペットボトルとか、スナック菓子の袋とか。そういう物が常に置かれている私たちの食卓とは、全然違う。


「ちょっとくらい、期待するじゃない……」

 そこにぼろぼろ涙を垂らしながら、私は呻いた。


 だって三十なんだ。繰り上がってしまうんだ。新しい十年の始まりなんだ。もう、二十代ですとは言えなくなるんだ。


 この何年かの間の記念日について、特別なことがなにもなかったのはもういい。私は一生懸命、悠の為に色々と用意してきたけど、それに対して「わーい」で済まされたのも、もういい。男なんてそんなもんだって、みんなが言う通りだっただけのことなんだろうから。


 だけど、この大きな節目まで来て、完璧にスルーしてくるっていうのは一体何なんだろう。そう思ってしまう。いくら二人の仲がもうフレッシュじゃなくなったからって、恋人同士というよりはもうお母さんと息子みたいな状態になってしまっているからって、だからってだからって。


 これだから女は面倒臭いんだよなって、男は言う。

 面倒臭いって思われたって、かまわない。嫌そうな顔をしても、そんなのしったこっちゃない。

 大切な「彼女」だっていうなら、誕生日くらい覚えておいて欲しい。もしも忘れているんだったら、今からでも「しまった」って思って、電話くらいかけてきてもいいと思うんだ。



 

 気が付くと私はソファの上で寝ていて、カーテンの隙間から朝の光が入ってきている光景に慌てて飛び起きた。

 土曜日で、仕事はない。だから、かばん一つで飛び出して友達の家に転がり込んでいる。

 問題は、かばんの中にある携帯だ。寝ている間に何回着信があっただろう? 何処に行ったのか、心配して、夜の間ずっと街を探し回ってくれていたんじゃないか。そんな期待を心の奥でそっとしながら、足元のかばんに手を伸ばす。

 わかっていた。心の中の至ってクールなもう一人の私が、心配なんてしている訳ないでしょ、って既に言っていた通り。来ていたのはよく行くお店のセールのお知らせだけで、悠からは電話もメールも来ていない。

「どう? いつも通り、なにも来てなかった?」

 しかめっ面のまま振り返ると、佳織が水を持って立っている。私の顔を見ると、やれやれ、といった表情で小さく笑って、幾何学模様がプリントされたグラスを差し出してくれた。


「どうせ、夜になれば帰ってくるって思われてるんだよね」

 昨日の夜散々愚痴をこぼしたテーブルには、新しいクロスがかけられている。

「実際帰っちゃってるわけだしね」

 佳織の言葉に頷くしかない。些細な喧嘩をする度に家を飛び出すけど、結局帰る場所が変わる訳じゃない。服もアクセサリも化粧品も靴も、全部「私たちの家」に置いてあるわけだし。だから、帰るしかない訳で。

「今回は帰らないでおけば?」

 佳織の言葉に、体が固まる。

「どうやって? だって、服とか全部家にあるわけだし」

「いつもそう言ってちゃんと帰るから、向こうがつけあがるんじゃない」

 ちょっと拗ねてるだけって思われてるんだよ。

 佳織の言葉に、私はますますうなだれるしかない。

「喧嘩した後、全部うやむやにしてるからここまでズルズル来たんでしょ」



 的確な言葉って、心に刺さって、本当に痛い。

 そうなんだ。

 私は、嫌われたくなくて、悠を責めなかった。

 ちょっと我慢すれば済むんだって思っていた。

 生活費だって、最初に決めた通りに折半してる訳だし。

 浮気をされてる訳でもない、女を連れ込んだりしない。

 飯がまずいと文句を言われたこともない。


 私たちの家。二人で住んでいる狭いアパートは、私の生活の基盤になっている場所だ。そこを壊したくなかった。悠が出ていくような事態に、なって欲しくなかった。 


 とんでもなく悪い出来事なんて、二人の間にはなかったから。

 悠を嫌いだと思ったこともなかったから。

 多分、悠も、私を「嫌い」ではないんだと思うから。

 気が合うと思ったから、見た目も割と好みだったから付き合い始めて、信頼できると思ったから一緒に暮らし始めたんだから……。


無計画ノープラン過ぎたんじゃないのかな、あんたたちの生活って」


 また刺さった。


 佳織はクールで、自分の恋愛事情について全然話さない。他人にも、あれこれ聞いたりもしない。

 だけど、話せばじっくり聞いてくれる。無駄に他人に垂れ流すこともしないから、私はついつい、彼女に何でも話してきた。


 この七年間の私たちの軌跡。

 だらだらとして、区切りのない年月。他人から見た感想はずばり、「無計画」なんだろう。


「歩美はどうしたいの? 三十になっちゃったって言うけど、人間誰しもいつかは三十になるもんだよ」


 御尤も。そういう佳織も、あと三ヶ月で三十歳になる。


「本当は嫌なんでしょ、だらだらこのまま、けじめもつけずにいっちゃうのは」


 未婚、晩婚、離婚。もう、なにもかもが珍しくなくなった。シングルマザーも再婚も、ついでに高齢出産も。なんでもありの世の中になったけど。でも――。


 心の中にいる私が、両手を強く握りしめて叫ぶ。

 咄嗟に耳を塞いで、私はその叫びを聞こえないようにした。


「……今日はぱーっと、お祝いしようか、歩美」

「え?」

「誕生日なんだから。三十だよ。三十年間元気に生きてきたお祝い、ちゃんとしに行こう。付き合ってあげるから」


 シャワーを浴びて、借りた服に着替えて、昨日のまんまのカバンからお弁当箱を出して洗ってから、私は佳織と一緒に家を出た。

 

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